後編
結局、その日の夜は遅くまで話し合う羽目になった。
いや、最初は本当に財政支援の条件を詰めるだけのはずだったのよ。
それがいつの間にか、机の上にはゼールラント全土の地図が広げられ、税制、行政組織、産業規制、借入金の一覧まで積み上がっている。
完全に話がおかしな方向へ進んでいた。
「統合するなら、債務はこっちでまとめて引き受ける」
アルベルトが地図上のゼールラントを指でつつきながら宣言した。
今はエミール殿下もいない。
二人きりなので、さっきまで抑えていた前世の言葉も遠慮なく飛び交っていた。
「その代わり、PMIもこっち主導ですね」
「当然だろ。ガバナンスを握らずに金だけ入れるのは愚の骨頂だ」
「行政、税制、流通。オペレーションもほぼ全部組み直しですよ?」
「もちろん織り込み済みだ。中途半端に今の仕組みを残すなんて、後で問題が出ますと言ってるようなもんだぞ。買って終わりが一番まずいんだ」
「だから買うって言うな」
アルベルトの片方の口の端が上を向く。
ほんとに分かってるんでしょうね、この人。
「それで、いったい、旧王家はどうするんです?」
「そこなんだよな」
アルベルトは椅子の背もたれに深く身を預け、しばらく天井を眺めた。
いくら財政破綻寸前とはいえ、一国の王家だ。
明日から平民です、家もありません、では話がまとまるはずがない。
かといって、領地と権限を残せば、統合後も旧王家を中心とした別の権力構造が残る。
「肩書は残していいと思う」
「意外ですね」
「何が?」
「全部取り上げるのかと思ってました」
「俺を何だと思ってる?」
企業買収大好き元CEO。
とは、口に出さないでおいた。
「称号も、金も、住む場所も用意する。今までとそう変わらない生活ができる程度にはな」
「ずいぶん太っ腹ですね」
「その代わり、政治には二度と触らせない」
さらっと言った。
……やっぱり怖いわ、この人。
「行政権、徴税権、司法権。全部なし。役人への命令も禁止。旧臣を使って行政に口を出すのもなしだ」
「徹底しますね」
「中途半端に残す方が面倒なんだよ」
妙に実感のこもった声だった。
私は眉を寄せる。
「……前世で何かありました?」
「山ほど」
即答だった。
聞けば、買収した会社の元創業者や会長を、顔を立てるために顧問や相談役として残さざるを得なかったことが何度もあったらしい。
案の定、彼らは、元部下へ勝手に電話するわ、取引先に了承もなく約束するわ、人事に口を出すわ。
挙げ句、社員の方も長年の習慣で元社長へ確認を取りに行く。
「組織が二重になるんだよ。新しい責任者が決めても、『前の社長はこう言ってます』で全部ひっくり返る」
「うわあ……」
ものすごく分かるわ。
あなたも前世、相当苦労したんだねえ。
同情の眼差しで見てたら、チッと舌打ちされた。
解せん。
「だから決めた。これまで王家にかけてきたものはサンクコストだ。今さら取り返そうとする必要はない。肩書も残す。金もやる。家も用意する。その程度なら統合コストとして割り切れる。ただし、現場には二度と触らせない」
「前世の怨念がすごい」
「経験と言え」
「物は言いようですね」
軽く茶化してあげると、なんとなく闇落ちアルベルトから戻ってきたので、私は契約条件へ目を戻した。
旧王家には、南部の温暖な保養地に王家直轄の邸宅を用意する。
使用人も一定数つける。
社交費を含む十分な終身手当も支給。
旧王族としての称号と礼遇も保証。
表面だけ見れば、かなり好条件だ。
ただし――
邸宅はあくまで我が王家の直轄地にある建物の使用権のみ。
周辺地域への統治権は一切ない。
さらに手当、称号、邸宅の使用権は本人一代限り。
相続も譲渡もできない。
その辺りの大事なことは、後半の細かな条項にきっちり書かれていた。
「……アルベルト様」
「何だ?」
「この辺、もう少し大きく書きません?」
「なんでだよ。十分読めるだろ」
「そういう問題じゃありません!」
「全部書いてあるぞ?」
「だから、そういう問題じゃないって言ってるんです!」
アルベルトは納得できないという顔をした。
前世で絶対、契約書を端から端まで読むタイプだったんだろうな。
「それとエミール殿下は?」
「別枠」
やっぱり、そうよねえ。
別に信者だからってわけじゃないんだろうけど、話を聞く限り、ちゃんと仕事のできる人だって分かるからね。
アルベルトも当然、目をつけていたらしい。
「旧王族として養うんじゃない。働いてもらう」
「まあ、そうなるよね」
「現地の事情を知ってる。工房とも鉱山とも話ができる。役人にも顔が利く。何より現場を見る」
「つまり?」
「採用」
「採用って言わないでください。国の話をしてるんですってば」
「じゃあ任用」
そういう問題でもないんだけど。
まあ、これ以上言っても不毛よね。
ともあれ、翌日、本人を呼んで条件を説明することになった。
◇
「私が、ですか?」
エミール殿下は目を丸くした。
「そうだ」
アルベルトはいつもの調子で答える。
いつも通りにしてるだけなのに、なんでちょっと偉そうに見えるんだろ?
謎だ。
「統合後、この地方の行政を任せたい」
一国の第五王子に向かって、ずいぶん簡単に言うわね。
「もちろん、王子だから選ぶわけじゃない」
アルベルトが続けた。
「使えるから選ぶ」
「アルベルト様」
「何だ?」
「言い方」
エミール殿下は、なぜかちょっと嬉しそうだった。
……もう駄目だ。
完全に信者だわ。
「ただし、これは旧王族への待遇とは別だ」
アルベルトは居住まいを正すと、少し真面目な声になった。
「行政長官としての地位も、住居も、報酬も、すべて職務に対するものだ。辞めればなくなる。子供に自動的に引き継がれるものでもない」
エミール殿下は黙って聞いていた。
「兄上たちのように、何もしなくても一生暮らせる保証はない。それでもやるか?」
しばらく沈黙が続いた。
部屋の時計の音が妙に響いた。
やがて、エミール殿下が小さく笑った。
「今まで私は、王子というだけで衣食を与えられてきました」
どこか吹っ切れたような、穏やかで静かな声だった。
「けれど、その王子という身分のために、何かを変えたいと思っても口を出すことは許されなかった」
窓の外へ視線を向ける。
その先には、昨日私たちが通った職人街が見えている。
「働いた結果として、ここにいることを許されるのであれば。その方が、私にはありがたい」
アルベルトがにやりと笑った。
ほんと、人たらしなところあるわよね。
「決まりだな。いつから来れる?」
だから、採用面接みたいに言うな。
◇
ゼールラント王家との交渉は、数日後に行われた。
正直なところ、私はかなり緊張していた。
国をなくしてください。
言葉を飾ったところで、結局こちらが提示する内容はそれだ。
いくら財政が厳しいからって、
はい、そうですか。
で済む話ではない。
アルベルトも当然同じように考えていたらしく、何度も条件を見直し、想定される質問への答えまで用意していた。
……のだけれど。
「この邸宅を、我々に?」
ゼールラント国王が資料の最初の方にある絵を見て、目を輝かせた。
南部の保養地にある離宮の一つだ。
一年を通して温暖で、海も近い。
王族の避寒地として使われていた建物なので、そりゃ豪華である。
「はい。現在の王宮ほどではありませんが、十分な広さはございます」
「海が見えるのか?」
第一王子が身を乗り出した。
「ええ。天候が良ければ、バルコニーから一望できます」
第二王子まで嬉しそうだ。
……あれ?
私の想定していた交渉と違う。
「使用人も?」
「不都合の無いよう、一定数こちらで負担します」
「毎年の手当もこの額で?」
「生涯保証します」
ゼールラント国王が家族と顔を見合わせた。
明らかに空気が明るくなっている。
ちょっと待って。
そこじゃない。
もっと後ろ読んで。
そこに大事なこといっぱい書いてあるから。
統治権なしとか。
一代限りとか。
相続不可とか。
前世で部屋を借りた時も思ったけど、どうして契約書って、大事なことほど後ろの細かい条項に書いてあるのよ。
退去時の費用、更新の条件、禁止事項、などなど。
まあ、私は読むけど。
読むけどさ。
普通、そこまでちゃんと読む人ばかりじゃないでしょうが。
――だからこそ言いたい。
大事なところは、もうちょっと大きく書け。
私が念を送ってみたところで、もちろん届くはずもない。
「では、我々は今後、政務に携わる必要もないと?」
「ございません」
アルベルトがにこやかに答える。
「長年、王国を支えてこられたのです。今後はゆっくりお過ごしいただければ」
うわあ。
言い方。
ものすごく聞こえがいい。
嘘は一つも言ってないけど。
「父上、それなら――」
王子たちが相談を始める。
予想していた反論が、一つも来ない。
領地は?
徴税権は?
旧臣への指揮権は?
子供たちの待遇は?
何も聞かれない。
アルベルトの笑顔が、さっきから微動だにしない。
結局、交渉は驚くほどあっさりまとまった。
最終的な条文を確認し、ゼールラント国王が署名する。
王子たちも、それぞれ必要な書類へ署名した。
そして彼らが部屋を出て、扉が完全に閉まった。
しばらく、なんとも言えない沈黙が続いた。
あまりのイージーゲームっぷりに、私の脳の処理が追いつかない。
アルベルトが書類を見つめたまま、突然小さく呟いた。
「……ちょろい」
「言った!」
思わず指を差す。
「今、絶対言っちゃ駄目なこと言いましたよね!?」
「いや、だってさ。あいつら……」
次の瞬間、耐え切れなくなったのか腹を抱えて笑い始めた。
「はははは! ちょろい! 何だこれ! 前世の爺どもの方が百倍手強かったぞ!」
「アルベルト様!?」
何なのよ、急に!
「普通読むだろ! こういう契約書は! 特に権限と相続のところ!」
「あなた、自分で後ろの方に細かく書いたでしょうが!」
「書いてあるぞ? 全部」
「その理屈やめろ! だから言ったでしょう! 大事なところもっと大きく書けって!」
机を叩きたくなった。
「一代限り! 譲渡不可! 行政への介入禁止! 旧臣への指示も禁止! 重要事項ばっかりじゃないですか!」
「だから全部書いてある」
「文字が小さい!」
「読める」
「そういう問題ではないと、何度も言ったじゃないですか!」
「いーや、至極まっとうなリスクヘッジだぞ。プロとして完璧にやっただけだ」
アルベルトは、むしろ当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「どこがですか!」
「重要事項だけ親切にでかい文字で書いてくれる契約書なんて、前世でもほとんど見たことないぞ。むしろ揉めそうな特約や制限ほど、後ろの約款に細かい文字でびっしり書いてある」
「それを社会の常識みたいに言わないでください!」
私が睨むと、アルベルトは本気で不思議そうに眉尻を下げた。
「常識だろ?」
それを言われるとぐうの音も出ないが、気持ち的に騙した気になっちゃうんだよ。
そもそも、さっきまでの完璧な王太子はどこへ行った。
完全に前世の性格が出てるじゃないの。
ひとしきり笑った後、アルベルトは目尻に浮かんだ涙を指で拭った。
「いや、本気で警戒してたんだぞ」
「何をです?」
「権限を残せ。顧問として口を出させろ。息子にも地位を保証しろ。元の部下と直接話させろ」
指折り数えていく。
「前世じゃ、そういうのを延々と詰められた。本人たちも弁護士も契約書の隅まで読むしな」
「だから今回は先回りして全部潰した、と」
「そういうことだ」
なるほど。
だからあれだけ細かかったのか。
悪辣ではある。
悪辣ではあるんだけど、理由を聞くと妙に納得できてしまうのが腹立たしい。
「それにしても、やりすぎです」
「そうか?」
「そうですよ」
私が口をとがらせると、アルベルトはしばらくこちらを見つめていた。
それから、ふっと笑った。
さっきまでの悪い笑いじゃない。
「だから、リディアがいて助かってる」
「……何です、急に」
「俺一人だったら、たぶんもっとやる。馬鹿な経営者によって会社がダメになるくらいなら、徹底して排除する」
うん、それは容易に想像できる。
「でも、リディアは、俺がやりすぎるようだと必ず止めてくれるだろ」
「止めないとどうなるか予想もつかなくなるからです」
「それでもだ」
アルベルトが立ち上がる。
私の前まで来ると、そのまま両腕を回してきた。
「ありがとう、リディア」
……ずるい。
ほんとに、この人はずるい。
さっきまで「ちょろい!」って腹抱えて笑ってた人間と同一人物とは思えない。
「そうやって誤魔化すの、卑怯じゃないです?」
胸元に額を押しつけたまま言う。
「誤魔化されてくれてるじゃないか」
「違います」
「じゃあ離れるか?」
「……嫌です」
「ほら」
腹立つ。
少しだけ顔を上げると、アルベルトが笑っていた。
今度は目もちゃんと笑っている。
短く唇が触れた。
……もう一回くらいなら。
とか思った自分が悔しい。
「でも」
私はアルベルトの胸を軽く押して離れた。
私の心の安寧のためにもこれだけは言っておこう。
「契約書の文字は次からもう少し大きくしてください」
「そこに戻るのか?」
「戻ります」
「内容そのものには異論ないんだろ?」
「……合理的だとは思います」
にや。
その顔やめろ。
「ほら」
「調子に乗るな」
甘い空気というものに、私は昔から長く耐えられないらしい。
◇
我が国へ戻って数日後。
国王陛下の執務室に、完成した統合協定が持ち込まれた。
直接頼まれたアルベルトだけが行けばいいものを、二人の共同作業だからと、なぜか押し切られて私もこの場に立っている。
面倒だとは思いつつも、成果報告なんだから褒められるの前提とすれば、人心掌握術としてはむしろアリなのかと勝手に納得した。
陛下は渡された書類の束をぱらぱらとめくり、最初の数ページに目を通す。
やがて顔を上げたが、その表情は怪訝そうである。
「アルベルト」
「はい」
「私は確か、隣国への財政支援について検討しておけ、と言ったはずだな?」
「はい」
「それが、どうして王国の領土が広がっている?」
「その方が合理的でしたので」
臆面もなく、しれっと答えたよ。
国王陛下はしばらく息子を見つめ、それからもう一度書類に目を落とした。
こっちも動じねえ。
親子だなあ。
「債務は?」
「こちらで整理します」
「周辺諸国からの評判は? 条約関係は?」
「周辺諸国には経緯を説明する文書を送付済みです。反応はおおむね好意的です。時計をはじめとした商品の流通が増えるため、むしろ歓迎されています。条約関係も外務部門と確認済みです。必要な調整も近日中に完了します」
「旧王家は?」
「処遇について合意済みです。今頃は南部のリゾート地で悠々自適の生活を始めているかと」
「ゼールラント側の署名は?」
「すべてこちらに」
「お前が全部見たのか?」
「はい」
「そうか」
陛下はおもむろにペンを取った。
ちょっと、待って。もう?
「陛下?」
思わず声が出てしまった。
「何だ、リディア」
「もう少し読まれた方が……」
「アルベルトが確認したのだろう?」
「はい、それは、まあ……」
「なら問題ない」
さらさらと署名した。
軽い。
一国が消える書類ですよ、それ。
もっとこう、歴史的決断らしい重みとかないんですか。
国王陛下は署名を終えると、満足そうにペンを置いた。
「では、あとは任せた」
またそれ!?
私は横にいるアルベルトを見る。
こいつも平然としてる。
――どうして財政支援案件を任せたら、国境線が一本消えるのよ。
数週間後。
ゼールラント王国は、正式に我が国へ統合された。
地図の上から国境線が消え、その領域は旧ゼールラント地方として新たな行政区分へ組み込まれた。
そして初代行政長官には、予定通りエミール元王子が就任した。
◇
それから半年。
私たちは再び、旧ゼールラントの王都を訪れていた。
秋を迎えた山々は赤や黄色に色づき、半年前とはまるで違う景色を見せている。
けれど、本当に変わっていたのは景色だけじゃなかった。
「……荷馬車、増えてませんか?」
「そうだな」
職人街には、以前より明らかに多くの荷車が出入りしていた。
工房の軒先には、見慣れない看板も増えている。
以前訪れた老舗時計工房――レロックスの店先で、私は一つの時計を手に取った。
真鍮のケース。
宝石はない。
彫金も、ブランドを示す小さな紋様が入っている程度。
でも針の動きは滑らかで、ずっしりとした感触には安っぽさがない。
「これ、新しいラインですか?」
「はい。商人や医師の方々を中心に、よく売れております」
工房主が嬉しそうに答えた。
ついでに、値段も聞く。
「安っ」
思わず声が出た。
いやいや、実のところ安くはない。
ただ、普通の家庭が気軽に買える値段ではないかもしれないけど、半年前に見たレロックスとは桁が違う。
これなら裕福な商人や専門職なら手が届く。
店の奥には、さらに装飾を抑えた実用品も並んでいた。
軍や工場、役所などがまとめて購入しているらしい。
もちろん、以前の金と宝石をふんだんに使った高級品も残っている。
そちらは、むしろ価格は上がっていた。
「本当に上げたんだ……」
「希少性が上がったからな」
隣でアルベルトが当然のように言う。
「高級ラインは生産数を絞った。その分、職人が時間をかけられる。前より付加価値は上がってる」
なんかもう完全にブランド戦略の話になってる。
「レロックスの時計、いいじゃないか。精度も高い」
「……アルベルト様」
「何だ?」
「やっぱり、その名前、なんかパチモンみたいで嫌なんですけど」
アルベルトの口元は真面目だった。
「レロックス。覚えやすくていいブランド名だ。……まあ、ちょっと似てるが、品質が良ければ問題ないだろ」
……いや。
でも、目が笑ってる。
絶対分かってる。
「前世の感覚が邪魔するのよ!」
私が突然大きな声を出したせいで、工房主がきょとんとしている。
ごめん、聞かなかったことにしてください。
店を出て中央広場へ向かうと、今度は巨大な建物が目に入った。
「……何です、あれ」
広場の中央に、石造りの大きな塔が空へ向かって伸びている。
まだ足場が組まれているが、その最上部には巨大な円形の枠が取り付けられていた。
どう見ても。
「時計塔」
アルベルトが答える。
「いや、それは見れば分かります」
「じゃあ聞くな」
「なんであんなにでかいんです?」
「街中から見えるように」
「それだけ?」
「工場の始業時刻、商店の開店、役所の仕事、待ち合わせ。街全体で同じ時間を共有できる」
なるほど。
確かにこの世界では、家ごとに時計を持っている人間なんてまだ少ない。
街の中心に正確な時計があれば、それだけで生活は変わる。
「それに」
来た。
絶対まだあると思った。
アルベルトが塔を見上げ、楽しそうに笑った。
「これだけ大きければ、ゼールラントの時計技術を誰でも見るだろ?」
「……広告?」
「最高の広告塔だ」
本当に広告塔を建てやがった。
思わず額を押さえる。
でも。嫌いじゃない。
むしろちょっとワクワクしてる自分がいる。
悔しい。
「殿下!」
広場の向こうから声が飛んできた。
振り返ると、エミール行政長官がこちらへ駆けてくるところだった。
元王子とは思えないくらい忙しそうだ。
手には書類の束。
後ろには役人が三人ほどついている。
「西側の鉱山道ですが、来月から改修に入れることになりました。それと北部工房区への水路工事も――」
アルベルトへ報告する顔が生き生きしている。
半年前まで、何を言っても兄に止められると苦笑していた人と同一人物とは思えない。
「順調そうですね」
私が言うと、エミール元王子は笑った。
「やることはいくらでもありますから」
……あ、なんだろう、このものすごい既視感。
「エミール殿」
「はい?」
「ちゃんと休んでます?」
「もちろんです」
目を逸らした。
その瞬間、前世の自分と、いつだったかの王城でのやり取りが頭をよぎる。
大丈夫です。
これくらいなら。
あと少しですから。
そう言っていた私に、アルベルトは何と言ったっけ。
――大丈夫かどうかを、倒れる側に判断させる気はない。
私はゆっくりアルベルトを見る。
「あなた」
「俺かよ?」
アルベルトはさぞかし面倒そうに身を引きながら、私を見た。
「ちゃんと止めてくださいよ」
「はあ? 何で俺が?」
「大丈夫かどうかを、倒れる側に判断させる気はないんでしょう?」
アルベルトの動きがぴたりと止まった。
ほんの一瞬だけ、目を丸くする。
それから、降参とばかりに髪をかき上げた。
「……覚えてたのか」
「忘れるわけないでしょう?」
あれで私の人生、わりと変わったんだから。
「それに、ブラックなのは許しませんことよ」
「本人がやりたいって言ったんだぞ」
「そうやって私も囲い込んだでしょう!」
エミールが不思議そうに私たちを見ている。
知らなくていいです。
これは夫婦間の問題です。
◇
その夜。
迎賓館の部屋へ戻ると、さすがに一日の疲れが出た。
私はソファへ身体を預け、窓の外を見る。
遠くには夜空を背景に、建設途中の時計塔のシルエットが見えていた。
「半年で、ずいぶん変わりましたね」
「まあな」
アルベルトが隣に腰を下ろす。
右手で私の肩を抱き寄せて密着してきた。
彼のぬくもりが、肌寒くなってきた秋の夜には心地よい。
「まだ始まったばかりだけどな。先は長い」
「でも、悪くないスタートだと思いますよ」
「珍しく素直に褒めるな」
「褒める時は褒めます」
「それは良かった」
なんでそんな嬉しそうなのよ。
しばらく二人で黙って窓の外を眺める。
こういう時間は、嫌いじゃない。
仕事の話をして。
喧嘩みたいなやり取りをして。
それでも最後は同じ場所へ帰ってくる。
結婚する前には想像もしていなかった。
「そういえば」
アルベルトが、耳元で不意に口を開いた。
「何です?」
「元彼」
……はい?
「時計が好きだったんだろ? 機械式ムーブメントの。まあ、男の趣味としてはありがちだ」
私はゆっくりと隣の夫を見上げる。
「今!?」
「何が?」
「半年も前の話ですよね!?」
「覚えてたからな」
「今更。とっとと、忘れてください!」
「んで? どんな男だった?」
やっぱり蒸し返しやがった。
あの時、もう気にしてないよ、みたいな顔してたじゃないの。
「普通の人ですよ!」
「ふうん」
「何です、その反応」
「別に」
絶対別にじゃない。
じとっと睨んでやると、アルベルトはしばらく私の顔を眺めていた。
それから、ふっと口元を緩める。
嫌な笑い方。
「まあいい」
「何がです?」
「今、無理に聞く必要もない」
「……珍しいですね」
思わずそう返すと、アルベルトの笑みが少しだけ深くなった。
「後で、自分から全部話したくなるようにしてやる」
「…………」
一拍。
意味を理解するまでに、それだけかかった。
「ちょっ……何する気ですか!?」
「何だと思った?」
「その顔で聞き返さないでください!」
くそぅ。絶対わざとだ。
しかも、こっちが勝手に変な意味に受け取ったみたいな顔してるのが腹立つ。
「アルベルト様」
「何だ?」
「最初、財政支援の話でしたよね」
「ああ」
「それが半年で、領土増えて、時計塔まで建ってるんですけど」
「いい結果だろ?」
「まあ……否定はしませんけど」
アルベルトが満足そうに頷いた。
そして、ごく自然な調子で続ける。
「それよりリディア」
「はい?」
「そろそろ次代が必要だと思わないか?」
「…………」
次代?
私は数秒かけて、その言葉の意味を理解した。
「今までゼールラントの話してましたよね!?」
「王国の将来について考えていただけだが?」
「一緒にするな!」
領土計画と家族計画を同じ話の流れで処理するんじゃない。
「王太子夫妻としては重要な仕事だろ?」
「絶対に公務扱いしないでください!」
「今日はもう仕事も終わった」
「そういう意味じゃありません!」
アルベルトが楽しそうに笑っている。
完全に遊ばれてる。
けれど――
半年前には、隣国へ財政支援するかどうかを話していただけだった。
それが気づけば、国境線が一本消えた。
領土まで増えた。
そしてどうやら、この男。
次は家族まで増やす気らしい。
……どうしてアルベルトが言うと、全部が事業計画に聞こえるのよ。
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