第四章 受胎と美しい破滅
あの日から一ヶ月が過ぎた。
運命の二十八日目。本来であれば、下腹部を万力で締め付けられるような激痛が始まり、彼にとっての至高の晩餐が供されるはずの日。
私はベッドの上で、その『痛み』が訪れるのを静かに待っていた。
しかし、時計の針が深夜を回り、翌朝の光が部屋に差し込んでも、私の体には何の変化も起きなかった。
さらに三日が過ぎ、一週間が過ぎた。
痛みは来ない。彼を生かすための血は、一滴たりとも流れ出ない。
代わりに私の体は微かな熱を帯び、下腹部の奥には、今まで感じたことのない神秘的な重みと温もりが宿っていた。
……命だ。
あの禁忌の交わりの夜、私と彼の間に宿った新しい命。
本来であれば剥がれ落ち、彼を繋ぎ止めるための「不要な血」となるはずだった私の子宮内膜は、今、新しい命を育むためのふかふかのベッドとして、私の中でその役割を全うしようとしていた。
私が新しい命を宿したことで、彼を生かすための血は完全に絶たれてしまった。
その事実が意味する残酷な結末に気づいた時、私は血の気が引くのを感じた。
「……はぁっ……がっ……」
寝室の隅から、ひび割れたような苦悶の声が漏れた。
血を飲めない期間が一ヶ月を超え、彼の体をつなぎ止めていた細胞が、ついに限界を迎えて崩壊を始めていたのだ。
透き通るようだった美しい白磁の肌には、まるで干からびた大地のような無数の亀裂が走り、その隙間から黒く濁った体液が滲み出ている。
彼は自らの体を掻き抱きながら、声にならない悲鳴を上げて床をのたうち回っていた。
「嫌……嫌ぁっ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
私は彼の傍らにへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。
私が彼を殺そうとしている。私たちが愛し合った結果が、彼から唯一の特効薬を奪い取ってしまった。
あまりにも皮肉で残酷な生命のサイクルに、私は発狂しそうだった。
「お願い、私の腕を切って! 普通の血でもいい、少しでも飲めば……っ!」
私は自分の腕を彼の口元に押し当てようとした。しかし、彼はひび割れた冷たい手で、私の腕を優しく押し返した。
「……だめだ、俺のご主人様。普通の血を飲めば、凝固作用で俺の全身は内側から引き裂かれてしまう。それに……俺が欲しいのは、そんな血じゃない」
崩壊しゆく肉体を引きずり、彼はゆっくりと身を起こした。
息も絶え絶えの中、彼の血走っていたはずの瞳は、かつてないほどに穏やかで、澄み切っていた。
彼は震える手を伸ばし、私の膨らみ始めた下腹部にそっと触れた。
「ああ……温かい。君の中に、確かな命があるのがわかる……」
「あなたにあげる血が、全部、この子を育てるために使われてしまっているの……! 私、どうしたらいいの……ッ」
「泣かないで。これでいいんだ」
彼はひび割れた唇で、心底愛おしそうに微笑んだ。
「俺は、人間の欲望のために作られ、不要になればゴミのように社会から破棄された失敗作だった。意味を持たない、ただ死を待つだけのバケモノだったんだ。でも……君の血が俺を生かし、最後にこんな美しい奇跡を残させてくれた」
彼の指先が、ポロポロと崩れ始めている。
それでも彼は、私のお腹を撫でるのをやめなかった。
「俺の命を繋いでくれた君の血は、これからはこの小さな命を育むために使ってくれ。俺はもう、十分に満たされたよ」
「いや……嫌よ! あなたがいない世界なんて、生きていけない……!」
「ありがとう。君に飼われて、俺は本当に……幸せな怪物だった」
彼は私の腹部に優しく、長く唇を落とした。
その瞬間、彼の肉体は完全に限界を迎えた。
ガシャッ、という微かな音と共に、美しい怪物は一陣の風に吹かれたように崩れ落ちた。私の目の前で、彼だったものは真っ白な灰となって、ベッドのシーツの上に散っていった。
「……あ……」
彼が消えた寝室は、耳鳴りがするほど静かだった。
私の絶叫すら、声にならなかった。
シーツに残されたサラサラとした白い灰をかき集め、胸に抱きしめる。彼がいない。私の痛みを奪い、私を唯一必要としてくれた私の神様が、もうどこにもいない。
窓の外には、見慣れた冷たい街の景色が広がっている。
無機質なコンクリートのビル群。私と彼を搾取し、ゴミのように見捨てた残酷で冷たい世界。
彼がいなくなったこの地獄のような世界で、私とこの子が再びたった一人で生きていけるわけがなかった。私が戻る場所など、もうどこにも存在しないのだ。
「……待っていてね。今、私たちも行くから」
私は溢れる涙を拭うと、彼が毎朝私に完璧な朝食を作るために使っていた、鋭いキッチンナイフを手に取った。
ベッドの上に散らばった彼の真っ白な灰の中に、静かに横たわる。
そして、躊躇うことなく自身の首筋に冷たい刃を深く押し当て、一思いに引き裂いた。
ドクン、ドクンと脈打つ私の生きた血が、真っ白な灰の上に激しく降り注ぐ。
彼が生きている間は決して飲むことの許されなかった鮮やかな赤が、彼の残骸と混ざり合い、美しく同化していく。
薄れゆく意識の中で、私は下腹部の温もりを抱きしめた。
私と、彼と、私たちの命。
永遠に固まらない血の海の中で、私たちはようやく、完全に一つになることができたのだ。




