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解剖台の継承者 ――殺された解剖医は、胃の中に最後の証拠を残した  作者: 二条理|アコンプリス


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第四章 対策本部

 十八時。

 夜の会議室は、眠気より先に乾いている。その日一日を越えた紙の匂い、冷えたコーヒー、何度も開け閉めされたファイルの角の毛羽立ち。捜査本部が立ち上がる朝は、空気だけが薄い。

 真壁彰は、会議室のいちばん後ろの席から、まだ誰も座っていない前列を見ていた。ホワイトボードには事件名だけが貼られている。監察医務院医師殺害事件。

 それだけで十分なはずなのに、十分ではない。あとから別の言葉が貼り足される。血文字。惨殺。港。若手のホープ。まだ正式には置かれていないのに、もう外では勝手に育ち始めている。

 会議室の扉が開き、神谷玲司が入ってきた。足音が迷わない。背もたれへ寄らず、両手を机の上へ置く。紙の束は四角に揃いすぎていて、そこへ置かれた時点で、事件の不揃いがどこかへ押し込まれていく感じがあった。

「始める」

 神谷は座ったまま言った。声量は大きくない。だが、反論の順番を先に奪う種類の声だった。

 松本博則がその右斜め後ろへ座る。会議資料の角だけを一度揃えた。

 二階堂壮也はさらに遅れて入った。ネクタイは結び直され、目の下には薄い影があるが、顔だけは外へ出せる形へ戻っている。

 その顔を見た瞬間、真壁の中で嫌な考えが一度だけ頭をもたげた。

 に。

 血文字が、もし「に」にも見えるなら。二階堂の、に。

 その考えはすぐに打ち消した。打ち消したのに消えない。今日の自分がもう正常ではない証拠だった。

 二階堂もまた、席へ着く前に真壁を一度だけ見た。見方が短い。だが、その短さの中に測るものがあった。

 ま。

 真壁の、ま。

 信じたい。だが、捜査はそれだけでは進まない。その当たり前が、今朝は嫌に痛かった。

 神谷が資料を一枚めくる。

「情報を順に共有する。解釈は最後だ。先に事実を置く。混ぜるな」

 言い方は正しい。真壁は何も言わなかった。いま必要なのは嫌悪ではなく順番だった。

「まず解剖所見。副院長」

 本郷剛史が立ち上がる。白衣ではなく濃い色の背広だ。穏やかさで場を落ち着かせる男だが、今日はその底が少し見えない。

「解剖所見の要点のみ述べます」

 紙を見る。顔は上げない。そのこと自体は不自然ではない。だが、紙を見ているほうが人は顔を読めない。

「死因は腹部刺創を中心とする失血性ショック。ただし、即時死亡ではありません。致命傷の後も相応の時間、活動した形跡があります。現時点では二十分前後の活動時間を見ています」

 会議室の空気が少しだけ詰まる。

 二十分。

 刺され、殴られ、喉を押さえられた身体が動くには長い。九条はその時間をただ死ぬために使っていない。誰の顔にもその理解が浮かぶ。

 本郷は続けた。

「右前腕から手関節にかけて顕著な骨折・変形があります。初期の防御創である可能性が高い。加えて、腹部に刺創後も執拗な鈍的外力が加えられています。これは殺害のみを目的とした暴行としては分布が不自然です。腹部内の何かを外へ出させようとした、あるいは吐出を強制しようとした可能性が高いと見ています」

 木下が小さく息を飲んだ。真壁は視線を動かさない。

「さらに重要なのは打撃の集中部位です」

 本郷がそこで初めて顔を上げた。

「被害者、九条雅紀医師には内臓逆位がありました。胃、心臓、肝臓等が通常と左右逆に位置する」

 ざわめきが小さく広がる。知らない者にとっては初めての情報だ。知っている者にとっては、その瞬間に容疑の円が狭まる。

「腹部打撃の集中は、その逆位を把握している者の打ち方に近い。通常の人体認識で胃部を狙うなら位置がずれます。しかし本件の打撃は、被害者の身体に合わせて右寄りへ集まっています。少なくとも、九条医師の身体的特徴を知っていた人間の行為と見るのが自然です」

 内部犯。

 その言葉はまだ誰も口にしない。だが会議室の全員の脳内で同じ三文字が立ち上がった。

「範囲は」

 神谷が聞く。

「医務院内部、近しい医療関係者、過去の診療情報へアクセスできた者。あるいは長く接して身体特徴を知る者です」

 正しいぶんだけ広い答えだった。本郷自身も、堀島も、医務院の誰もまだ範囲から外れない。

「補足します」

 堀島岳斗がそこで立った。九条の下で監察医として育った若手だ。

「九条先生……被害者の内臓逆位は、院内では周知ではありませんでした。ただ、近い立場の医師、過去の検査に触れた人間、解剖・検案に関わる者なら知り得た」

 言い方が静かすぎる。感情を削って情報だけを置いていく。その削り方に、真壁は一瞬だけ違和感を持った。堀島は師を失った若手にしては平らすぎる。

「また、腹部への暴行が“殺すため”ではなく“出させるため”に見える点は、本郷副院長の所見に同意します。被害者に何らかの防御対象があり、犯人がそれを奪おうとした可能性は高い」

 そこまで言って、堀島は自分で線を引いた。

「ただし、それが具体的に何だったかは現時点では断定できません」

 神谷が短く頷く。

「次。鑑識」

 神明が立った。

「現場からの共有を三点に絞ります」

 神明は紙を持たない。

「一点目。凶器について」

 会議室の空気が別の方向へ詰まった。真壁も二階堂も、その瞬間だけ無意識に身を乗り出しかけた。

「凶器は倉庫外、岸壁寄りの草むらから回収。刃部および柄部に被害者血液付着。柄部から検出された有意な指紋は、現時点で被害者本人、九条雅紀医師の左手指紋のみです」

 ざわめきが起きる。

「被害者の?」

 松本が聞く。

「はい。犯人の手袋痕、繊維片、拭取り痕の有無はなお精査中。ただ、少なくとも現時点で明瞭なのは被害者左手指紋のみ」

「意味は」

 神谷が問う。

 神明は一拍だけ置いた。

「被害者がいったん凶器を握った可能性が高い。さらに発見位置が現場外であることから、被害者自身が奪取し、倉庫外へ投擲した可能性があります」

 真壁の頭の中で、倉庫の床と外の草むらが一本の線で繋がった。奪い返したなら、反撃に使う方が自然だ。なのに外へ投げる。

「二点目。血痕文字について」

 スクリーンに写真が映る。現場全景。近接。角度違い。補正あり。補正なし。床の上の赤い線は、見る角度によって別の字へ寄る。

「鑑識としては現時点で判読確定不能。意図的な筆記動作は認めますが、一文字の途中で崩れています。複数解釈が可能です」

「具体的には」

 神谷。

「“ま”“ほ”“に”。角度によってはそのいずれにも見える」

 その三つが並んだ瞬間、会議室の温度が変わった。

 ま。真壁。松本。

 ほ。本郷。堀島。北界。保税。

 に。二階堂。

 誰も口にしない。だが口にしないことと、脳内で読んでしまうことは別だった。真壁は真正面を見たまま、自分の脳が一瞬「に」へ触れたのを自覚した。隣の二階堂が、もし今同じように「ま」へ触れているなら。互いを信じたい。なのに、一文字がそれを許さない。

「三点目。被害者移動線と血痕分布。現場内で致命傷後に這行。壁際で血痕文字形成。その後の動線はなし。以上」

 短い。短いから余計な意味が混ざらない。

 神明はそこで言葉を切った。

 凶器は奪った。血文字は散らした。腹部は守った。

 つまり九条は、殺されながら何かを守っていた。

 その感覚だけが、会議室の誰の胸にも同じ重さで落ちた。

 神谷が言う。

「血文字については外へ出すな。現時点で断定不能。人名連想も禁止だ」

 二階堂がすぐ引き取る。

「広報側で統一します。“判読不能の血痕様痕跡あり”。一文字、名前、ダイイングメッセージ、その種の語は全部止めます」

 そこで二階堂は紙を見ずに、もう一度だけ続けた。

「あと、九条が最後に一文字だけで人名を置くとは思えません」

 何人かが顔を上げた。

 二階堂の声は平らだったが、その平らさの奥に個人的な確信があった。

「あいつは、そういう単純な残し方をしない」

 ただの広報の判断ではない。九条の頭の使い方を知っている人間の言い方だった。

 真壁の胸の内側で、何かが小さくぶつかった。言っていることは同じだ。自分もそう思っている。だが、それをこの場で最初に言われると、九条理解で半歩先を取られたようで腹が立つ。

 ほんの一瞬だけだった。真壁は表情を変えなかった。だが、自分がムッとしたことだけははっきり分かった。

 神谷が二階堂を見る。

「根拠は」

「被害者の職業的特性です」

 二階堂は言い換える。

「意味を一つに固定するより、解釈を散らす方を選ぶ可能性が高い。少なくとも現段階で人名連想を前提にすべきではありません」

 会議室に置き直されたその説明は、広報の言葉として成立していた。だが真壁には分かる。いまの一言の芯は、広報の技術ではない。九条と会話の速度を合わせてきた人間の確信だ。

「対外状況も共有します」

 二階堂が立つ。会議室の空気が、今度は別の緊張へ変わる。

「現時点で外に出ているのは、被害者が医務院所属の若手監察医であること、現場が港湾倉庫であること、損壊の激しい遺体であったこと。この三点です」

 スクリーンに、ニュースサイトの見出し候補とSNSの反応ログが映る。匿名の短文。切り抜かれた言葉。そこにはもう、九条が人ではなく象徴へなりかけている気配があった。

「既に“医務院の若手のホープ”“正義感の強い監察医”“何かを暴こうとして消された”という物語が育ち始めています。逆に、“惨殺体”“港湾倉庫”“人間関係のもつれ”“私怨”といった方向へ寄せようとする見出しもあります」

 二階堂は一つずつ言葉を置く。置き方が上手すぎる。この男は本当に、事件の温度を手のひらで測っている。

「血文字についても、既に庁内漏洩ベースで“ま”と読む向きがある。止めていますが、完全には止まりません。ですので記者会見ではこちらから先に断定不能を打ち、判読競争を起こさせない方針を取ります」

「制御できるか」

 神谷が聞く。

 二階堂は少しだけ笑った。

「制御はできません。遅らせるだけです。ただ、遅らせれば掘る時間が作れます」

 その答え方に嘘はない。

「会見はお前が出るのか」

 松本。

「私が出ます」

 二階堂は即答した。

「被害者の神聖化も、安っぽい私怨化も、どちらも今は危険です。言葉を先に固定しないと、事件じゃなく物語が走る」

 真壁はその言葉を聞きながら、ふと思った。二階堂は本当に止める側なのか。それとも、止めているように見せながら速度だけを調整しているのか。どちらにしても、広報課主任という肩書の内側にいる限り、それは区別しにくい。

 神谷が全体を見回す。

「以上を踏まえる。現時点での捜査方針は、内部犯可能性を軸に医務院周辺、港湾動線、過去の拘置所死亡案件との接点を並行して洗う。血文字は断定しない。記者会見は二階堂。解剖詳細別記は本郷副院長管理。異論」

 真壁は手を挙げなかった。挙げれば、この会議室で順番ではなく感情が出る。だが、胃の中の半券をいまこの場で共有しないことの重さだけが胸の内側へ残った。

 会議はそこで一度切れた。椅子が引かれる音。紙が揃え直される音。誰も大声を出さない。

      *

 会議室を出たあと、廊下の突き当たりにある小さな打合せスペースへ、神明と真壁と二階堂が自然に集まった。自然に、というのは嘘だった。三人とも、会議室の中ではまだ足りないと分かっていたから来た。

 神明が先に口を開く。

「整理する」

 言い方が短い。だが今は、それがありがたかった。

「一つ。凶器は被害者が握って投げた可能性が高い。二つ。血文字は“ま”“ほ”“に”で断定不能。三つ。腹部打撃は内臓逆位を知る者の打ち方」

 二階堂が壁へ軽く背を預ける。

「順番としてはそれでいい」

「じゃあ順番のまま考える」

 神明は言う。

「まず凶器。奪い返したなら、普通は反撃に使う。もしくは近くへ落ちる。外へ投げるのは不自然」

「犯人の手元から遠ざけたかった」

 真壁が低く返す。

「何のために」

「わからない。保留」

 正しい答えだった。正しいぶんだけ腹立たしい。九条雅紀の考えることは、生きているときからたいていわからない。

「次。血文字」

 廊下の向こうではもう記者たちの靴音が増え始めている。時間がない。だからこそ整理は必要だった。

「“ま”なら真壁、松本警部」

 神明が一つ目を置く。

「“ほ”なら本郷副院長、堀島、北界運輸、保税倉庫」

 二階堂が継ぐ。

「“に”なら、俺」

 誰もすぐには返さなかった。軽く流せる空気ではなかった。

「実際そうだろ。名前に寄せるなら、候補には入る」

 二階堂は肩をすくめる。

「お前は広報だ」

 真壁は短く言う。

「広報だから外れるって理屈もない」

 二階堂の返しは静かだった。拗ねた感じはない。ただ、今の事件が誰でも候補にできる形をしていることだけを冷たく認めていた。

 神明が言う。

「問題は、九条が犯人を書こうとしたかどうかだ」

「書いてない」

 真壁はすぐ答えた。

「断定するな」

 二階堂がそちらを見る。

「断定じゃない。九条の癖だ。犯人名を書いて終わるなら、あいつはもっと別のやり方をする。あれは候補を散らす一文字だ。人名にも場所にも読めるようにしてある」

 神明は頷かなかった。ただ、否定もしなかった。

「散らしたうえで、本命の線は別に残した」

 二階堂が低く言う。

 その一言に、胃の中の半券の重みが真壁の内ポケットで急に硬くなった気がした。真壁は顔に出さない。だが、二階堂にはたぶん何かが動いたのが見えた。

「やっぱり何かあるな」

 言葉は軽い。だが軽さの中に棘があった。

「今は言えない」

「またそれか」

 真壁は返さなかった。神明がそこで話を戻す。

「血文字の本命は、犯人名じゃなく導線の可能性が高い」

「北界運輸」

 二階堂。

「保税倉庫」

 神明。

「本郷か堀島」

 真壁。

 三人の言葉がそこで一度だけ交差した。人。場所。会社。どれへ寄ってもまだ決め手がない。だからこそ九条は、一文字で止めたのだろう。そこまでは三人とも、たぶん同じことを考えていた。

 神明が真壁を見る。

「“ま”は」

「俺じゃない」

 返答が速すぎた。速すぎたことに自分で気づく。気づいた瞬間、二階堂の目が少しだけ細くなる。

「そういう言い方すると、余計に怪しく聞こえる」

「うるさい」

「松本警部の“ま”もある。“き”と読めば、一課の木下海なんかも該当する」

 神明が平らに言う。

 その平らさが救いだった。一人へだけ寄せない。形として全部置く。

「神谷警視が仕切る会議で、松本警部が該当するのは嫌だろうな」

 二階堂が言った。

「刑事部の松本警部、一課の真壁、医務院の本郷副院長に堀島医師、広報の俺。字面だけなら、誰が犯人でも話ができる」

「話にするな」

 真壁。

「だからしてない。される前に潰してる」

 二階堂はそう言って、壁から背を離した。

「会見、行く」

      *

 二十時。

 記者会見室は、まだ始まる前から熱を持っていた。カメラの赤いランプ、床を擦る三脚の脚、配線に足を引っかけないように歩くスタッフの苛立ち、マイクテストの単調な音。事件が大きい時ほど、人は始まる前の空気で半分判断する。

 二階堂は会見台の袖で、一度だけ深く息を吸った。資料は短い。短くしすぎると誤魔化しに見える。長くすると余計な燃料が増える。その境目を測るのが自分の仕事だと、二階堂はもう身体で知っている。

 記者席のざわめきの中に、もう九条雅紀という固有名が別の生き物みたいに動いている。医務院のエース。若手の希望。正義感の強い監察医。何かを暴こうとして消された男。逆の方向では、港湾倉庫、惨殺、交友関係、私怨、男女、三角関係。情報は少ない。少ないからこそ、人は勝手に白いところを塗り始める。

 会見が始まる。

 二階堂はマイクの前へ立ち、最初に余計な語を置かなかった。

「本日未明、港湾倉庫において東京都監察医務院所属医師一名が死亡した事案について、現時点で確認されている事実のみをお伝えします」

 事実のみ。最初にそれを置くことで、質問の温度を一段下げる。

「事件性を前提として捜査を進めています。被害者氏名は既報のとおり九条雅紀医師。死亡原因、詳細な犯行態様、遺留物の判読については現在確認中です」

 判読。その語を自分から先に置く。置くことで、血文字という燃える単語を一度だけ遠ざける。

 案の定、最初の質問が飛ぶ。

「現場に被害者によるダイイングメッセージが残されていたという情報がありますが、事実ですか」

 二階堂は即答しない。半拍だけ置く。即答は見出しになる。

「現場に血痕様の痕跡が確認されていますが、判読可能な文字として断定できる段階にはありません」

「しかし庁内では“ま”と読む向きが」

「その種の未確認情報にはお答えできません」

 切り方が滑らかすぎて、記者の苛立ちが逆に増す。だが増していい。苛立ちは書けても、断定にはならない。

「被害者は医務院内でも将来を期待された若手医師だったと聞いています。何らかの内部告発や過去案件への関与が背景にあるのでは」

 その問いに、二階堂は一瞬だけ笑顔に近い形を作った。否定のための笑顔だ。

「被害者の人物評価や個人的印象と、本件の事実認定は分けてお考えください。現時点で動機・背景を特定する情報はありません」

 神聖化も止める。私怨化も止める。止めるたびに、二階堂の中で別の疲労が溜まっていく。九条を人として弔う言葉を、自分の口で先に排除している感覚がある。だがいまここでそれを許せば、九条の死は見出しの形に食われる。

「犯行は非常に残虐であったと」

「表現の評価についてはコメントを控えます」

「港湾倉庫という場所から、被害者の私的交友関係が――」

「根拠なき憶測です」

 二階堂の声が少しだけ硬くなる。会見室の空気がそこで一度冷えた。その冷え方を、二階堂は自分で分かっている。いまので何人かは、“広報が何かを隠している”と書くだろう。だが、それでもいい。安い私怨の物語へ流されるよりはましだった。

 会見は十分ほどで切り上げられた。短い。短いから、会見後の記者たちのSNSと速報テロップが逆に勢いを持つ。

 “血痕様痕跡”“判読不能”“背景は確認中”。

 止めるための言葉は、いつも少しだけ挑発に似る。

 会見室を出た二階堂の携帯は、すでに通知で埋まっていた。ニュースアプリの見出しが並ぶ。

 〈若手監察医殺害 “血痕メッセージ”は判読不能〉

 〈警察、港湾倉庫殺人で慎重姿勢〉

 〈“正義感の強い監察医”なぜ命を落としたのか〉

 全部、止めきれていない。だが全部、まだ決定打にはなっていない。遅らせることだけはできている。

「上出来だろ」

 松本が廊下の壁際から言った。褒めてはいない。状態確認の声だった。

「最悪は避けた」

 二階堂が答える。

「最悪って何だ」

「“殉職の聖人”になるか、“女絡みの惨殺体”になるかだ」

 二階堂はネクタイを少しだけ緩めた。

「どっちも九条を殺し直す」

 松本はそれに何も返さなかった。

      *

 庁舎へ戻ると、世論はもう次の段階へ移っていた。会見で止めたはずの単語が、別の角度から生えてくる。

 掲示板まとめ。匿名投稿。動画のコメント。

 “まって誰?”

 “医務院の内部抗争?”

 “写真出てる。イケメン”

 “女絡みでは”

 “港湾ってことは密輸?”

 “口封じでは”

 断片だけで人はここまで話を育てる。育てる速度が速いほど、事件は証拠ではなく想像で覆われる。

 二階堂はその画面を数秒だけ見て、閉じた。見すぎると、相手の速度に引っ張られる。広報の仕事は世論を読むことではあるが、読まれすぎると自分の言葉の置き場を失う。

 真壁はその横顔を遠くから一度だけ見た。二階堂は疲れている。だが疲れている人間の顔ではなく、まだ温度を測り続ける顔をしている。それが少しだけ怖かった。

 に。

 二階堂の、に。

 そんなはずがないと分かっているのに、血文字の曖昧さは人をそういうところまで連れていく。

 二階堂の方も、ふと顔を上げて真壁を見た。真壁はもう凶器と血文字と内臓逆位を一本の線へ結び始めている顔をしていた。

 ま。

 真壁の、ま。九条が最後に選んだ人間。選ばれたことを隠している人間。

 そんなはずがない。なのに、疑いは一文字の形で心のどこかへ残る。信じたい。だから疑いが痛い。

 今立っているのは、たぶんそういう場所だった。

 九条雅紀の死は、まだ犯人を指していない。だがもう、人と人のあいだへ線だけは引き始めている。

 血文字は断定不能。

 凶器は被害者が投げた。

 腹部暴行は内臓逆位を知る者の手。

 事実は三つ。その三つだけで、疑いは充分に増殖する。

 真壁は会議資料の最後のページを閉じた。次に見るべきは、港だ。だが港へ行く前に、もう一つ確かめなければならないことがある。

 九条は最後に何を書かなかったのか。

 そして、誰を最初から外していたのか。

 その答えはまだ出ない。出ないまま、順番だけが先に進む。

 九条が残したのは、やはり死体ではなかった。

 死体の周囲で、人間たちの順番を狂わせるための、冷たい起点だった。

     *

 九条が死んだ日の夜、医務院の廊下は妙に広く見えた。

 封鎖線の黄色が、白い床の上で余計に浮いている。昨夜まで人の出入りでざわついていたはずの場所なのに、朝になると音が引いた。職員たちは声を落として歩き、誰も必要以上に立ち止まらない。死体を扱う場所では、死そのものより、その後に残る空白のほうが長く居座ることがある。

 本郷剛史は、その封鎖線の前で立ち止まった。

 九条雅紀のデスクとロッカーは、廊下から半ば見える位置にあった。捜査のために立ち入りは制限されている。近づけない。だが見えるものまで消えるわけではない。

 机の上にあるのは、薄い資料の束、黒いペン立て、付箋の貼られていない卓上カレンダー、電源の落ちたノートパソコン。それだけだった。ロッカーの中も、扉の隙間から見える限りでは白衣が二着、替えのシャツ、ファイルケースが一つ。生活の気配が薄い。三日くらい誰も使っていなくても成立しそうな、妙に乾いた配置だった。

「あの子は、本当に物が少なかったな」

 誰に聞かせるでもなく、本郷は小さく呟いた。

 九条は昔からそうだった。必要なものしか持たない。趣味らしい趣味も見えない。机の上に私物が増えない。医務院で働く人間は、たいていどこかに生活の逃げ場を作る。お気に入りのマグカップ、家族の写真、小さな観葉植物、菓子の空き箱に入れた薬。そういうものが机のどこかに滲む。だが九条にはそれがほとんどなかった。

 浮世離れしている、と本郷は何度か思ったことがある。

 人づきあいが悪いという意味ではない。むしろ必要な相手とはきちんと話す。だが、生活というものに体の重みを預けていない感じがあった。ここで食べ、ここで眠り、ここで働いているくせに、何か一枚だけこちら側の現実へ深く沈んでいない。うまく言えないが、少しだけ岸から離れた場所に立っているような人間だった。

 だからこそ、本郷は時々あの若い法医が妙に心配になった。

 心配といっても、手を引いてやる種類のものではない。ただ、見ていた。机の上の書類の積み方、白衣の袖の折り方、夜勤明けの顔色、食堂で箸を止めるタイミング。そういう小さいところを、いつの間にか目で追っていた。

 封鎖線の向こうにある机を見ながら、本郷は解剖室の中の九条を思い出した。

 解剖の場では、癖が隠れない。

 どれほど平静を装っていても、器具の受け渡し、立ち位置、声をかける間、その全部にその人間の身体が出る。九条は左利きだった。そこがまず珍しかったし、すぐに覚えた。解剖台の左側へ自然に入る。右利きの者が無意識に立つ位置とは逆だ。最初の頃は補助の者が戸惑うこともあった。鉗子もメスも、普通の受け渡しでは一拍ずれる。

 だが九条は、そこを苛立たなかった。

「逆です」

 短く言う。

「左にください」

 それだけだ。

 慣れてくると、器具の受け渡しが妙に滑らかになった。左手で受け取り、右手で支え、視線は腹腔の中からほとんど動かさない。急がない。だが遅くもない。必要な器具が来る前に、次の一手の準備がもう身体に入っている。あれは教科書だけでは身につかない。身体の中に順番を落としていく人間の手つきだった。

 本郷は、自分が主担当だった頃のことを思い出した。

 解剖室では長く、自分が中心だった。年数も経験もある。腹を開いた数も、拾ってきた事実の重みも、人並み以上にある自負があった。若い医師は何人も見てきた。器用な者もいたし、頭の回る者もいた。だが、長く立てる者は少ない。死体を前にした時の緊張は、そのうち慣れに変わる。だが慣れたあとに、人は二つに分かれる。雑になる者と、逆に静かになる者だ。九条は後者だった。

 いい解剖医になる。

 本郷はかなり早い段階でそう思っていた。

 技術の話だけではない。見たものを見たまま言うことの難しさを、九条は若いくせによく知っていた。派手な所見に飛びつかない。かといって躊躇して逃がしもしない。身体が示した事実を、感情や都合から一度きちんと切り離す。そのうえで、必要な重さだけを戻す。あのやり方は、ただ冷たいだけの人間にはできないし、逆に感傷へ寄りすぎる人間にもできない。

「お前は、いい法医になるよ」

 一年前、解剖の主担当を譲る話をした時、本郷はたしかにそう言った。

 九条はすぐには顔を上げなかった。器具を洗浄台へ戻しながら、少しだけ手を止めた。それから本郷のほうを見て、短く言った。

「まだ早いでしょう」

「早くない」

 本郷は返した。

「お前の立ち位置で見れば分かる。もうそっちだ」

 立ち位置。

 解剖では、それがそのまま仕事の輪郭になる。九条は左利きだから左に立つ。だがそれだけではない。左に立った時、全体がどう見えるかを知っていた。補助の腕の入り方、照明の落ち方、記録係の視線、器具台との距離、次の工程へ移るまでの無駄。その全部を、自分の身体の置き方で整えられるようになっていた。

 本郷は、その変化を嬉しく見ていたのだと思う。

 後継者という言葉は、あまり好きではなかった。仰々しいし、どこか古くさい。だが、実際にはそういうつもりで九条を見ていた。自分の後に、あの解剖室を任せるなら誰か。そう考えた時、最後に残ったのが九条だった。器用だからではない。頭がいいからでもない。あの部屋で、身体の示すことを最後まで雑にしないと思えたからだ。

 本郷は封鎖線の向こうの机を見つめたまま、目を細めた。

 机上には、観葉植物も、家族写真も、趣味の雑誌もない。白衣の予備と、必要な書類と、数本のペン。浮世離れしたような乾いた机だ。だが、その乾き方まで含めて九条らしいと、本郷は思ってしまう。

 物が少ないのは、生活を軽んじていたからではない。たぶん、余計なものを増やすと、自分が見ているものが鈍るとでも思っていたのだろう。そういう不器用な潔癖さが、あの子にはあった。

「楽しみにしてたんだがな」

 本郷は小さく言った。

 これから先のことを、たしかに少しだけ楽しみにしていた。九条が主担当として解剖室に立ち、自分は一歩下がった位置からそれを見る。たまに口を出し、たまに黙り、いずれ何も言わなくなる。そういう時間が、まだしばらく続くものだと思っていた。

 左手で器具を受け取る癖。

 左側に自然に立つ癖。

 必要な器具を、必要な一拍前に欲しがる癖。

 言葉が少ないくせに、所見だけはよく通る声。

 あの一つ一つを、これから先も見ていくつもりだった。

 だが、もう見られない。

 本郷はそこで、ようやくゆっくり息を吐いた。白い廊下の向こうで、誰かの足音が遠ざかる。封鎖線は動かない。机の上の物も、ロッカーの中の白衣も、そこにあるのに、持ち主だけがいない。

 あまりに物の少ない机は、かえって不在を強くする。

 本郷はしばらくその場を動かなかった。

 副院長としてではなく、法医としてでもなく、ただ一人の年長者として、後を継がせるつもりだった若い解剖医の机を見ていた。


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