(7-2)
◇
ソファで目を覚ました蒼也は、頭を振りながらシャワーを浴びに浴室に向かった。
昨夜は悠輝から誤解は解消したと連絡をもらったが、レイナから《女子会するから一人で反省してなさい》とメッセージが来たきり、結局翠は帰ってこなかった。
ただ、日付が変わるまで続いた会議のせいで、自分自身も帰宅してからの記憶がないし、今朝も、これからすぐに出かけなければならない。
仕事、仕事で、我ながら情けない。
こんなことだから、翠とすれ違うのだ。
だが、社員や株主、会社の社会的使命に対して責任を負う立場にいる以上、弱音を吐いてはいられない。
今はトラブルにきっちりとけりをつけて、それから向き合うしかない。
――翠、今どこにいる?
《帰ったら、ちゃんと話がしたい。愛してるよ》
蒼也は書き置きを残してオフィスへ向かった。
◇
須垣の車は工業地帯の港へ向かっていた。
幅の広い道路にはトラックは通るが、人通りはまったくない。
想定外の展開に内心の動揺を押し隠しつつ、翠は冷静にたずねた。
「どこに行くんですか?」
「俺は御更木の信用を地に落として踏み潰してやろうと思っていた」
須垣の声は冷たく、だが危険な熱を帯びていた。
「蒼也さんの夢は力でねじ伏せることなんてできませんよ。私が支えてみせますから」
「だから、あんたをあいつから奪い取ろうと思ったんだ」と、須垣は両腕を伸ばしてステアリングを握り直す。「だが、気が変わった」
目の前が開ける。
海だ。
埠頭には巨大なコンテナ船が停泊している。
目的地のホテルからはかなり離れている。
動揺の色を隠せない翠の顔を須垣が満足げにのぞき込む。
岸壁すれすれを車が疾走する。
助手席の窓のすぐ下で油で濁った海が揺れている。
「と、止めてください」
「そっちからは出られないぞ」と、須垣が急ブレーキを踏む。「ここであんたをねじ伏せてやってもいいんだぜ」
脅しにひるまず翠は声に力をこめた。
「あなたが暴力でねじ伏せても、私たちの愛は壊せませんから」
「旦那はそう思ってないだろうよ」
「私は蒼也さんを信じてます。蒼也さんだって私を愛してくれています」
須垣はステアリングに腕を乗せ、上体を預けながら翠に顔を向けた。
「そういうあんたの純粋さが俺をイラつかせるんだよ。俺だって、あんたが俺のものになれば、永遠に守ってやるのにな」
「私は純粋じゃありません」と、翠は声を張った。「私だって、蒼也さんを疑ったことはありますよ」
虚を突かれたような表情をした須垣が顔を赤らめながら視線をそらす。
「蒼也さんが他の女性とつきあってるんじゃないかとか不安になったこともあるんです。でも、誤解したのは私だから、その誤解を解消するのも、自分の責任だって気づいたんです。信じられない心は私自身の弱さですから」
「哲学の話はよせよ」
「進化論の話をする約束だったじゃないですか」
「そんなでまかせ、ちゃんと覚えてたんだな」と、須垣が笑う。「俺も忘れてたのにさ」
――嫌われるとよけい欲しくなる。
逃げる獲物を追い詰め、組み伏せる。
蒼也とは真逆の遺伝子を持つ男と向き合っているのに、翠はもうおびえてはいなかった。
「須垣さんはなぜそんなに女性を嫌うんですか」
「女性が嫌いなんじゃない。あんたたちが嫌いなんだ」
「私は幸せそうな他人が憎いっていう気持ちが分からないんです」
「株の世界では、儲けたやつの足元には損した連中の屍が横たわっている」
「でも、日常の世界では他人が幸せだと自分が不幸になるってわけでもありませんよね。みんなが幸せになったって問題ないじゃないですか」
「そんなのはきれいごとだろ」と、須垣はシートに背を預け、腕組みをした。「あんただって、御更木の資産に惹かれているだけかもしれないぞ」
「それはありませんよ」
「なんでだよ」
「だって、私が蒼也さんと出会ったのは子どもの頃で、その時は、相手の背景なんて分かっていませんでしたから。私はただ蒼也さんだけを見ていたんです」
「かなわねえなあ」と、須垣が手を頭の後ろに回した。「ますます憎たらしくなってきたよ、あんた」
だが、その表情には諦めのような奇妙な安らぎが宿っていた。
「そろそろか……」と、時計に目をやった須垣がぎこちない笑みを浮かべながらつぶやく。
「何が……ですか?」
それには答えず、須垣は車をゆっくりと移動させ、倉庫の日陰に止めると車を降りた。
「少し歩こう」
数歩後ろをついて歩くと、潮風がまとわりついてあっという間に髪がベタつく。
岸壁に歩み寄った須垣は、船の係留ロープを止めるボラードに片足を乗せた。
「昭和の映画みたいですね」
「だろ」と、須垣が振り向く。「どんな男でも、これに足を乗せればスターになれる。不思議なアイテムなんだ」
二十年前の蒼也を想起させる少年のような笑顔だった。
須垣は上体を前後させてボラードに置いた脚を曲げ伸ばしした。
「いつもこの時間はトレーニングをしてるんでね」
鍛え抜かれた肉体が青い背景に映える。
波の照り返しがまぶしくて翠は目を細めた。
「写真撮りましょうか?」
「いや、いいよ」と、車に目をやってから須垣は首を振った。「連絡されると困るからな」
「じゃあ、須垣さんのスマホで」
「あんたも不思議な人だな」と、須垣が足を下ろす。「俺はあんたに危害を加えようとしてるんだぜ」
「須垣さんだって、不思議な人ですよ」
「だから、よせって、そういうのは」と、須垣が鼻の頭をかく。「本気になりたくないんだ」
真夏の日差しが濃い影を作り、二人の間の重たい空気を押し流すように潮風が吹き抜けていく。
「せっかくだから」と、須垣が自分のスマホを取り出す。「二人で写真を撮らないか?」
「はあ?」
「ずいぶんと、厚かましいお願いだけどな」
風で乱れた髪を整えながら翠が須垣に歩み寄る。
と、その時だった。
タイヤをきしませながら倉庫の角からSUVが姿を現し、二人に突っ込んできた。
ボラードのギリギリで急停止し、助手席から飛び出したレイナが須垣に詰め寄る。
「もう、待ってたのに。どうして予定の場所に来てくれないのよ」
呆然としている須垣の手に紙切れを握らせる。
《まってるわ Leina》
「きったねえ字だな」と、須垣が眉を寄せる。「ミミズもここまでのたくらないだろ」
「悪かったわね。これでも一生懸命書いたのよ」
運転席から出てきた悠輝が翠に駆け寄る。
「大丈夫だった?」
「ええ、なんとか」
「よかった。失敗したかと思ったよ」
須垣が悪びれずにつぶやく。
「そろそろ来ると思ってたよ」
「追跡タグを持たせたの」と、レイナが翠を指さす。「私の子猫ちゃんに」
「二つ用意しておいて良かったです」と、翠はブラウスの裾の裏に貼り付けた追跡タグを外した。
須垣はヒュウと口笛を吹いた。
「負け惜しみじゃないが、最初に追跡タグを見た時点で、あんたが一人じゃないってことには気づいてたし、そういうバックアップもあるだろうとは予想していたよ」
「じゃあ、なぜ、見逃してここまで来たんですか?」
須垣は悪びれずに肩をすくめた。
「約束しただろ。進化論の話をするって。俺はただ人妻と人生を語り合っただけさ」
レイナがスマホを取り出す。
「でも、これは予想してなかったんじゃない?」
「ん?」
四人で囲む画面には、経済ニュースが流れていた。
御更木蒼也とオコンネル代表の共同記者発表の様子だ。
ファイナンスニュース速報。
《ミサラギメディカルが特別買い気配。同社は本日八時、世界二位の欧州製薬企業グレンジャーアドバンスドメディカルとの包括的提携を発表。千葉県の下総短期大学跡地に研究所を設立し、新規に副作用を抑えた癌治療向け免疫賦活剤の開発をおこなう契約を正式に締結。すでにステップ1に対するマイルストーン六十二億円を受領した。同社は今週に入って過剰に売り込まれており、踏み上げ相場の様相を呈している》
関連ニュース。
《オコンネル投資会社がミサラギメディカルの保有割合を拡大。大量保有報告書を提出。現在の水準は割安と分析。より一層の買い増しを検討との報道》
翠は須垣を真っ直ぐに見つめた。
「蒼也さんは、このために奔走していたんです」
重大なニュースを目にしても、須垣は平然とした表情で穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺はまんまと罠に誘い出されたようだな」
今度はレイナが肩をすくめた。
「提携の発表を前倒しして株価を反転させるのと同時に、あなたに対策をとらせないようにするのが狙いだったってわけ」
須垣は自分のスマホで株価急騰に対するSNSの反応を眺めている。
《オコンネルがおこってるw》
《巨人対ミジンコ》
《カリスマの敗北》
《スガキ退場?》
「二十億が吹っ飛んだな」と、吹っ切れたように笑う。
「残念でした」と、レイナが翠の後ろに回って肩に手を置く。「子猫ちゃんの大勝利」
「含み益が消えただけで、マイナスってわけじゃない。また稼げばいいさ。株なんて、俺にとってはただの数字が上下するゲームだからな」
それに比べたら、と須垣は自分の車に歩み寄ってドアを開けた。
「人妻との火遊びはプライスレスだろ。二十億くらい、安いもんさ。あんたにはそれだけの価値がある」
車に乗り込む前に、須垣は翠に手を振った。
「負け惜しみだけどな」
去っていくコンパクトカーを見送りながら、レイナがため息をつく。
「楽しい冒険だったけど、オコンネルの記者会見にアテンドできなくて、私、クビ(ファイア)にされちゃうかも」
「蒼也さんがいますから、大丈夫ですよ」
「そうなのよね。あいつ、なぜか年寄りには好かれるのよ」
――幸之助さんに厳しくしつけられたおかげかも。
レイナが翠の肩を抱いて頬を寄せる。
「それにしても、ミドリは頑張ったわね。予定と違う方向に進み始めた時は焦ったわよ」
欧米風の距離感に戸惑いながらも翠は笑みを返した。
「お二人が助けに来てくれるって信じてましたから」
「あなたは蒼也のワイフにふさわしいわね。あなたには蒼也の夢を支える力がある。これからも蒼也を信じて幸せにしてあげて」
「はい!」
「本当はね」と、レイナがささやく。「私、蒼也のこと、狙ってたのよ」
「えっ」
「悔しいけど、全然脈なし。私って、《へのへのもへじ》に見える?」
「そんなことないですよ」
「失礼しちゃうわよね、あいつ」と、翠の背中をたたいたレイナが照りつける太陽に向かって両手を突き上げた。「あーあ、私にも素敵な出会いないかな」
悠輝が車の中に置いてあるスマホに手を伸ばす。
「蒼ちゃんに無事だって連絡しなくちゃ」
「あ、悠輝さん」と、翠は呼び止めた。「ちょっと待ってください」
「ん、どうしたの?」
翠はレイナに目配せをしながら岸壁に歩み寄った。




