二人の王子様
聳え立つ山に生い茂る木々が斜面を緑色に染める。木々に覆い尽くされた山に、スタッコとモルタルの白壁を赤茶色の煉瓦が彩る、巨大な校舎が立っている。木々に囲まれた重い校門は固く閉ざされ、青い空の下で燻銀の金属の格子が日差しを反射している。寮へと続く道から、生徒たちがスクールバッグを手に校舎へと歩いていく。
梅雨の晴れ間が覗き、その太陽の光を受けて歩く生徒たちの群れを長身の二人が割いている。
百八十一センチの長身を並べて歩く芳賀山と七々瀬は、開かれた道を汚れひとつないストレートチップの靴で滑らかに進む。
「七々瀬先輩、おはようございます」
生徒がそう声をかけると、七々瀬の麗しい目元が細められ、足を止める。
「おはよう、一年生だね。学校には慣れた?」
「はい!」
「良かった。これからも古高辿学園生として頑張って」
頭を下げた生徒を確認した七々瀬は、視線を前へと向け歩き出す。横を歩く芳賀山の腕が七々瀬の肘に触れる。
七々瀬の前を向いていた視線が、芳賀山へと向く。
「愛されてるね、副会長」
「君は、怖がられてる」
「どうかな、君も、じゃない?」
七々瀬は目を伏せて、校舎に視線を向けた。くっきりと顎のラインが見え、七々瀬の顔が芳賀山から逸らされる。
「……そんなことないよ」
「君は、かっこいいからね」
芳賀山は密やかにそう囁く。
そこかしこからかかる挨拶を無視することなく丁寧に返していく。三ツ橋の姿はない。芳賀山と七々瀬は、時間をかけて靴箱につく。
靴を上履き代わりのローファーへと履き替えて教室に続く階段ではなく、職員室の前へと向かう。
焦茶色の壁に白い模造紙が三枚、貼られている。試験が終わり、結果が出たのである。赤線下の生徒は少ない。職員室の前にわらわらと群がっていた生徒たちは芳賀山と七々瀬に気づくと一気に散らばって、生徒たちは数人のみとなった。
「高城川くんも花山さんも頑張ってるね」
模造紙にある手書きの文字は、高城川純と花山佳苗の名前を一位、二位と続けて記している。芳賀山は顎を上げて模造紙を見ていたが、七々瀬は顎を下げ、赤線下の生徒の名前を確認していた。
「補習はしなければならないようだよ。何人か、二回目の赤線の生徒がいる」
「クラス委員会にも声をかけておこう」
「高城川くんと花山さんにも、補習の補佐に入ってもらうから話をしておく」
七々瀬は頷いた。その七々瀬の背に芳賀山の手が押し当てられる。下がっていた七々瀬の顎が上がり、僅かに床をローファーの踵が擦る。
「教室まで送りたいから、そろそろ行こうか」
芳賀山の手のひらが七々瀬の青磁色のシャツを背中へと隙間なく押し付ける。
「昼は、どうするの」
口元にある黒子が、小さく動く。七々瀬は、芳賀山へ顔を向けることなく、模造紙を見つめたままだ。
「勿論、迎えに行くよ。七々瀬」
「そう」
平坦にそう言うと、七々瀬は背中にある芳賀山の手へ体を預ける。芳賀山の手がシャツの上を滑り、七々瀬を抱えようとした。
しかし、七々瀬は直ぐに教室へと続く階段へと歩き出す。芳賀山の上げた手が静かに握りこまれ、太腿の横へと下がる。
唇を舐めた芳賀山は、七々瀬の後を追って階段をのぼる。七々瀬の背に、もう一度、芳賀山の手のひらが触れる。
七々瀬は、眉を下げたが階段をのぼる足は止めない。
「芳賀山、よせ」
短く、平坦にそう言うのみである。
♔ ──────── ♚
濃い緑が空の青とくっきりと境界線を作る。白く輝く太陽の光が花壇に咲くパンジーやマリーゴールドの花弁を華やかに照らす。
校舎の前で、低木に咲く白や青の小さな花が風に揺れていた。辺りには、花の匂いではなくカレーのスパイシーな香りが漂っている。
食堂は十三時を過ぎ、二年生の生徒たちで溢れかえっていた。
男子生徒が、女子生徒と共に食堂のカウンターにトレイを置く。
「日替わりのカツカレーをお願いします。あと唐揚げ」
カウンターに立つ職員が頷いて、大皿に白米を盛り始める。
「太るよ、橋野。さっき、売店でドーナツ買ってたのに」
「なんだよ、太ったらだめなのか」
言い合う二人の後ろには生徒たちの列が並ぶ。食堂のテーブルは次々に埋まっていく。生徒たちの話し声と食器が擦れる音。それからカレーと油の匂いが食堂の中を満たしている。
騒めく声が一瞬、途切れる。
通路を埋めていた生徒たちが道を開いた。その間を七々瀬と芳賀山が歩いていく。誰も、座っていない窓際の席。その窓際の席の手前で、七々瀬と芳賀山は足を止める。
手前の席に座っていたのは、四人の生徒たちだ。女子生徒が三人と、もう一人は三ツ橋である。
「準備、いつもありがとう」
七々瀬がそう声をかけると、女子生徒が息を飲んで頭を下げる。
「あ、いえ!大丈夫です」
持っていたパンを包装紙に包み直し、彼女は手の中に握り込む。それを見た芳賀山が、七々瀬の手のひらを掴む。
四人の視線が一斉にその手へと落ちる。
「君、緊張させているよ」
「芳賀山」
七々瀬は芳賀山の手から手を引き抜くと、眉を下げて窓際のテーブルに足を進める。
芳賀山は四人の生徒が座るテーブルを見下ろす。背筋が伸び、一分の隙なく美しい目が僅かに伏せられている。
「ありがとう、本当に君たちには助けられているね」
パンを握りこんだ女子生徒は、その手をテーブルの下へと下ろす。
三ツ橋が芳賀山を見上げ、とんでもないです、とそう言った。
「ぼくは、ファンクラブの活動を公平に見守っているよ。良い活動をすると、君たちを信じているからね」
柔らかい声音で、芳賀山が言葉を紡ぐ。三ツ橋の頬が痙攣して、喉が鳴る。
窓際の席に立っていた七々瀬が椅子を引いた。
「会長、こっちに」
七々瀬の声に芳賀山は、四人に微笑むと七々瀬の待つテーブルへ行く。
並んだトレイの上には、カツカレーとサラダ、そして水と緑茶。紙パックのオレンジジュースと牛乳がある。整えられたテーブルへ、芳賀山は椅子を引いて腰を下ろす。七々瀬がそれを見て、席につくと緑茶のペットボトルに手を伸ばす。
「やり過ぎだよ。三ツ橋くんたちはよく、頑張ってくれてる」
蓋を開け、緑茶は透き通った若苗色でグラスを満たす。
「そうだね、ぼくも助かっているよ」
「君、どうしたの」
七々瀬は蓋を閉め、ペットボトルをトレイの外に置いた。テーブルの上に、窓から入る日差しが緑茶を通り抜けて若苗色の影を作る。
芳賀山の手が膝の上からテーブルに置かれた。人差し指が、一度テーブルを叩く。
「君は、ぼくの王子様だろう?」
薄く開いていた七々瀬の唇が閉じる。
「ぼくは、七々瀬がぼくの王子様でないと、泣いてしまうよ」
芳賀山の頭がゆっくりと左へ傾く。伸びていた背筋が緩み、七々瀬の顔を芳賀山は美しい一重の目で見上げる。
「ぼくは、七々瀬が好きだよ。少し、妬いてしまったみたいだ」
そう言って、芳賀山は目を伏せる。背筋を伸ばし、居住まいを正して芳賀山は手を合わせる。いただきます、と小さく呟く。
七々瀬は口を閉じ、芳賀山を見つめて動かない。代わりに、ペットボトルにかけた七々瀬の指が僅かに震えて、白く濁るほど蓋に爪を立てる。
スプーンを手に取って、芳賀山がカツカレーに差し込む。
「僕は」
ペットボトルが、ぼこ、と音を立てる。芳賀山の視線が、七々瀬の手元に落ちる。
「七々瀬」
「僕は、君をデートに誘うつもりだった」
落ちた視線が、七々瀬の顔へと向かう。白い顎にある黒子が口元で震えている。
「君、もう少し考えた方がいい」
そう言うと、七々瀬は立ち上がる。ペットボトルを握りしめた手には筋が浮き上がっていた。芳賀山が席を立とうとしたが、七々瀬の見下ろす目が止める。
「補習対象の生徒の確認へ行ってくるよ」
「……わかった、ぼくは先に食べておくね」
芳賀山の言葉に頷き、七々瀬はペットボトルを持ったまま食堂を出ていく。滑るように歩くその背は乱れが見えない。ただ、四角形に近かったペットボトルは八角形以上の角を得ただけだ。
芳賀山はそれを見送ると椅子を引いて、立ち上がる。背もたれへと手をかけ、長い足が一歩下がる。
後ろの席に座っていた四人の肩が揺れる。三ツ橋の足が、テーブルの下で誰かに踏まれる。
「いっ」
三ツ橋が口を開いたと同時に芳賀山が振り向く。トレイの上にあるカレーはまだ湯気が立っている。
芳賀山の手が椅子から離れた。
「三ツ橋くん」
「あ、僕、ですか?」
がたん、と音を立てて、三ツ橋は腰を上げた。
「高城川くんと仲良くしていると聞いたよ。ぼくとも是非仲良くしてくれると、嬉しい」
芳賀山の目から顔を逸らし、三ツ橋は、顔を伏せるように頷く。
「ぼくも七々瀬も、他に用事がある。食べられなくてごめんね」
「大丈夫です」
「ありがとう、お願いするよ」
手付かずのカツカレーがあるテーブルへと向き直り、椅子を寄せる。軽く口元に手を当てると、目を伏せる。
伏せていた目を上げた芳賀山は小さく頷き、食堂から出ていく。売店へ立ち寄り、いくつかのパンを購入する。
その足で、二年一組の教室へ向かった。
♔ ──────── ♚
人気のない職員室の廊下。校舎の外からは、試験を終えて活動を再開した運動部の声が僅かに響く。吹奏楽部の金管楽器が演奏する音色がその声に混じる。
職員室の横にある小さな部屋の扉が開いている。木製の椅子と机が部屋の中央にあり、壁に貼られた額縁には太い毛筆で文字が書いてある。
規律、自立、節度。
力強い筆致で書かれたそれは、曇りもないガラスの奥で室内灯に照らされている。
その下に立つ七々瀬へと男性教師が話をしていた。
「以上、二人のカンニングだと確認した経緯だよ。七々瀬くん、書類を渡しておくから後は頼むね」
「承知しました。こちらで確認し、芳賀山から罰則申請書を提出します」
七々瀬は書類を受け取り、それをバインダーへと挟む。
「わかりました。じゃあ、先生は職員室に戻ります」
男性教師はそう言うと足早に部屋から出て行った。部屋の扉は開いたままだ。
七々瀬はそれを確認して、二人の生徒を見下ろす。
「副会長の七々瀬です。学年、クラス、出席番号を順番にお願いします」
男子生徒が目を閉じて口を噤む。横に立っていた女子生徒がちら、と男子生徒へ視線を向ける。
「君からだよ、一年三組の佐藤くん」
男子生徒は弾かれたように、七々瀬を見上げた。表情のない七々瀬の整った顔に息を飲む。
沈黙が落ち、男子生徒の手がズボンを握り込んだ。
「い、一年三組、十三番、佐藤德です」
「一年三組、三番、生島愛……です」
上擦ったような震える声で名乗った二人に、七々瀬は頷く。
「では、二人で協力してカンニングを行ったことは、間違いないか教えてください」
生島が佐藤に顔を向けた。
「あ、あの、佐藤くんがやってたから、その手伝いちょっとしただけで」
「俺だって違う、おまえがやるっていうからだろ」
言い合いを始めた二人に、七々瀬は持っていたバインダーを胸に持ち上げる。一歩、踏み出して彼らの前に立ち塞がる。
「静かに」
七々瀬を見上げて、二人は後退った。七々瀬は何も言わずに、ただ見下ろす。
「……だっ……」
何事か言おうとした生島だが、出た言葉は、はい、という二文字のみである。
七々瀬はバインダーの上にある書類を捲ってポケットからボールペンを取り出した。
「佐藤くん、先にいくつか聞くことがある。正直に答えるように」
「はい……」
佐藤は俯いてそう返事をした。
「緊張することはないよ、落ち着いて答えてくれたらいい。答えた内容で何もかわらないから」
ぷああ、と低く高く重なる金管楽器の音色が響く。半分ほど開いた窓から風が入る。七々瀬の額の上を短い前髪が揺れる。
カンニングの聞き取り調査を終えた七々瀬は校舎から出ていく。
青磁色のシャツが、七々瀬の伸びた背筋に引っ張られて肩甲骨の下に皺を作る。鉄紺色と藍鉄色のチェックのズボンを纏った長い足が滑るように移動して、足音は立っていない。
運動場から響いてくる生徒たちの野太い声と、砂埃が混じった風。二号棟へと入ると、七々瀬の白い顔に、影が落ちる。日差しの無くなった校内は僅かに冷んやりとしている。
窓からの陽光を取り込む廊下の床は、明るい茶色に輝いている。その横に、設置されている階段から数人の生徒がばたばたと降りて来た。
「七々瀬さん、こんにちは」
「こんにちは」
ユニフォームを纏った生徒たちは一瞬立ち止まり、頭を下げて駆け抜けていく。生徒たちを見送ることなく、七々瀬は階段の手摺りへと手を置く。
「七々瀬」
七々瀬の背中に、芳賀山の声がかかる。前を向いていた七々瀬が、振り向く。
強い日差しを背に、芳賀山は開いた二号棟の入口をくぐる。逆光で暗く陰り、表情は隠れていた。
七々瀬に近づくにつれて室内灯の光に馴染み、芳賀山の顔がはっきりと現れる。緩く微笑む芳賀山に、七々瀬は目を伏せる。
「君に、会えて嬉しい」
「避けていない」
手摺りに置かれた手の甲に、骨が浮く。七々瀬の足が段板にかかり、階段をのぼりはじめた。バインダーを持つ七々瀬の手に、芳賀山の指先が引っ掛けられる。
「お昼から君に会えていない」
芳賀山の指先から左胸の前へと、七々瀬はバインダーを持ち上げる。
「パンをありがとう。芳賀山、一年生のカンニングの件についてだけど」
七々瀬がそう言いかけた時だった。階段の踊り場で、芳賀山は長い足を七々瀬の前へと大きく踏み出す。
七々瀬は足を止め、目の前に立つ芳賀山へ顔を向ける。
「……芳賀山?」
「返事をもらうつもりで、言ったわけではなかったんだよ。七々瀬」
芳賀山の手が、青磁色のシャツの前にあるバインダーを引く。七々瀬はバインダーを離さない。
「────デートをしたら、君に好きだと言ってもらえる?」
ぐっ、と七々瀬はバインダーを胸へと引き寄せ、それを太腿の横へと引き下ろす。
「会長、生徒会室に行こう」
「七々瀬」
芳賀山が一歩、足を踏み込む。七々瀬は芳賀山の横をすり抜け、階段をのぼっていく。芳賀山は小さく溜め息を吐き出すと七々瀬の後を追う。
ばたばたと、二号棟のどこかで生徒が走る足音が響く。開いた窓から木々の隙間を通って、階段を上がるごとに空気が冷えていく。
生徒会室へと続く廊下に、人気はない。
「山羊中さんにクラス委員会の招集をお願いしたよ。一年生は少ないけれど高城川くんと花山さんにも監督をしてもらわなければならないね」
「帰省はしたいだろうけど、協力してもらうしかないね。風紀委員は、夏休みは寮長と協力するように指示を出してるよ」
二人の話し声が静かな廊下に響く。革靴の踵が床を叩いている。
七々瀬の革靴が、止まる。
芳賀山が少し遅れて足を止め、振り向く。
七々瀬の顎が僅かに上がり、鼻で息を吸い込む。
「……芳賀山」
七々瀬は、芳賀山へと手を伸ばす。芳賀山の手のひらを掬い上げ、息を口からゆっくりと吐き出す。
「僕は誤魔化したくはない」
七々瀬に持ち上げられた手を、芳賀山は横へと引き寄せる。
「芳賀山、僕は君が好きだよ」
バインダーを持つ七々瀬の腕に芳賀山は、手をかける。二人の足先がぶつかる。芳賀山の足先が、七々瀬の革靴の内側を擦った。
「七々瀬」
青々と茂る山を彩る木々は、白と赤茶を纏う巨大な校舎を包む。山の中腹に位置する古高辿学園は、創立百二十六年を誇る全寮制の学校である。
白梅を中央に配する校章は、ただ、高潔に誇り高く校舎の壁にある。
終わり




