アオラ・シュタインの不安と期待
「ハウゼン師から連絡を受けたが、どうやらシュタナート・ジオールが生きているようだ」
帝国魔術師最高位である大導師にして帝国で最も魔術の才を持つとみなされているドラクル・シュタインは自宅の夫婦の部屋で最愛の妻であるアオラに感情を押し殺したようにそう言った。
「そうですか、よくあんな状況で生きておりましたね」
アオラはそれを聞いて色々複雑な思いをあるのだが、かつてシュタナートの愛人であったため、愛する夫に配慮して、あまり興味なさそうに返答した。
「正確に言うと一度は死んだが、《転生》の魔術を用いて復活したらしい。しかし《転生》なんぞ不安定な魔術でいざという時に発動するかもわからんとか言っていたが、味方にすら知らせず切り札として温存しておったのだな。まあ、どこに敵や裏切り者が潜んでいて、いざという時に妨害されるかもしれんし、それが最良かもしれんな。優れた者にありがちな自信家過ぎるきらいがあったと思っていたが、さすがは総大導師だ、なかなか用心深い事だ」
ドラクルは感心するように早口で語った。
「《転生》? だとしたら力を失ったりするのでしょうね」
アオラは夫が魔術師なので出来るだけ知ろうと努力したので魔術の知識はなかなかのものだ。
「うむ、さすがは我が妻だ、よく知っておるな。残念ながら君の言う通り、かなり魔力を失っているようだ。何とか取り戻して貰いたいが、ハウゼン師が見る限りかなり難しいとのことだ」
「あら、それは少し残念ですね」
「だがしかし、総大導師なら……」
その後も夫妻はシュタナートのことを語り合った。
正直、アオラにとっては昔は愛していたものの、今では完全に過去の人となっている。
当時は自分が最もお気に入りの愛人であったため、ひょっとしたらいずれは自分のことを愛してくれるようになるのでは、という淡い期待もあったが、他の女を愛した挙句しかもその女に殺害されてしまったので、もはや特別な感情が抱いてはおらず、ただの懐かしい人物に過ぎない。
しかし、シュタナートのことを熱く語る夫の方はどうやら違うようだ。
そしてそれから数日後のある日、アオラは自宅の広く、かなりの蔵書がある書斎で読書をしていた。
彼女は庶民の出身ではあるが、教養を学ぶことに積極的である。
当初はシュタナートに影響されて、結婚してからは優秀な魔術師である夫に恥じぬ妻になるためだ。
その努力でどこに出ても恥ずかしくない教養を身に付けている。
しばらく読書をしていると女の使用人が訪れてきた。
「奥様、旦那様が話があるので執務室の方へお越しくださいとのことです」
「わかりました、すぐに行きます」
アオラははて何の話だろう、わざわざ《防音》の魔術が掛かっている執務室に来いというのならそれなりに大事な話なのだろうと思いながらそう返事すると、読みかけの本にしおりを挟んで執務室へと向かった。
「アオラです、お呼びのようなので参りました」
アオラは執務室の前の付いた後、数回扉を叩いてそう声を掛けた。
少しの間をおいて、扉ノブに手を掛けようとすると、先に中から扉が開いてドラクルの方から出て来た。
「すまない、アオラ呼び出してしまって。さあ、中に入ってくれ」
そう言うとアオラの手を取り、部屋の中に誘導する。
ドラクルは普段に比べて腰が低く、どうやら機嫌を取っているようだ。
これは自分に対する頼みごとか良からぬ話でここに呼んだのだな、まあ自分に多少の不利益がある話でも、出来るだけ夫の顔を立てて無碍にはしないように、と献身的な妻を自負するアオラはそう思った。
アオラはドラクルと共に執務室に入ると、促されて長椅子の一つに座ると、ドラクルもテーブル挟んで置いてあるもう一つの長椅子に座った。
「で、どういう話なんでしょうか?」
ドラクルが少し言い出しにくそうにしているので、アオラから声を掛ける。
「先日、話したシュタナート・ジオールの件であるのだが、ハウゼン師やベイゼル師、フォーエン親子から多大な世話を受けてここ帝都に向かっているとのことらしい……」
そう言ったドラクルの表情にかつての同僚たちへの嫉妬の感情があることを十数年夫婦をやっているアオラには察することが出来た。
「どうやら彼は帝都で魔術を学ぶとのことらしいが、他に目的があるのではないかとハウゼン師が言っておったな」
「ああ、そうですか」
アオラはあまり興味が無さそうな相槌を打つ。
「そこでだな、帝都滞在中は我が家で彼の面倒を見ようと思う」
ドラクルは少し言いにくそうである。
「それはこの家にシュタナート様を住まわせるということですか?」
怪訝そうな表情でアオラが確認する。
「そ、そうだな」
その返答を聞いてこの人は何を言っているのだろうと思った。
アオラとシュタナートは愛人関係にあったことは当然、ドラクルも知っている。
そんな男を妻と同じ屋根の下に同居させようというのだ。
そしてアオラには怒りの感情も沸いてくる。
彼女は夫のために貞淑な妻でいようと浮気は勿論、その疑いすら抱かせないように日々注意を払ってきた。
男の使用人とさえ可能な限り距離を取っている。
ドラクルの話はその努力を無碍にしてしまうのだ。
「ハウゼン様たちのようにあなたもシュタナート様のために何かしてあげるのは結構なことですが、だったら他のことにしたらどうでしょうか? 一緒に住むとなると全く何も悪い事が起きないとは限りませんよ」
アオラには怒りの感情が滲み出てはいるものの、努めて諭すように言った。
「それもそうだが、逆に彼と一緒に住むのは良い面もある。先日のシュタナートの話をしたあの晩、互いに結構良かっただろう?」
「そう言われれば……」
二人は相性の良い夫婦であるがさすがに十数年もやっていると、どんな良い相手だとしても新鮮味が薄れて行為自体が以前ほどは楽しめなくなってきている。
互いに生涯一人だけと決め、性行為を夫婦の重要な絆であると認識し、まだまだ長きに渡って肉体の若さを維持するであろう二人にとっては重要な問題である。
しかも二人は更に子供を欲しているので、色々趣向を凝らすなどして、何とか回数自体を減らさないようにと努力している。
「それに心から信頼出来て、強い君だからこそこんな話が出来るのだよ。君も知っての通りシュタナートは約束は守る男だ。君に手を出さないことを約束させれば、まず大丈夫だ。それに元々、特定の相手が居る女には手を出さん性分だしな。まあ《転生》しているので以前と性格が変化している可能性があるので、そこは見極めなくてはならないが」
ドラクルにはアオラとシュタナートに対する高い信頼が窺える。
アオラはドラクルの自分に対する信頼は嬉しいものの、シュタナートに対しても同じく高い信頼を置いているのがあまり面白くない。
アオラは少し考える。
そしてアオラはドラクルの目をしっかりと見てこう言った。
「一つ聞いておきたい事があります。あなたは私とシュタナート様、どちらが大切なのですか?」
この言葉を聞いて、ドラクルは焦った表情になる。
「何を言う、君の方が大切に決まっているだろう。私は君の為に必要とあらばシュタナートを殺す事も辞さない。どうやらこの話でそのように誤解させてしまった様だな、君が無理というならこの話は無しにしていい」
このドラクルの言葉は十数年間夫婦をやっていて、夫のことを誰よりもよく知るアオラには嘘偽りないことがわかった。
ただこの話を無にするのはかなり残念そうでもある。
ドラクルの言葉を聞いて、アオラはまた少し考えてから言う。
「いえ私を心から信用して頂いているからこそ、この様な提案がなされるのですね。わかりましたあなたの話を受け入れます。夫のしたいことを不利益が無いなら出来るだけさせてあげるのも、良い妻かと思いますので」
「おおそうか、受け入れてくれるか。何、シュタナートが家に来て過ごすのは私達の夜のことだけではなく、子供たちにも様々な面を学ばせて成長を促してくれるだろう。いやそれは子供たちに限らず私達夫婦もかもな」
ドラクルは嬉しそうに言う。
確かにシュタナートは魔術の能力の失ったとしても、尊敬できる面は多いので、それはアオラも同意出来る点である。
「しかし、今のエリーに興味を持ち過ぎないかが少し心配ではあるな。あの子は君に似てかなりの器量良しだ。確かあの女をさらってきたのは確か八つと時だったかな。そんなにエリーと歳は変わらんな。将来はともかくさすがに今は……」
当時、シュタナートが八つのイシュアを自宅に住まわせたことから、魔術師団の上層部の極一部、というかほぼハウゼンとベイゼルから「シュタナートは幼女すら範囲内」との冗談が言われていた。
事実はどうであれ、ほぼ完璧に見える自分たちの主にそういう点があった方が面白かったからである。
「それは大丈夫かと、まあ心配ならその点も約束させたら良いのでは。シュタナート様に失礼で気が引けますが」
アオラは他の愛人のことも知っていて、逆に40を超える年齢の者はいたが、十代中盤以下の年若い者は皆無であったので、シュタナートに特にそういう性的嗜好は無く、単なるハウゼンとベイゼルの冗談と判断している。
ドラクルの方も同じくほぼ冗談と思っているものの、目にいれても痛くない、客観的に見ても愛らしい娘に対して親馬鹿である故の心配である。
「そうか、君がそう言うなら大丈夫だな。なんせ、彼の性的嗜好はやはり君の方が良く知っているし。良し、この話を進めておこう。しかし、色々刺激がありそうで楽しみだな」
ドラクルは胸をなでおろした様に言った。
アオラには夫に昔の愛人だった男の性的嗜好を良く知っていると言われるのは事実であれ、気分的によろしくないが、自分の言葉を信用して決定したことは悪く無い気持ちだ。
今までもドラクルは信頼し賢いアオラの言葉を重用し、それが決定に多い作用したのが多かった。
正直、アオラにはシュタナートと一緒の屋根の下に住むことに少々の不安がある。
自分の中では過去のものとしたつもりであるが、しかし彼には以前のような美しい容姿や富と権力が無くとも不思議な魅力があることを知っている。
それに抗い、夫と子以外の男には指一本触れさせないどころか全く興味も示さず見向きもしない、自らが定めている完璧な貞淑な妻を続てけいくことはそれ程簡単ではないだろうと思っている。
だがアオラは家族にも経済的にも恵まれ、平穏で幸せな生活であるが、どうも刺激が無く少々退屈でもあった。
夫がシュタナートという刺激を与えてくれるなら、その刺激を出来るだけ楽しもうと彼女は思った。
そして淡く、自分勝手な期待ではあったが、結局は自分を選ばなかったシュタナートに対してささやかな意地悪をしてやろうとも思った。
自分対して何らかの魅力を感じてくれたらその意地悪はより効果的で面白くなりそう、とアオラは頭の中で想像を巡らせてほくそ笑み、シュタナートと再会する時が待ち遠しくなってきて思わず表情にも出てくる。
そんな愛する妻の表情を見て、早速ドラクルは嫉妬し、今夜は激しく求めるのだった。




