66 聖女と英雄 vs 魔王 ⑧
思いの外天理くんサイドが長くなっておりまして……。
一か月以上姿を見せない主人公。斬新ですね。
「grrrrrr......」
蹲った状態で、どこか苦し気な呻き声のようなものを上げる黒の獣。
反射的に後ずさった天理だったが、それすらも自覚しないまま、誠二だったソレに声を掛けようとして。
「ああぁぁあああぁぁあッ!」
その隣を駆け抜ける弾丸によって妨げられる。
「ルーシカ?! やめっ―――――」
思わず掛けようとした声は最後まで吐き出されることはなかった。
常ならば、魔物と戦うとなれば意気揚々と、もしかしたら顔に笑みまで浮かべてまで最前線で武器を振り回すルーシカだ。その姿をこれまでの旅路で何度も目にした天理はその悪癖ともいえるそれに心配こそすれ、こと戦闘能力に対しては不安に思ったことすらない。
だが、今はどうだ。
何時もならば不敵に、楽しげに吊り上げられていた頬は緊張から強張り、鬼気迫ると言えるほどに切迫した表情を携えている。
天理が本能から後退を選んだように、ルーシカは本能から前進を選んだとでも言うのだろうか。
無謀ではある。蛮勇でもある。
未知のものに対して考えなしに突っ込むのは明らかに悪手だ。だが、それでもルーシカならという信頼が天理にはあった。
極限の緊張感からか、弾丸のように飛び出したルーシカがソレに近付くにつれ、天理の視界の中で時間が引き延ばされ、景色がスローモーションで流れていく。
ルーシカはだだっ広い自らの間合いにソレが入ったのを近くした瞬間に姿勢を低くしたまま跳躍。選んだ手は高所からの叩き潰しではなく、面を制圧する横凪ぎだ。
姿勢を低くしたのは蹲ってなおルーシカより全長の高いソレの中心を確実に凪ぐため。
ともすれば一撃必殺の気合いさえ込めたその暴力は、コマ送りになった天理の視界から見ても究極とも言える一撃だ。
「―――――ッは」
それは誰の口から漏れたものか。
身動ぎ一つすることなくルーシカの行く末を見守っていた天理が発したものか、それともギルマスによって退避させられ、そこから負傷者の救護に回っていた紫葵の声だったのか。
もしかしたらギルマスかもしれないし、他の誰かだったかも、いや、手に持つ大斧を手応えなく振り切ったルーシカがこぼしたものだったかもしれない。
ただ一つ、正しく理解できたのは、必中に思えたルーシカのそれが、何の呼び動作もなく、それこそ眼前に向かってくる羽虫を避けるような気安さで回避されたという純然たる事実だけだ。
「grrrrraaaaaaッ―――――!!!」
「…………かひゅッ?!」
咆哮とともに、黒の獣がぶれた。
離れた場所にいる天理でさえ、一瞬その姿を見失ったほどに高速な動き。至近距離で見ていたルーシカからすると完全にその姿が消えたように見えただろう。
飛び付いた勢いをそのまま反転させた一撃を腹部にもらい、短く呼気を吐きながら吹き飛び反対側の壁に衝突するルーシカ。
それを見た天理の身を驚愕という名の硬直が襲う。
ルーシカの実力を短くない期間近くで見ていたからこそ天理は目の前の事実が信じられなかった。
天理の本能は眼前の黒の獣に対して強く警鐘を鳴らした。それは間違いないし、だからこそ天理は無意識のまま大きく後退りした。
反対にルーシカはその脅威度の高さゆえか、短期による撃退を選択したのだろう。その判断はルーシカのこれまでの経験と、そして獣じみた本能からくるものだ。
だからこそ解せない。ルーシカとて何の策も無しに未知の相手に突撃を仕掛けるほどに命知らずではない。それがあんなにも無防備に反撃を繰り出されるという事はどういう事なのか。
―――――それほどまでにあの獣とルーシカたちには隔絶した戦力差があるとでも言うのか。
「ッ! ルーシ―――――ぇ?」
衝撃に麻痺した思考を無理やり働かせ、天理は今自分がすべき行動を起こす。それはルーシカへの加勢であり、もしルーシカが今の一撃で戦闘不能になっていた場合の対応だ。
故にこそ天理は土煙の向こう側に追いやられたルーシカの行方を捜すために一瞬黒の獣から目を離した。
そしてその隙とも言えない僅かな間隙を、黒の獣は見逃がさない。
獰猛な、殺意と呼ぶのすら生易しいほどの猛々しく毒々しい気配を間近に感じ、天理は視線を戻す。だが、そんな天理の視界に映ったのは目いっぱいに広がった獣の姿。
あの一瞬でここまで。そんな思考が言葉として漏れる暇すらなく、振りかぶられた凶手が無防備な天理を屠らんとして。
「―――――させません! 八乙女舞・守式『榊の舞』」
何も出来ずにいた天理と黒い獣との間に瞬間的に割り込む影があった。
今まさに振り下ろされた黒い瘴気と泥を纏った一撃をアルマーニは手に持った小剣と独楽のように軽やかにそれでいて優雅な回転によって受け流す。その余波が床を叩き、新たな罅を作るが、アルマーニもその背後にいる天理にも怪我一つない。
といっても、アルマーニからしても予想外の威力が籠っていたのか、小剣を握る手が微かに震えているのをどこか他人事のように冷静な思考で捉える。
「……あ、りがとうございます」
「礼は不要ですよ。粛清官というものは教会の理念に沿って動くものです。魔の物の根絶と、そして民の平穏な生活を守る。それは貴方も例外ではありません。それより」
一度言葉を区切り、再び仕掛けてきた突進を今度は紙一重で躱し、掬い上げるように蹴りを放つ。淡く黄金色に輝き、気力を纏っているだろうそれは轟音を響かせながら黒の獣に突き刺さり、大きく吹き飛ばしていく。
だが、それほどの一撃を食らってもなおあまり応えていないのか、吹き飛ばされた先で受け身を取り、今度は再び己の身を抱くように蹲る。
それはまるで制御の出来ない力を持て余し、苦しんでいるような所作にも見て取れた。
「あれは『泥』、ですか……。まさかまだ残っていたとは」
「泥……?」
「かつての大戦の折りから何度か発生していたものです。粛清官の総力を挙げて浄聖したと思っていたのですが。ともあれ、あれが出てきたのでは、もう貴方がたの手には負えないでしょう。ここからはわたしが引き受けますので、貴方は聖女さまの避難を―――――ッ!」
そこまで発すると同時に、二つの影が動く。
人外じみた動きをする黒い獣の次の標的は、天理から離れた場所にいた紫葵だった。周囲を幾人もの魔物狩りで固められているにも関わらずの特攻。だが、それを易々と許すアルマーニではなかった。
全身を淡く輝かせ、黄金色の軌跡を残しながらアルマーニが黒の獣に追撃し、瞬く間に追いすがる。背後から迫る彼女の圧力を厭ったのか、ソレは背後に手を翳す。すると見る間に身体にまとわりついていた黒い靄が翳した手に集まっていき、そこから弾丸としてアルマーニに向けて発射していく。
それを回避、もしくは迎撃していくアルマーニ。だが、彼女の持つ武装は頼りのない小剣一振りのみ。何度か繰り返された攻防により、やがてそれは耐えきれなくなったのか、刀身が真っ二つに折れてしまった。
それを見た黒の獣が、にやりと笑みを浮かべたような気がした。
「この子じゃ限界が……ッ!?」
先に脅威になり得るアルマーニを排除すべきと判断したのか、そのまま紫葵を狙う事なくアルマーニに狙いを変更する。
対してアルマーニは徒手空拳だ。別にその心得がないわけではないが、見るからに醜悪なソレと素手で直接やり合うのは嫌な予感しかしない。
そこでようやく天理は自らが弓という武器を持っている事を思い出した。どれだけ呆けていたというのか。あまりの状況変化に脳が付いていけなかったなどという言い訳も出来ない。
「―――――シッ!!」
「grr!? rrrrrrraaaaa!!!!」
助けなければ、という半ば無意識的な行動で天理は魔力矢を放つ。それに一瞬虚を突かれたような声を上げるものの、腕の人払いで撃ち落とし、そしてソレが天理に顔を向けた。
「―――――ッ!!?」
瞬間、天理の背を、全身を怖気が大挙して走り抜ける。
分かっているのに、身体が硬直する。恐怖というものは本能に刻みつけられた楔だ。一度飲まれてしまえば、よほどの事が無い限り強固な鎖となってその身を縛り付ける。
「……くぅっ!? ―――――しまったッ、テンリ!!」
アルマーニに背を向けた形となった黒の獣。それを見た彼女が音もなく忍び寄り、その急所を突こうと試みる。
だが、一枚上手だったのは黒の獣の方だった。
気配にて察知したのか、そもそもアルマーニから意識を外しきっていなかったのか、ソレはノーモーションで背中から黒い泥状のものを放出する。それ自体に攻撃力はほとんどなく、その目的は牽制だ。それを察したアルマーニが警告の声を上げるも、時は既に遅い。
ほとんど一飛びで天理の下へと跳躍した黒の獣。濃厚な死の気配を天理は感じ取った。
目の前の獣には殺意と力があり、天理にはそれに抗う力を持ち得ない。
それは歴然とした事実であり、覆しようもない現実だった。
そんな、死を目前にした状況でも、天理の目は、目だけは死中に活を求めるかのようにその能力を遺憾なく発揮していく。
世界が色を、そして音を無くしていく感覚。時間が引き延ばされ、次第に天理の視界では全てがコマ送りのように再生されていく。
それと同時に広がっていく視界で、天理は顔に悲痛な表情を張り付けながら何事かを叫んでいる紫葵の姿が見えた。端では崩れた壁の残骸から起き上がるルーシカの姿も。
そして天理の下へ懸命に駆けつけようとしているアルマーニの姿も。
だが天理は、そんな天理だからこそ全てが間に合わず、そして自分は死ぬのだろうと冷静に自覚した。
恐怖の許容量を超えたのか、思考がすぅっと音を立てて冷めていくように感じる。だが、だからといって身体が動き、何かを出来るわけではない。
遅々としながらも、既に眼前へと迫っている禍々しいその手を見ながら、天理はふと上に視線を向けた。
そこには『理外の巨人』もどきが開けた大穴があり、先ほどまで月光を余す事なく王の間に降り注がれていた。
だが、どうしたことだろうか。
今ふと向けた視線の先では、何故だか月の明るさが目に入らない。
代わりに見えるのは月より大きい何かだ。
それを最後に認知して、天理の視界を黒が覆った。
最後まで読んでくださりありがとうございます。




