手綱を放すな
「裏切り者はリオネッロでしたか……いい奴だったんですがねえ」
日記の解読と報告を終え、マルク・アメリアはしみじみとコーヒーを啜ってそう言った。ベッペ・パローラを警察に売った裏切り者は、今日中にでも処理されるはずだ。
「そいつがピエトロの居場所でも吐いてくれれば楽なんだがな」
ニーノはたいした興味も無さそうに、寝ぼけ眼を窓の外に向けてあくびをする。シルヴェリオが早めに起こしてくれたので寝坊はせずに済んだものの、アルフォンソに急かされたせいで朝食を摂り損ねてしまった。文字通り『三度の飯より仕事』という感じである。むしろあの『猟犬』にとっては、カリカリに焼いたベーコンよりもご主人様からの労いの言葉のほうがよほど魅力的なのだろう。
「ご苦労様でした、二人とも。新しい情報が手に入り次第伝えますので、君たちは引き続き捜索を続けてください」
「かしこまりました。マルクさんも、くれぐれもお気を付けて」
返事をして、アルフォンソが勢いよく席を立つ。
「おい、もう行くのか? まだ朝飯が……」
「のんびりしてる暇があるとでも? こうしてる間にもピエトロは攻撃の策を着々と進めてるかもしれないっていうのに」
「まあまあ、落ち着きなよ」助け舟を出したのはラウロだった。「腹が減ってはなんとやらって言うだろう? 歩きながらでも食べられるものを作ったから、よかったら持って行ってよ」
差し出されたバスケットの中身はサンドイッチだった。ふかふかのパンにレタスとゆで玉子を挟んだものや、こんがり焼いたトーストにとろけたチーズと軽く炙って甘みを引き出したトマトを挟んだものなど、どれもこの短時間で作ったとは思えない完成度であった。立ち上る芳香の誘惑に、二人は思わず唾を飲み込んだ。
「おーい、なに拗ねてんだよ。サーモン横取りしたの、まだ根に持ってんのか?」
ピエトロの居場所についての情報を集めるべく繰り出した二人は、ポースシェルの西地区を訪れていた。治安の回復に成功した他の地区に対し、西地区はかつての『ビースト・ダンプ』の様相を残す、いわば『影の町』である。ここはあらゆる『負』のものが集まる場所だ。裏社会を渡り歩く情報も例外ではない。
「待てってば。怒るなよー。謝っただろー?」
「拗ねてません。怒ってません」
「だから歩くの速いってんだよ。なに急いでんだよお前はよー」
顔を覗きこむニーノに、アルフォンソは目線をまっすぐ前に向けたまま静かに言う。
「つけられてます。振り向かないで」
「なんだって?」
ニーノはポケットから手鏡を取り出し、髪型を整えるフリをして後ろを確認した。一瞬だったが、建物の影に隠れる人陰が確かに見えた。場所が場所なので別段驚くこともないが、今は状況が違う。ニーノは僅かな緊張を含んだ目を相棒に向ける。
「わお。やっこさんとこの使いかね?」
「さあね。ただの追い剥ぎかもしれませんが」アルフォンソの声は至って冷静だ。「いずれにしても邪魔なので巻きましょう。そこに見える煙草屋の通りに出たら左へ行ってください。公園の北側の入り口で落ち合いましょう」
「よしきた」
この辺りの路地は入り組んでいて、隠れる場所も多い。追っ手がこちらに来たとしても、ひとりだけならまず捕まることはないだろう。鬼ごっこは苦手だが、かくれんぼならニーノの得意とするところだ。
煙草屋の前に来た瞬間、二人は打ち合わせ通り反対方向へと走り出した。後ろから足音が近付いて来る。
「なめられたもんだな」
ニーノは呟き、口の端を吊り上げた。早くも息が上がり始めているが、ニーノの心中に焦りは無い。路上で寝ている浮浪者を飛び越え、薄暗い路地に滑り込む。入り組んだ配管の隙間から、追っ手らしき姿が見えた。
「ん?」
追っ手だと思った人物は見知った顔だった。寂れたスラム街に似つかわしくない上物のスーツに身を包んだ、気難しそうな人相の黒髪の男。
「ハーバートさん? なにやってんすかこんなところで」
姿を見せたニーノに対し、ハーバートからの挨拶の言葉は無かった。ニーノの姿を見た途端、ハーバートの目に鋭い光が差し、その両腕がニーノを赤レンガの壁に押し付けた。抵抗する暇などあろうはずもなかった。背中を強かに打ちつけたニーノは、咳き込みながらハーバートを睨みつける。
「ちょっ……なんなんすか! ってイタタタタ! ギブ! ギブ!」
「抵抗するな、ニーノ。突然だが一緒に来てもらうぞ」
「ホントに突然っすね……」ニーノは解放されたことにほっと息を吐いて、捻られていた肩を擦る。「ってか、親父に呼ばれたんならそんなに乱暴にしなくったっていいじゃないっすか」
「いや、マルクじゃない」
「ふうん。じゃあ誰に?」
ハーバートの眉間の皺が深くなるのを見て、ニーノの脳裏に嫌な予感が過ぎる。
「少しばかり難しい相手だ。レオンツィオ・サリエリ。お前も名前を聞いた事くらいはあるだろう」
その名前を聞いた瞬間、ニーノの顔からさっと血の気が引いた。
「なっ、どういうことっすか! なんでおれが、組織の幹部に呼ばれる羽目になってるんですか!」
「まあ落ち着け。私も一緒に行く。どうもリオネッロの捕獲に向かった先で問題があったようでね」
「問題って?」
「奴のアパートへ向かったが、もぬけの殻だった。昨夜の内に逃げ出したらしい。レオンツィオは、君達二人のどちらか——あるいは両方——が情報を流したと思ってる」
「そんな馬鹿な……」
「タイミングがまずかったんだろう。安心しろ、説得は私がする。ところで、アルフォンソは?」
「公園の北口で落ち合うことになってるんで、そこで待ってれば来んじゃないっすかね。それにしても、こそこそ後をつけるようなことしなくても、直接声をかけてくれればよかったのに。必死で走ったんでもうヘトヘトっすよ」
「後をつける? なんのことだ?」
「え?」
ハーバートの反応に一抹の不安を覚え、ニーノは待ち合わせ場所の公園へと急いだ。アルフォンソの脚力ならとうに着いていてもおかしくないはずなのに、周囲に彼の姿は見えない。ハーバートと二人で公園付近を探してみても、アルフォンソとの再会は叶わなかった。
ハーバートが腕時計を確認し、舌打ちする。
「これ以上探している時間はないな。まずはサリエリ氏のところへ向かおう。アルフォンソのことだから、最悪の事態は免れているだろうが……」
「まあアルの奴は大丈夫でしょうよ。心配なのはむしろ……」
あっけらかんとしたニーノの態度にハーバートは訝しげな目を向けたが、彼が言わんとした意図を察すると、眉間を押さえて溜息を吐いた。
「敵さん、『襲う相手を間違えた』って早く気付いてくれればいいんっすけどねえ……」




