第12話 真空が死んだ日
「マーちゃん、俺ん中じゃ日本にいた頃のあの日に真空切断は死んだんだ。もう風が吹いても真空なんざ出来ねえ。俺の心の中でもそうだ。気体の精霊さんはいるんだろうけどよ、酸欠に注意してりゃ大丈夫だと思うぜ」
教会暦805年3の月4日。マーちゃんと出会って11日目の朝のことだ。
うちの配管修理姉さんは水中作業班を編成して、シンデル・メイ元教授の住宅にある破損した水道管の修理を行っていた。
今の発言は暇してるうちのトカゲ姉さんが「風の精霊はいないのだろうか」と俺の頭の上に乗っかって、周りを見回しながら丸い目をキラキラさせて言ったことに対する俺のケジメだった。水面に映っていたから間違いない。
そもそも『カマイタチ』とは乾燥した皮膚に起きる症状の一つなのだ。乾燥した皮膚は風の様な弱い力で、浅い表面が直線状に断裂する性質を有しているのである。
そして風とは、次々に空気が流入する現象であるため、真空状態などというものは出来ないのだ。
日本に暮らし、それを知った日の俺は風系を封印しただけでは済まず、ゲーム機本体を中古屋に持ち込んで、今まで心の中に居てくれた友人の様な何かと別れた。
「ケンチ、人は夢が消えて傷つくとそうなってしまうのかもしれない。しかしな、例え真空が無理でも高速回転による遠心力で肉体を分解することは可能なのだ。それをやれる生物を見たことがある」
マーちゃんはそんな俺に向かって、子供がトイレに行けなくなりそうな実例を話して、慰さめてくれたようだった。その攻撃手段を失念していた俺は当然のように背中が泡立ったが、マーちゃんの思いやりの力を借りて平静を保った。
「済まねえな、マーちゃん。今のはどうかしてたみてえだ。ところで黒子さんは競泳水着着て、ダクトテープ持ってったようだがあれでどうにかなりそうかい?」
俺は何とか意識を現実に戻した。
今日の黒子さん達は、黒い競泳水着に黒い水泳帽子という格好で、シンデル先生の地下の住居に潜っていった。
当初は検討された『潮ダミノルさん』の使用が、大き過ぎて入り口から入れないという理由で却下されたからだ。
黒クモさんですらそんな感じだった為、消去法的に白羽の矢が立ったのが黒子さんだった。
従って他のロボットさん達は泉の後方に穴を掘り、先生の住居に新しい入り口を設置する作業に従事していた。
俺はといえば、泉の縁に立ってマーちゃんを頭の上に乗せ、先程からずっと雑談に興じていたわけなのである。
「黒子さん達が戻ったら、吸い取るさんにパイプ延長工事をお願いするとしよう。ところであのチクワーブは先生によく懐いているようだ」
うちの両生類飼いたい姉さんは、先程からシンデル先生の側で動かないでいるチクワーブをチラチラと見ているようだった。
胴体長2メートルで尻尾も同じくらいはあり、鱗の無い身体に三角の頭をしたソレは、本来であれば鋭く太い歯で襲いかかって来るプレデターなのだ。先生のところのプレデターは丸まっちいボディを地面に伏せて実に大人しくしていた。
「お、黒子さん達が帰って来たようだぜ。ところでよ、あのダクトテープみたいな物でよく何とかなるよな。溶接するとか充填剤みたいな物を使うのかと思ってたぜ」
黒子さん達は不思議なことに驚くほど軽装だった。
シンデル先生の家がそこまで広くないとしても、地下水の汲み上げ機構とパイプはそれなりに立派なのではないだろうか。
「あれは地球由来のダクトテープを元に開発した、補修テープ『パラサイトコブラ』なのだ。名前が英語なのはその所為だな。他に他世界のパッチと布帯、寄生生物などを合成している」
マーちゃんの繰り出してくる不思議道具のネーミングに、そういう理由があることを俺は初めて知った。ひのきの棒シリーズはその代表のようなものだろう。
詳しく聞けない様な物が混ざっているようだが、あれは一種のダクトテープであるとのことだった。
「ところでケンチ、未使用のテープに触れるなよ。近付いてもいかん。自立行動をとるし貼り付かれると融合が始まってしまう。アレを使えるのはロボット達だけなのだ」
マーちゃんの台詞を聞いて、股間が縮み上がった俺は出しかけた手を引っ込めた。
黒子さん達が戻った後も作業は順調に進んだ。
水の湧き出し口になっていた玄関は、黒クモさんが石の板とパラサイトコブラで完全に埋めてしまった。
吸い取るさんは、他のチームが設置した新しい入り口からパイプを下ろし、住居内の水を完全に抜くと共に残りの60万リットルを確保した。その後は新しいパイプを取り出すと、それを住宅内に差し込んで固定した。
室内のパイプ接続工事については黒子さんが担当し、やがてそのパイプから泉に向かって水が流れ始めた。
「上手くいっとぅんでぃす! これどぅぇ元の通り流れるようになっとぅんでぃす! うぇいぃぃ!」
泉の脇には、3体の水の精霊さんが集まって作業を見ていたらしい。全員が例の悠久放置玉の上に乗って、120センチメートル程の大きさになっていた。身体中から玉と同じ光を発しているが、全員が元気そうなので大丈夫だろう。
彼女達の近くにはブーラブ姉さんも一緒に浮いていた。
例の玉から発している力についてはよく分かっていない。殴打力とは別のものだろう、とはうちのトカゲ姉さんの弁である。
「今日は世話になったのぅ。中を見せてもろうたが、水没しとらん書物がかなり残とったわい。マーちゃんは大陸公用語版の書物はいるかのぅ?」
シンデル先生からはマーちゃんにとって嬉しい申し出があった。
それは最終的に、岩に擬装された新しい出入り口から運び出されることになった。
「そういえば先生、マーちゃんに聞きたいことはまとまったのかい?」
昨晩と今日の幽霊先生は、マーちゃんへの質問内容を纏めていたのではなかったろうか。
「そうじゃったな。それはこの後に時間をとってほしいのじゃ」
シンデル・メイ元教授からはそういう申し出があり、うちのトカゲ姉さんはこれを快諾した。
俺からは非常に尋ねにくいのだが、こちらにもこの先生に教えてもらいたいことがあるのだ。
※お読みいただきましてありがとうございます。




