ep7-034.短剣(2)
「風の精霊テゥーリ、我が名はイーリス。風の守護を私に与えなさい!」
イーリスが精霊開封の呪文を唱える。投げ放った琥珀に封じられた風の精霊を解放し、精霊魔法を発動させた。
……筈だった。
カラン、コロンとイーリスの精晶石が地面に落ちて転がる。精霊が解放されない。魔法が発動しない。
――ヴィン。
甲高い、耳に障る音が辺りに響いた。ツェスの足下の地面に突き刺さった投げナイフから、青白い魔法陣が展開されている。
それを見たウェズンの顔色が変わった。
――これは?
ツェスの脳裏に、三蓮程前フォートレート王国に帰る途中、ジョアンのキャラバン隊が盗賊団に襲われた光景が蘇る。
あのときもウェズンの部下が、炎の精霊魔法を発動しようとしてできなかった。盗賊団が放った矢から同じ様な魔法陣が広がっていた。
ツェスが思わず突き刺さったナイフを剣で弾き飛ばす。ツェスの後でイーリスがもう一度精霊開封の呪文を唱える。だがやはり精霊魔法は発動しない。
「無駄だ!」
ウェズンが叫んだ。彼もキャラバン隊が襲われた一件を思い出したのだろう。目の前の魔法陣があれと同じであるのなら、ナイフを斬り飛ばしたところで消えはしない。
目の前の謎の三人の男はジリジリと後退する。もう二十歩は離れていた。弓矢でもあれば別だが、これ以上離されると逃げられてしまう。
怪我を覚悟で突進するか。いや、上からの牽制の投げナイフもあるし、精霊魔法を発動させない力を持った相手だ。まだどんな奥の手を持っているか分からない。
――どうする?
ツェスは奪われたバルドルの剣をどうやって取り返せばいいか考えあぐねた。
「ツェス殿、この魔法陣はあの時のものと同じだ。まだ何か隠し持っているかもしれん。こんなところで怪我をすることはない。ひとまず退くのも手だぞ……」
ウェズンの声がツェスの耳に届く。行きずりの争いに足を踏み込んでも何の得にもならない。ウェズンの冷静な提案にはそんな響きがあった。
確かに、見知らぬ少年の剣の一つや二つにそこまでしてやる義理はない。だが、このままオメオメと取り逃がしてしまうようでは、この先、リーメの護衛など覚束ない。
今、奪われようとしているのは一介の剣に過ぎない。だが、今後それがリーメにならないという保証はないのだ。せめて相手が何者なのか、その手掛かりだけでも掴めないか。剣を握るツェスの手に力が籠もった。
「イーリス!」
「ここじゃ時間が掛かるわ」
ツェスが振り向くことなく叫んだ。たとえ精霊魔法が使えなくても、こちらにはイーリスが居る。たとえ精晶石が使えなくても……
イーリスは、精霊を使わない魔法である青い珠を使えないかというツェスの意図を瞬時に読み取り、そうと問われる前に返事をしていた。
青い珠の発動はし易い場所とそうでない場所がある。山河など自然に囲まれたところであればまだしも、街中でそれを使うのは簡単ではない。幼い頃は場所を選ばず、青い珠魔法を無意識のうちに使ってしまったこともあるイーリスだが、ラメルの訓練を受けた今ではもうそんな事はない。
「リーメちゃん! 貴方の精霊魔法は?」
イーリスがリーメに声を掛ける。リーメは精霊女王だ。彼女の周りには七属性すべての精霊が付き従い守護している。精晶石も使わずとも瞬時に精霊魔法を発動することが出来る。
イーリスはガラム王国に来る途中、カズン・モンスターに襲われた時にリーメが見せた精霊魔法ならばと期待した。
だが、リーメは首を振る。
「あの魔法陣に精霊達が怯えています。精霊魔法は使えません。こんな事は初めてです……」
リーメの金色の瞳に困惑の色が覆い被さっていた。彼女の言葉にイーリスの顔が強ばる。
イーリスが意を決した表情で両手を伸ばす。青い珠を発動させる呪文を唱えようと口を開いた。
――ボシュ!
突如ツェスの目の前で、空気が弾けるような音がした。それはツェスには見慣れた青い珠によるものではなかった。
◇◇◇
「ぐがぁっ」
突如、剣を奪った男から悲鳴が上がる。男は左手をダラリと下げている。脱臼でもしたのだろうか、左の肩を手で抑えている。体は大きく左に傾き、今にも膝をつきそうだ。
男は持っていた剣を落とした。ゴツンと、まるで鉛の固まりか何かのような重い音がした。
残りの二人も、ただならぬ事態に困惑している。一人がツェス達を牽制し、もう一人が、落ちた剣を拾おうと右手を伸ばした。
――ボンッ!
また空気が震えた。今度は剣を拾おうとした男が右の手首を抑えて転がった。その男も、手首に鉄球でもぶら下げられたかのように左手で右手首を支えている。
一体何が?
ツェス達も一体何が起こっているのか理解出来なかった。
――ボッ。
今度は頭上で空気が破裂した。ツェスが頭を上げると右の建物屋上で人影が動いているのが見えた。人影はフラフラと揺れるように動いている。足場が定まらないようだ。
次いでカランと音を立て、一階と二階の庇屋根でバウンドした投げナイフが地面に落ちた。
「退けッ!」
ダメージを負っていない最後の一人が小さく命じる。
謎の男達はツェス達の顔をじっと見つめた後、逃げるように姿を消した。
「ふぅ」
ぐるりと周囲と頭上を見渡し、危険が無くなったことを確認したツェスは一息ついてから剣を鞘に収めた。同じく剣を収めたパーシバルは、後方のウェズンとイーリス達の無事を確認すると、ツェスに片目を瞑って見せた。
「大丈夫ですよ。イーリスさん達に怪我はありません」
ツェスが振り向くと、しゃがみ込んで小さくなっているジョアンの隣でウェズンが手を上げて、無事であることを知らせる。リーメもバルドル少年も大丈夫のようだ。
「ジョアンさん、終わったわ。もう大丈夫よ」
イーリスの声ではっと我に返ったかのように、顔を上げたジョアンはきょろきょろと辺りを確認した後、ゆっくりと立ち上がる。鷹揚で人当たりのよい男だが、意外と気は小さい。
戦闘の最中にその場でしゃがみ込むなど自殺行為でしかない。護衛がいたからいいようなものの、誉められた行いではない。ツェスのそんな視線に気づいたのか、ウェズンが軽く首を振って、苦笑いした。
「おぉ、みなさんご無事ですか。よかったよかった。ウェズンもよくやってくれた」
ジョアンが皆を見渡してほっとした笑顔を見せる。憎めない男だな、相手の両肩に手を乗せて、一人一人の無事を確認して回るジョアンの姿に、ツェスはそう思った。
◇◇◇
「あぁ、そうだった」
ツェスはもう一度周囲を確認した。屋根の上にも怪しげな人影は見当たらない。ぐるりと見渡すと、道端に落ちているバルドルの剣が目に入った。
ウェズンが、地面に突き刺さった投げナイフの一つを拾って事の顛末をジョアンに報告している。リーメがナイフに結わえ付けられた石を指さし、精霊達が騒めいていたのは、この石が原因だと言った。ツェスはリーメにナイフに近寄らないように指示した後、少年の剣を拾いにいった。
危ういところだったが、なんとか奪われずに済んだ。それにしても、奴は何故急に落としたのだろう。残りの奴らの様子も変だった。魔法が使われた形跡もないし、一体何が……。
ツェスは頭を捻りながら、少年の剣に手を伸ばした。
――パシッ。
ツェスの指先に微かに電撃が走った。驚いて一旦手を止める。もう一度慎重に剣に触れる。今度は何も起きなかった。
ツェスは剣を手に取った。
――軽い。
見かけによらず、恐ろしく軽い短剣だ。持てなくて落としてしまうような重さなど微塵も感じない。
ツェスは短剣を簡単にチェックした。剣は直刀で特に変わったところはない。少々古びてはいるが柄は黄金の拵えで、銀の装飾が入っている。後で加工したのだろうか柄頭には親指の先程の透明な宝石のようなものが填め込まれている。
柄頭に宝石を埋め込んだ剣は珍しい。宝石をよく見ると中に細かい模様のようなものが見える。もしかしたら宝石ではないのかもしれない。少なくとも、そこらで売っているような代物ではないように思えた。
ツェスは剣を鞘から抜いて刃を検めた。やや黄金がかった両刃の剣。刀身の中程にまで延びる樋は紺色に彩色されている。ブレードは薄く切っ先は鋭い。斬るよりは突く方がずっと向いているだろう。良く手入れされてはいるが、実戦で使えるかどうかとなると少し怪しい。
おそらくは万一に備えた護身用の剣だ。堅くて分厚い皮膚を持ったモンスターは相手に出来まい。こんなに薄い刃では直ぐに折れてしまうだろう。
「ほら、バルドル。君の剣だ。もう絡まれるなよ」
「ありがとう。これは父さんの形見なんだ」
二人の間にジョアンが割って入る。
「ほほう。それはそれは大切なものなのですな。よろしければちょっと拝見させていただけませんか。私は商人のジョアンというものです。商売柄、ついつい気になってしまいましてな。いえ、無理は申しません」
少年から剣を受け取ったジョアンは剣を丹念に調べ始めた。柄の形状、飾りを見た後、鞘から抜いた刃を立て、柄から覗き込むようにして出来を確認する。その眼孔は鋭く、まるで目に見えないモノでさえも鑑定せんとしているかのようだ。先程までジョアンが身に纏っていた溢れんばかりの鷹揚な雰囲気はすっかり消え去っていた。やはり、商人として大を成すには、それなりのものを持っていなければならないのだろうとツェスは思った。
「これはこれは上物。いや、極上の一品ものですな。貴方のお父上はさぞかし名のある方だったのでしょうな」
ジョアンが、眉を上げ、目玉をぎょろりとさせて、感心したような表情をしてみせた。先程までの厳しさは消え失せ、元のくだけた雰囲気に戻っている。鞘に収めた剣をバルドルに返したジョアンは商人らしい一言を少年に囁いた。
「もし我が隊商にお売りいただけるなら、高く買い取らせていただきますぞ。この先の通りで店を出しております。いつでもおいでください」
「ありがとう。でも御免。売ることは出来ないよ。父さんの形見だからね。明日からは僕の剣になるんだ」
「そうか。大切にしろよ」
ツェスがバルドルを励ます。自分も彼くらい歳の頃は、養父の下で、剣の修行に明け暮れていた。十五歳といえば、もう大人扱いされる。自分の剣を持っていてもおかしくない。
「うん。それじゃあ」
バルドル少年がもう一度、礼を言って立ち去ろうとした時、ツェス達の頭上から声が掛かった。




