ep7-029.ガラム王国(1)
――ガラム王国。
大陸東に位置する王国。広大な領土と肥沃な平野が広がる豊かな地だ。中つ国フォートレートとの国境でもある西のカズン山脈から流れ出すトレオン河に沿って街道が設けられ、小さな集落や街が点在している。
中つ国フォートレートとの交易も盛んに行われ、その国力はフォートレートを凌ぐとも言われている。
ツェス達、使節団は中つ国の王都を出立して八十九日目に、ガラム王国の王都ガルーに入らんとしていた。
使節団の馬車がなだらかな丘を降りると、ツェス達の視界一杯に透き通ったブルーのベルベッドが飛び込んできた。幾重にも折り重なったエメラルドの襞は、ゆったりと砕けては盛り上がり、陽光をきらきらと反射していた。
「わぁ、海ですよぉ。みなさん」
リーメが嬉しそうな声を上げる。
「バルバールの海です。王都ガルーはもう目と鼻の先です」
フレイルがほっとした様子でリーメに語りかけた。旅の間、終始冷静に見えたフレイルであったが、それなりに重圧を感じていたのだろう。緊張が解けたフレイルは、いつもよりほんの少し饒舌だった。フレイルはツェスに笑顔を見せて尋ねる。
「ツェス、ガルーは初めてか?」
「ううん、これで二度目よ。二年前、ガルーのリーファ大神殿で精霊契約の儀を受けたの」
ツェスの代わりにイーリスが答える。ツェスはイーリスが喋り終えるのを待ってからフレイルに問うた。
「フレイル、国王陛下には、このまま会いにいくのか?」
「いや。早くても明後日以降だろう。しばらくはガルーに滞在することになる。正式な使節団ゆえ順序がある。まずは謁見その他の日取りを決めねばならぬ。大まかな到着予定日は伝えてあるが、細かい事はガルーに着いてからだ」
「じゃ、今日も馬竜車で夜を明かすの?」
「まさか。三王国の一つ、ガラムの王都だ。迎賓館とはいかずとも、官舎はあるし、それなりの宿はいくらでもある」
フレイルは御者に止めろと合図する。三台の馬竜車は街道脇の叢に止まった。
「しばらく休憩だ。服も正装に代えておこう」
フレイルの言葉にツェス達が馬竜車から降りる。イーリスは一杯に伸びをして、深呼吸する。
フレイルの部下達は荷台から大きな皮袋を取り出し、最後に残った水を木の桶に注いだ。馬竜達に飲ませる間に騎士の正装に着替える。
素肌の上に綿の入った下地をつけ、上着を羽織る。戦の時には下地の上にチェーンメイルを着込むのだが、平時では無論着用しない。上着は黒を基調とし、袖口に色とりどりのラインが入っている。ラインの色や形状、本数は各人の自由とされ、様々なバリエーションがあるのだが、今では、個人の家柄や出身地を識別する文様として扱われている。見る人が見れば、袖口をみるだけで、どの家の何番目の兄弟なのかまで分かるのだという。
騎士達は右足に白、左足に青の靴下を履くと、最後に上着の両端についている紐を結んだ。紐の色は騎士の階級を表している。団長のフレイルは金の紐、フレイルの部下は黒だ。
「オーライガ、コロネー、すまんが、先行して王の居城に赴き、我らの到着を伝えよ。今日の宿泊所についても聞いてみてくれ」
「はっ」
馬竜が一通り水を飲み終えた頃を見計らってフレイルが部下の騎士二人に指示を出す。
指名されたオーライガ、コロネーの両騎士は、フレイルからフォートレート国王ライバーンの紋章印が入った手形札を受け取り準備を始める。
二人の騎士は、馬竜が落ち着くまでしばらく待ってから、先頭の馬竜車を駆って、一足先に王都ガルーへと向かった。
「フレイル」
「うん?」
「あたし達が一日早くガルーに着くことは、一昨日から分かっていたわ。今になってから使者を送らなくても、一昨日のうちに精霊通信で知らせておけばそれで済んだんじゃないの? あたしにはガラムに知り合いの風使いはいないけど、フレイルなら闇使いの知り合いは沢山いるんでしょ?」
先行した馬竜車の姿が見えなくなるまで見送った後で、イーリスが不思議そうな顔で尋ねる。精霊通信とは精霊使い同士が精霊を介して、簡単な連絡をやり取りする仕組みだ。風なら風、闇なら闇と同じ属性の精霊使い同士でしか連絡できないが、ちょっとした連絡手段として用いられている。
「王国使節団の連絡に精霊通信は使えん。全てが正確に伝わるとも限らぬしな。何より礼に悖る。蓮月の夜に届けて良いものは密書くらいだ」
精霊通信は便利ではあるが、完璧ではない。一番の欠点は文書と違って情報が欠落することがあることと漏洩の問題があるということだ。精霊通信はそのときの自然環境の影響を少なからず受ける。予期せぬ天候の変化などによって持っていた情報が一部失われることがあるのだ。
また、精霊通信の途中で、同じ属性の精霊使いに出食わして、通信内容を読みとられてしまうこともある。
そういった事情から、緊急時は別として国家間の公式な連絡手段として精霊通信が使われることはなかった。
それ以外にも精霊通信には精霊の属性によって様々な制約がある。フレイルは闇の精霊使いであるが、闇属性の精霊通信は夜の間だけしか通信できない。その反面、秘匿性が高く、指定した相手以外の精霊使いが通信をキャッチしても、その内容を読み取る事は出来ないようになっていた。これは闇使い同士の精霊通信だけが持つ長所だ。
それゆえ、闇使いの精霊通信は主に暗号電文の代わりとして用いられ、外交や戦には欠かせぬ存在として、闇の精霊使いは重宝されている。
「面倒なのね」
イーリスが頭の後ろで両手を組み、呆れたように空を向く。大陸の夏は長い。炎天の端にこれから大きく成長しようとする雲が頭を擡げるように沸き立っていた。
「大人になったら分かるさ」
「ツェス、あたしを子供だと思ってるの?」
「もっと大人になったらさ」
ツェスが適当に誤魔化しながら、深緑色の水筒をイーリスに渡す。円筒形の木の幹で作った水筒だ。木の幹は中空構造になっており、手首から肘までの長さ毎に節がある。中空は節によってそれぞれ密閉されているので、節を跨いで両端を切り、片方の節に穴を開ければ、そのまま水筒になるという寸法だ。冒険者などの旅人の常備品といえる程広く使われている。
馬竜車から降りて幾時間も経っていないのに、ツェスの額には汗が浮かんでいた。少しむくれた表情で受け取ったイーリスは水筒を両手に持ち、最後に残った水を美味しそうに飲んだ。
「イーリス、おまえは風の精霊使いになったのだったな。折角の機会だ。ガルーの風使いと精霊通信の約諾を結んでおくといい。私が口添えしても良い。バステス王も大勢の精霊使いを召し抱えている。高位の精霊使いは無理かもしれぬが、縁をつけておけば何かと役に立つぞ」
「考えておくわ」
フレイルの奨めをイーリスはさらりと躱した。ガラム王宮に仕える精霊使いとお近づきになるメリットは計り知れない。だがイーリスの表情はそんなものは何処吹く風とばかり、あっさりとしたものだ。あるいはガラム王国と繋がることに煩わしさを感じているのかもしれない。
フレイルはこれ以上奨めても無駄だと悟ったのか、ふぅと一息吐き出すにとどめた。
「隊長! こちらの馬竜も休息できました。いつでも出発できます」
「よし、こちらも出発しよう。だが、余り早く着いても、オーライガ達も困るだろう。景色を見ながらゆっくり行こう」
フレイルの言葉に反対するものは誰もいない。一行が馬竜車に乗り込むと、フレイルが御者となり、最後の手綱を引いた。
◇◇◇
「……」
十五、六くらいの少女がガラムを見下ろす丘に立っていた。襟のついた白い長袖に白のズボン。大陸ではあまり見ない服装だ。
カゲフネ。
自らをそう呼んだ彼女の大きな黒の瞳には、ガラム王都に向かうツェス達の馬竜車の姿が小さく映っていた。
カゲフネは左手を返し、手首あたりをそっと右の人差し指でなぞった。彼女の目の前に黄色に輝く光の板が浮かび上がった。
光の板には異界の言葉らしき細かい図柄と幾何学模様が描かれている。人差し指を親指の付け根に向かって滑らせる。黄色の板にツェス達の馬竜車が現れ、荷車の幌を透過して中に座るツェス達の姿を映し出した。
「この物質波振動パタンは……あの時の物質波変調の使い手か。零番の微弱反応を追ってきたが、また遇うとはな。これも縁か……」
あの男と零番を関連づける証拠は何もない。それはカゲフネも承知していた。
零番の微弱反応で分かるのは、おおよその位置だけだ。本当に零番であるかどうかは、シリーズナンバーであるカゲフネと物理接触しない限り確定しない。
――我に零番を持つ資格があるだろうか。
紫紺の長い髪が風に揺れる。カゲフネは髪を手で押さえる代わりに、くるくると人差し指に巻き付ける。
――太古の昔、天子巫女から創られた六人のシリーズナンバー。それが我ら。
カゲフネは腰の刀に手をやった。シリーズナンバーにはそれぞれ「物質波次元振動剣」と呼ばれる特殊な刀が与えられていた。カゲフネ達を創った当時の天子技師達の一人であり、伝説として伝えられる鍛治長オサフネの手によるものだ。
破滅に瀕した彼女の世界を救う鍵は、当時の天子技師達の技術にある。
その失われた古代技術の秘密が、物質波次元振動剣の試作品たる零番、通称「オサフネ・ミツタダ」に収められているのだ。
――我らの世界を脅かす存在は、この世界そのものだ。
カゲフネは天を仰いだ。多元宇宙を創造した存在はまだ明らかになっていない。もしそれとコンタクトすることが出来るのなら、聞きたいことは山ほどある。
――なぜ、この世界が存在するのか。
――なぜ、我らの世界と交錯するのか。
いや、今は零番である「オサフネ・ミツタダ」の回収が最優先だ。カゲフネは返したままの左手首を、トントンと指先で軽く叩く。光の板が消え、カゲフネは白い光に包まれた。
しばらくして、光が消えると、カゲフネの服装が変化していた。袖無しの青い膝丈チュニック。腰が深紫の帯で絞られているからなのか、膝丈だからなのか、帯から下はスカートのようにも見える。この世界の女性としては標準的な姿だ。
カゲフネは自身の装備を確認する。腰のホルスターに収めた銃は不可視モードにしているが、付けていることは感覚で分かる。非常時以外に使うことはないだろう。
「残された時間は……」
カゲフネはそう言い残して、王都ガルーに歩みを進めた。




