ep4-015.ラメル(1)
――ラウニール湖。
王都北に位置する広大な湖。盆地を囲むフライ山脈から清流が流れ込む、王都の広大な水源だ。ラウニール湖の北側半分はいくつかの丘に囲まれている。丘は林で覆われその奥は山脈へと続いていく。
それら丘は、神々や精霊が住まう神域とされ、王都の民は決められた場所以外に足を踏み入れてはならないことになっていた。
人の立ち入りが許された丘は二つあり、その一つは『静謐の丘』と呼ばれていた。『静謐の丘』には、王都にあるリーファ大神殿とは別にリーファの奥殿がある。この奥殿だけは、王といえども戴冠式前に行われる加護の儀など特別な儀典以外立ち入ることは出来ない。十五年前、現国王が実弟達と共にリーファ神からの加護の儀を受けたと伝えられている。
そして、もう一つの立ち入りを許された丘は、湖を挟んで『静謐の丘』の反対側にあった。この丘は『瞑想の丘』と呼ばれていた。『瞑想の丘』は『静謐の丘』と比べて斜面がなだらかで、林も点在する程度に過ぎず、その殆どが丈の短い草や芝で覆われている。また、丘の頂上へと続く小路も整備されており、ラウニール湖を見下ろす絶好のスポットとなっている。王都の人々が息抜きに訪れることも多い。
その丘の頂上付近の開けた場所に一軒の建物があった。平屋建ての大きな家だ。白い石壁が円を描いて積み上げられた頑丈な造り。とんがり帽子のような急な角度の三角錐の赤い屋根がその上に乗っている。屋根の中程に煙突が控えめに乗っていた。冬には大活躍する筈のそれも今は夏休みだ。
その家は三方を林で囲まれている上に頂上への小路からも外れ、一見してそこに家があると分からないようになっていた。
ここに居を構えることは王によって禁じられていたのだが、この白亜の建物だけは唯一の例外とされている。
その家の一室に一人の男がいた。古ぼけた大机を前に、何か書き物をしている。家の白壁に負けないくらいに白いシュルコに身を包んだ六十近い壮年の男だ。体つきはがっしりとしており、その手は物書きとは思えないほどにゴツゴツとしている。腕の筋肉もよく発達しており、羽ペンを握っているより、剣を振っている方がよほど似合いそうだ。
彼の彫りの深い顔には、それを証明するかのように細かい刀傷のようなものがいくつも刻まれている。数多の戦と困難を潜り抜けてきた証だ。
赤み掛かった金髪は短く刈り揃えられており、深いブルーの双眸には知性と理性の輝きが宿っている。
男の名はラメル。大陸にその名を轟かせる大魔導士だ。
ラメルは、その昔、初めて大陸を統一したロイラック・フォン・レーベ王に仕え、幾度の苦難を共にした大魔導士だ。彼が操る風の精霊魔法の力は王国騎士団百人に匹敵するとも、千人に匹敵するとも言われている。
十五年前、レーベ王の崩御と共にラメルは引退する積もりでいた。しかし、レーベ王の長男にして、この中つ国である、フォートレートの国王ライバーンのたっての頼みもあり、数日毎という条件で、国王顧問を努めている。ラメルはアポイントなしで国王に会う事の出来る数少ない人物の一人だ。
ラメルの名は王国のみならず、大陸全土に広く知られ、教えを乞いにラメルの元を訪れる者も絶えなかった。彼らの多くはラメルの弟子になりたいと願う者達だったのだが、八年程前からラメルは弟子を取るのを止めている。
この日もラメルは、ライバーン王からの使者の応対を終え、自室の椅子に腰掛けていた。明後日まで一般の来客は一切断っていた。三年振りに最後の弟子達が戻ってくるからだ。
――ひゅっ。
風が流れた。
「帰って来たか……」
玄関の扉を開けたラメルが顔を綻ばせる。
「養父、戻ったぜ」
ツェスとイーリスがその懐かしい姿を見せていた。
◇◇◇
「師匠! ただいまぁ」
開口一番、イーリスがラメルの胸に飛び込む。
「大きくなったな、イーリス。よくぞ戻ってきた。怪我はないか」
「平気」
イーリスが風精霊と契約できたことは、『風通信』でラメルに連絡済みだ。その後は、十日に一度の割合でイーリスはラメルに連絡を入れていた。もっとも、風の精霊を介した連絡は、大量の情報伝達が出来ない上に、一部が欠損することもあるため、それほど詳しい事柄を綴れる訳ではない。ラメルは、『風通信』では伝えきれなかったものがないか確かめるかようにイーリスを抱き止めた。
ラメルはしばし、イーリスをハグした後、ツェスに顔を向けた。
「ツェス。お前も御苦労だった。中に入れ」
ラメルが二人を奥の大広間に案内する。
大広間の所々には窓があり、全て開け放たれていた。粗末な板の庇が直射日光を防いでいる。周りの林と唯一視界の開けた先から見下ろすラウニール湖からの冷たい風が、部屋の奥まで吹き抜け、室内は適温に保たれている。しかし、この淀みない安定した風は、風の精霊の力が働いているのかもしれない。
大広間中央に木の大テーブルが置かれ、椅子が五つ置かれていた。
五年程前までは、ツェスとイーリスは、ラメルと共にアケリオン、シヴィと一緒に暮らしていたのだ。何もかも昔のままだ。
ツェスの脳裏に五人で暮らしていたときの光景が浮かび上がっていた。
「養父、変わってないな」
「私の事か、それとも家のことか?」
「どっちもだ」
片方の眉を上げて、お道化てみせたラメルに、ツェスがにやりと返す。ツェスもラメルも嬉しいのだ。家族との再会に。
ツェスは、ラメルの事を『養父』と呼んでいる。八年前、ラメルは自分を拾ってくれたばかりか、ここまで育ててくれた命の恩人だ。大陸に名を轟かす大導師であるラメルも、ツェスにとっては師匠ではなく、義理の父だ。少なくともツェスはそう思っている。
ラメルもツェスがそう呼ぶことを許していた。
ツェスは大広間の壁際に背負っていた荷物を下ろし、皮鎧を外した。背中の留め具はイーリスが外すのを手伝ってくれた。
「思ったより、戻って来るのが早かったな」
「三年も経てば、旅にも慣れるさ」
ツェスは自分がいつも座っていた椅子に腰掛けると、イーリスが渡してくれた手拭いで汗を拭いた。部屋の中を通り過ぎる風は止む気配を見せない。直に汗も引くだろう。
「師匠。ちょっと着替えてくるね」
ツェスの皮鎧を広間の風通しの良いところに吊したイーリスは、大広間の奥にある自分の部屋に消えた。
◇◇◇
イーリスは三年振りに帰ってきた懐かしい自分の部屋の扉を開けた。ここを出たときと何も変わっていない。壁際に設けられた造り付けのベッドに机。大きな木箱の中に敷き詰められた藁香草が、真新しいシーツ越しに甘い香りを漂わせている。中央には木の丸テーブル。その上に置かれた陶器の小瓶には紫のラベンダーが一挿し生けられている。
――出発したときと全然変わってないわ。
何もかも、あのときのまま。精霊契約の旅に出た日が昨日のことのように思い出された。
イーリスもかつてはラメルのことを『お養父さん』と呼んでいた。彼女もツェスと同じく、ラメルに救いだされた娘なのだ。
イーリスは胸元から、宝石の入ったペンダントを取り出した。イーリスの髪と同じグリーンに輝くエメラルドだ。宝石の周りは銀で縁取られ、細かい飾り彫りがされている。
――お父さん、お母さん。あたし、精霊使いになったよ。
おぼろげな記憶しかない両親に語りかける。イーリスの瞳から涙が溢れ出した。