指輪を返した日、黒返り便が落ちてきた
「これは、お返しします」
リネット・オーランが婚約指輪を机に置くと、銀の輪は、王立郵便院の白い灯りを冷たく弾いた。
向かいに座るユアンは、差し出された指輪より先に、彼女の右手を見た。迷い便係の職務印を握る手を。
「話が違う。結婚後は家に入り、職務印は僕に預ける。それで納得していただろう」
「納得していません。何度もそう伝えました」
「君の力は経路局で管理したほうが役に立つ。妻が迷い便の埃にまみれて働く必要はない」
必要がない。
その言葉は、別れを決めた昨夜よりも、ずっと静かに胸へ刺さった。
迷い便係は、届け先を失った魔法便を扱う。封を開けることは許されない。ただ封印に問いかけ、一通につき一度だけ、差出人が自由な意思で望んだ宛先の断片を聞く。それがリネットの仕事であり、誰かの妻になるまでの腰掛けではなかった。
「この印は王立郵便院から私に託されたものです。婚家の財産ではありません」
「リネット。感情的になるな」
「ええ。ですから、決めたことを届けに来ました」
彼女は指輪を一度、ユアンの側へ押した。
「婚約を解消してください」
かちり、と銀の輪が机の継ぎ目を越えた。
同時に、壁の奥で何かが切れた。
甲高い鐘が鳴り、二人は顔を上げた。迷い便室の隅、三年前に廃止された真鍮の配達管が、獣の喉のように震えている。
「下がれ!」
ユアンが立ち上がる。次の瞬間、管の蓋が弾け、黒い塊が床へ落ちた。
煤ではない。革鞄ほどもある外装便だった。幾重もの封蝋も、宛名札も、麻紐さえも濡れた夜のように黒い。けれど床には汚れ一つつかなかった。
リネットの背筋を、冷たいものが走る。
「黒返り便……」
宛先を単に間違えた便は灰色に褪せる。だが、差出人の意思を無視して宛先を書き換えられた便は、魔法そのものが拒み、黒く返る。
教本でしか見たことのない異常便だった。
「触るな」
ユアンの声が妙に鋭い。
「経路局で回収する。これは君の手に負える案件じゃない」
「迷い便室に返着した便です。まず監査官を呼び、返着時刻と状態を記録します」
「僕が処理すると言っている」
「記録を残してからです」
リネットは非常鈴の青い紐を引いた。廊下の向こうで短鐘が三度鳴る。ユアンの眉が動いたが、そのときにはもう、夜色の制服を着た大柄な男が開いた扉に立っていた。
夜便隊長、カイ・レドナー。夜間配達を終えたばかりらしく、肩には雨粒が光っている。
彼は何も言わず、黒い外装便とリネットたちを見比べた。それから胸ポケットの手帳に太い字を走らせ、紙を一枚ちぎる。
『監査官を呼んだ。室内の品には触れていない』
差し出された紙には時刻まで添えてあった。命令でも質問でもない、彼女が判断するための事実だけだった。
「ありがとうございます」
ほどなく郵務監査官エダ・クロフトが駆け込み、室内を封鎖した。控え印、管の管理番号、返着鐘の記録。彼女が一つずつ確認する間、ユアンは押し黙っていた。
やがて外装の黒い紐が、監査用の銀鋏で切られた。
中から現れたのは四通の手紙だった。
どれも宛名が黒く塗り潰され、中央に王国守護院の金印がある。エダの顔から血の気が引いた。
「守護更新便よ。次の公開更新式まで、あと三十日しかない」
「そんなものが、なぜ廃止管から……」
問うリネットの横で、ユアンの指が指輪を覆った。ほんの一瞬だったが、銀の輪の内側に黒い光が走ったように見えた。
彼はすぐに指輪をポケットへしまう。
「経路局へ報告してくる。君は余計なことをするな」
返事を待たず、ユアンは部屋を出ていった。
残された四通は、声を奪われたように静かだった。
「オーラン係官」
エダが一通を記録布の上へ置く。
「聞ける?」
一度だけ。聞き違えれば、それまでだ。
リネットは深く息を吸い、封印に指先を重ねた。冷たさの奥に、遠くで扉を叩くような震えがある。
「あなたが本当に望んだ宛先を、教えて」
暗闇の底から、かすかな声がした。
――鐘のない町。石楡の根元で、帰りを待つ人へ。
それだけ告げると、封印は沈黙した。
リネットは聞こえた言葉を一字ずつ記録する。だが、壁の王国地図を探しても、「鐘のない町」などどこにもない。
隣から新しい紙が差し出された。
『宛先を決めるのはあなた。夜便隊は、その道を走る』
カイの筆跡は、迷いなくまっすぐだった。
指輪のなくなった左手は軽い。胸の奥にはまだ痛みがある。それでも、職務印を握る右手には、自分で選んだ重さが残っていた。
リネットは黒い手紙を見つめ、うなずいた。
「届けます。四通とも、本当に待っている人のところへ」




