取り繕われた言葉
いつからだろう。
考えてみるとそれはずっと昔にもなる気がするし、2年ほどの、ごく最近であるような気もする。
そうなった経緯は、もちろん遡ることはできる。実際きちんと見返したり、書き出したりしてみたからだ。何がきっかけだったか、記憶も未だ鮮明だ。
でも何かがぼんやりしている。何かこう、言い得ない形のまま浮遊している。
「まあいつものことだったんだけどさ」
「いつも、なんだ」
「そうだよ。もうここ数年そう」
午前8時半の店内はすでに満席に近く賑わっている。
一杯のコーヒー、縦3枚に切られたトースト、そしてポテトサラダ。
「ギリギリなんだね」
「そう思うでしょ?こっちだって準備があるのに」
頷いた口元に運ばれたのはピザトーストだったが、
やっぱり彼女の観点は私と同じだ。
きちんと向き合う、という姿勢も。
「それでさ」
本題に入ろう、と意気込む。
「一番悲しかったのはさ、連絡がなかったことなんだけど」
あの日の手の震えが蘇りそうだった。
大袈裟なんかじゃない。
あの日は確かに震えていた。
悲しさと、怒りと動揺で。
「親のせいにしたんだよね、あの人」
新年を迎えて最初の週末。
数日働いたのち連休に突入した私は、先月交わした約束通り芙由子を連れて、
東岡山にある喫茶店を訪れていた。
幹線道路沿いのここは、ずっと昔からある。
たぶん、生まれる前から。
先月、この店のモーニングをぜひ食べて欲しいと彼女を誘ったら、
じゃあ神社に行く前に寄ろうということになった。
初詣は毎年決まって、芙由子と行く。
今年は、牛窓神社の予定だ。
「確かに美味しいね」
「でしょ?」
バターが染みた表面と、ざくざくとした食感の耳をしたトースト。
ポテトサラダは木製の器に丸い形をして入っていて、
上にはドレッシングがかかっている。
それらを流し込む苦みのある深い、コーヒー。
「上司と来たんだっけ?」
「そう。ずっと気になってて、たまたま来たの」
その幹線道路を市内に向けて20分ほどのぼったところに実家がある私は、
幼いころから買い物や塾で通るたび、この店を認識していた。
記憶に残る存在だったのは、入り口にはいつも『定休日』の看板があったから。
眠っているように傾く年季の入ったそれは今にも風に飛びそうになりながら、
それでもいつもちゃんとあるのだった。
いくら店前に車が停まっていようが、店内に人がいようが。
職場の上司だった人と最初に訪れた時には、
掲げられているのかどうか分からずに入ってしまった。
営業は終了していたけれど、申し訳なくて慌てて出ようとした私たちを引き留めて、
店主はコーヒーを淹れてくれた。
「開いとんか閉まっとんかわからんがな」と言う上司に、
来られたなら開けますよ、と笑いながら。
「で、親のせいって言うのは?」
モーニングがおさまったこれまた木製のプレートにカップを戻しながら、芙由子が聞く。
私は同じくコーヒーを一口飲んでから、続けた。
「お母さんが私に伝えているから、私への連絡いらないと思ったらしい」
「あーなるほど」
「それがデフォルトなんよ、あやちゃんにとっては」
もう何年になるだろう。
帰省するらしいよと聞いて、
いつ帰るん?とこっちから聞くようになったのは。
芙由子に相談したのは、
先月実家に帰省した時に顔を合わせたきり今は音信不通になっている、姉のことだった。
「いつも私から聞いてはじめて教えてくれて、それからやっと予定立てられる感じ。毎回聞かんといけんの、面倒くさくて」
「確かにね。帰ってくるなら教えてほしいね」
―予定がなかなか決まらないから、伝えられなかったの。
あやちゃんの返事を、頭の中で反芻する。
姉家族が住む都会から田舎のこの町まで、新幹線で3時間はかかる。
1泊2日の旅でも、日にちを設定するのは容易いことではないだろう。
ましてや夫の仕事や一人娘の学校の予定も加味すると、余計スケジュールが立てにくいのは分かる。
無理をして随分前から予定を決めておいて欲しい訳でもないし、
家族の予定よりこちらの都合を優先してほしいなどとはもちろん露ほども思っていない。
「だから前もって言ってよって、怒ったんよ」
実家は、私が行くまで和やかな空気だったと思う。
久しぶりの姉妹の再会は限りなく懐かしく、幸福に充ちるはずだった。
私だって会えるのは嬉しかった。
なのに。
どうして連絡をくれなかったんだと問うた私に、あやちゃんは「きいてるんじゃなかったの?」と驚いた顔をした。
―こうなるから嫌なのよ。先に言われるのは。
ふつふつと、蘇る。
迷ったけれど、会いに行くことを選択した私は、
車を飛ばして、実家に向かった。
姉夫婦が好きなお菓子を助手席に乗せて、悔しい思いで。
こんなのじゃなくて、本当はもっともっと準備したかった。
折角会えるならどこかにも行きたかった。
食事でも、お茶でも良かった。
その日は良いお天気で、悲しいほど空は澄み切っていた。
まただ。
前日に母からあやちゃんの帰省を聞いたとき、私は真っ先にそう思った。
どうしてなんだろう、と。
ドアの飾りが鳴り、初老の男性が入ってくる。
入り口に積まれた新聞から一束を手に取り、
奥から二番目の小さなテーブルにつく。
「にしても人気だね、ここ」
芙由子が珍しそうに辺りを見渡して言った。
駅前でも街中でもないこんな道の途中で、
何組もの客がモーニングを楽しんでいる。
来ようかな、という何かが確かにここにはある。
土曜日の朝8時半を、ここのコーヒーで始めたいと思う何かが。
帰省ごときで、そんなにとやかく言うもんじゃない。
母にも言われたし、自分でもそう思った。
えー、言ってくれたらよかったのに。
それくらいで許せたのならどんなに楽だったろう。
「なんかさ、すごい単純なことだと思うのに分かってもらえないんだよね」
我儘に意見を言っているようで嫌になる。
カウンターに出てきていた店主が、キッチンのさらに奥へと戻っていった。
次々入る注文に答えるのに暫く忙しそうだったが、
さっきの初老の男性にコーヒーを提供してやっと落ち着いたらしい。
言ってしまったら最後、というのを何度も経験してきた。
あまりに無頓着に、当たり前に自分が利用されていると感じた時、
私はいつも我慢の限界を迎えてしまう。
相手のことをどこまでも思い行動できる、そんな広い心と奉仕の精神でいたいと思っている。
なのに、現実の私は弱い。
そんな仏のようにはいられるはずもなく、
気が付いた時には気を遣い果てぼろぼろの自分しか、残らない。
「伝わらないこともあるよね、価値観違ったら」
芙由子は淡々と、言い切る。
彼女はいつも誰に対しても、公平な人だ。
おかしいと論じることはあっても、変えようとはしない。
人が人であるように、自分も自分だから。
いつか芙由子がそう言って、私はそんな風に割り切れないと思った。
でも言葉は胸に刺さった。
自分だってどんな振る舞いをしているかわからないし、相手に許容してもらっているかもしれないから。
何も、言い返せなかった。
「でも」
それでも私は今回のあやちゃんについては、とても価値観で片付けられなかった。
「親が悪いって言ったんだよ。先に言うから混乱するんだって」
―もう帰省の事は前もって言わないでおこう。
義理の兄までもがそう口にしたとき、私の怒りは頂点に達した。
実家にいる祖母に会いに帰ってくることが目的の彼らにとって、
連絡は最低限祖母だけで十分だと判断したのだろう。
何週間前に話したのかは知らないが、口ぶりから前もって予定は頭にあったように見えた。
それでも実際に祖母に連絡があったのは、帰省のほんの一週間前だった。
私や祖母が慌てないように教えてくれた母の思いやりを、悪く言ってほしくはなかった。
―予定を決めるのが難しいからどうしてもギリギリになるの。
―それでも急に決めたんじゃなかろ?
―チケットが取れるまで、言いたくないから。
返ってくる、かしこまった口調。
都内の大学に進学したあやちゃんの話し方は、
年を追うごとに変わっていった。
方言が抜け標準語になっただけでなく、手紙やメールの文面ですら今や仰々しい。
それは余計私を悲しませた。
接すれば接するほど、あやちゃんとは離れていくような気がした。
家族だから物理的な距離があっても変わらないと思っていたのに、
現実には逆に距離が、生まれているのだった。
「おばあちゃん、おいくつだっけ?」
「今月91だよ」
「そうなん、お元気だね」
「今のところ元気だけどさ。でも段々違ってきよるわ」
トーストの最後の一切れを口にして、芙由子は美味しかったーと背もたれた。
いつの間にか丸いポテトサラダは跡形もなく消え去っている。
「耳も遠くなりよるし、歩くのも億劫みたいじゃし」
言いながら、祖母の事を考える。
身の回りのことがまだ一人で出来るとはいえど、
この一年ですっかり年老いてしまった。
前回の帰省時、帰路につくあやちゃんたちを見送る祖母は、いつになく疲れているように見えた。
例年通りの連絡タイミングと、あやちゃん夫婦のハードスケジュールな計画の都合で、この時間に帰りますと時間まで指定された帰省。
祖母に負担がかかることを心配して、私も実家に帰っていた。
準備は私が担当して、飲み物やお菓子、姪っ子が気に入るおもちゃを買いに奔走した。
求められたわけではなかったが、何もしないわけにもいかず。
これだけしてあげられたという私の満足もそこにあるとは言えど、
それを1週間そこらで仕事の合間にこなすのは、さすがに息が切れた。
若いはずの私ですらあやちゃんたちの帰省は忙しかった。
ましてや育ち盛りのやんちゃな4歳がオプションでついてくるとなれば、
祖母が目を回すのも、無理はないだろう。
―いつも台風みたいだねえ。
バス停へ見送り、家に戻って一息ついたところでそう祖母が零した。
やれやれ、と座るその姿を見ていると自分が果たして役に立っていたのか不安になった。
好きな人たちの好きなものを用意して、一緒に過ごす。
なぜこんなに疲れているのだろう、と疑問が沸いた。
嬉しい時間なはずなのに、これじゃまるで仕事のようだと。
そんなバタつきを想像して、母は私に連絡してくれていた。
私にはそれが有難かった。
そのワンステップがあったから、何とかその一日のための準備期間があり、
やり過ごせていた。
昔と変わらないくらいずっと元気な祖母。
だからこそ変化が見えなくて、
あやちゃんたちも今まで通りでいいと思っているのかもしれない。
そしてその一連の帰省の合間に、
私たちはちゃんと言葉を交わしていた。
余裕をもった連絡の必要性、を。
それも、火種だった。
数年前、駅前のショッピングモールで食事をしたときに、その話をした。
あやちゃんにとっては、決まってもいない予定を先回りして言われることが困るようで、
折り入って私に相談してきたのだった。
好機だった。私はその場であやちゃんに、私に直接連絡してほしいと頼んだ。
私も予定は知りたいし、祖母のフォローもあるから、と。
「結局」
冷めてしまったコーヒーを少しずつ口にしながら、私はあの日の結論を語った。
未定事項を先に伝えられない。
3人のスケジュールの都合上、ギリギリの連絡になる。
あやちゃんの答えは、工夫は難しい、だった。
「結局平行線で。おばあちゃんの為にも変化していかんといけんし、私も前の仕事より時間の余裕ないけん、ちょっとは理解してほしいんだけど」
価値観。芙由子の言うそれを、私はできるだけ尊重したいと思っている。
あやちゃんの思うこと、やり方。
私は否定せずに受け入れたいと思っているし、今までもずっとそうしてきた。
まただ。
そう思ったのは、無論これが初めてではないから。
あやちゃんの価値観が“デフォルト”で、
それが私たちの基準であるということ。
あやちゃんを起点に成り立ってきた過去が、夥しいほどあったから。
「それに、私が悲しかったのもわかってほしかった」
喫茶店のどこか懐かしい空気が、私にかつての時代を思い出させる。
南向きの日当たりのいいマンションに住んでいた。
小学生時代の私の思い出は、休日に姉と二人で留守番をしていたあの時間が殆どだった。
今日はこれをしよう。
これを作って、買い物はここに行こう。
予定を決める権利はすべて、あやちゃんにあった。
私があまり自分で考えることをしない安楽な子供だったせいもある。
とにかく後ろについて、遊び、勉強をした。
あやちゃんも、どこか張り切っていた。
仕事でいない母の代わりに、お姉さんらしく私を教育していたのかもしれない。
―糸ちゃんは、排水溝のお掃除ね。
料理をするために台所に立っている記憶。
あやちゃんは私に決して包丁を握らせなかった。
私の仕事はいつも、切り終えた野菜くずをシンクから排水溝に入れることだった。
私はあやちゃんみたいに何もできないから。
そう思って黙々と、黒いゴムのふたの奥に野菜の皮を突っ込んだ。
炒める役に昇進するまでに、どれほどかかっただろう。
ちっぽけな事でも、私はそれさえ誇りに思っていた。
気づかないうちが幸せだったのかもしれない。
そのあと進路もすべてあやちゃんの後を行くことになっても、
まだ私は何もわかっていなかった。
「でもすごい仲良しだったよね、糸ちゃんとお姉さん」
芙由子の言葉に、頷く。
ほんとうに仲良しだった。
唯一の姉であるあやちゃんのことを、
私は本当に大好きだった。
幼少期から大学進学であやちゃんが家を出るまで、
姉妹は殆どといっていいほど喧嘩をしたことがなかった。
「岡山出てくらいかな、知らないことが増えたの」
「東京と岡山だからね。遠いもん」
「そりゃそうだよね」
実家で暮らしている芙由子にとって、
家族とずっと離れたままというのは未知の感覚だろう。
旅行とは、違う。
物理的な距離ではなくて。
説明しようとすると難しい。
それまで同じ世界線で生きていたはずのあやちゃんが、
私の知らない、遠い世界を生きている。
当たり前のことなのに、それは私にとってはとてつもない恐怖だった。
自分の知り得ないあやちゃん。
年を経るごとにそれが勝手にぶくぶく膨らんでいって、
取り留めのないその図体で私を圧迫してくるようで。
進学、就職、結婚、出産。
流れるように訪れるあやちゃんの人生の岐路において、
もはや私の居場所はどこにもなかった。
あやちゃんの妹であるはずの私の存在は、
会うたび薄っぺらく、感じた。
再び漂う、コーヒーの香り。
いつの間にか店主がカウンターへ戻ってきていて、
常連らしき人と言葉を交わしている。
音楽のない、店内。
喫茶店にしては珍しいと思う。
大抵ジャズや年代を遡った洋楽、
年配の店主が経営する店だと有線でラジオがかかっていたりする。
曲名が気になって時折話が中断してしまうこちらにとっては、目の前の相手と話に没頭することができるので好都合だった。
「対等って、芙由子は感じる?」
私はその単語を、意を決して発する。
「対等、って、対等な関係ってこと?」
「そう」
あやちゃんがあやちゃんの人生を生きる間、
もちろん私は私の人生を進んでいた。
不器用ながらもじわじわと人脈や技術・経験を獲得し、それが次第に私だけが知る世界になった。
やりたいことに挑戦し、挫折もした。
苦しくなり失敗の道を辿ってもその結果に納得していたのは、自分の選択だったからだ。
自分が選んだんだから、その道のりは自分のものだ。
その感覚を心に強く持つようになったのは、
あやちゃんと同じ高校に入学してからだった。
あやちゃんが行ったからという理由で他に選択肢も据えず、親も私も高校を決めた。
まるでそこに行く以外は人生が終わるかのように考えて、
必死で勉強し、無事に合格を勝ち取った。
でも、高校生活は私にとって「空洞」そのものだった。
大学進学を見据えた周囲と違い私にとってはそこがゴールで、
その先の目標など何一つ考えていなかったのだ。
混乱した。そこが、私の人生の本当のスタートだった。
もう、16歳だった。
「対等でありたいんよ。年とか、キャリアとかいろいろあるけどそれはそれとして、人間として対等でありたい」
「人間として、ね」
「だって誰一人同じ経験の人はいないから」
敬意を表する。
それは私にも、芙由子にも同じようにある考え方だ。
時にいる。
年下=未熟だとフィルターをかける人たちが。
私が私の人生をようやくスタートさせ、
自分が好きなものや興味を真っ向から楽しむようになってから、
あやちゃんとの距離はますます、広がった。
それはあやちゃんが好きなものと私が好きなものが違ったせいもある。
でもそれより大きな障壁になっていたのは彼女の意識、だった。
言うとおりに催される旅行、
行きたいところに連れて行かれる買い物、
極めつけは結婚式だった。
私はあやちゃんから、新郎新婦のデートの写真をまとめたムービーを作って欲しいと言われた。
当時家族旅行のムービーを作ることに私がハマっていたからだった。
1000枚以上におよぶその写真を使って、私はムービーを作った。
でも式当日、私は参列者の一人でしかなかった。
姉との2ショットすら、叶わなかった。
のちに従妹の結婚式に参列した時、従姉がエスコート役をしているのを見て私は泣きそうだった。
衣装チェンジのために席を立ったあやちゃんを探して、カメラを手にその部屋を探した自分を思い出した。
あやちゃんの中に私はいない。
そう痛感した。
「あやちゃんにも価値観があるように、私にも価値観はあって。だからお互いが折り合いがつくところで解決したかったんよ。でも」
―それ以上はやくは連絡できない。
相手が困ろうが、譲らない。
たぶん相手に合わせること、自分が謝ったり折れたりすることは、
あやちゃんにとっては解せないことだったのだ。
ましてや常に自分の後ろにいて、自分の意見を受け入れ従ってきた妹だ。
意見して反対してくるなど、あやちゃんには想像にもにないことだったんだろう。
「でも彼女はそれをしようとせんかった。私の言葉すら、今無視してる」
あの日の夜、私は癇癪を起してしまったことに対して謝罪をした。
割に合わないことがあったとしても、相手に対して声を荒げてしまったことは良くなかったと反省していた。
何より姪っ子に嫌な思いをさせたかもしれないと感じ、
あやちゃんと義理の兄に、メールをしたのだ。
返事は、どちらからも返って来なかった。
理解し折り合うこと、
謝ること。
それらには少なくとも自分の犠牲も伴う。
我慢だってすることはあるかもしれない。
でもそれが、相手への敬意だと思う。
犠牲や我慢そのものが美徳なのではなくて、
どれくらい相手のために自分を譲れるか、それが誠意であり、敬意だと。
「つまり、対等じゃないと」
「そう。私はあやちゃんを否定したことはないし、我慢だってしてきた」
「確かに姉妹といえど人間だからね。それぞれに権利はある」
カウンター下から猫が出て来て、芙由子が嬉しそうに手を伸ばした。
この喫茶店を出入りしているらしい猫で、
日差しの入る窓際をいつも居場所としている。
颯爽とその位置へ向かう、柔らかそうな毛並みの後ろ姿。
自宅で猫を飼っている芙由子は、随所で猫に出会うと一気に夢中になる。
でも急に触ったりせずに、必ず彼らに指先を近づけ自分のにおいを嗅がせる。
その敬意ある所作が、私は大好きだ。
返信のない、スマホを見つめる。
一体この状態はいつまで続くのだろう。
やっぱり私から歩み寄らない限り変わらないのだろうか。
私が間違っていた、許してくれと。
でも、と乾いたカップに視線を移す。
じゃあこの時間は一体何なんだろう。
あやちゃんが知らない喫茶店で、あやちゃんが知らない人とコーヒーを飲むこの時間は、
間違いなのだろうか。
「じゃあ初詣行きますか」
「芙由子」
猫を写真におさめ、満足、と立ち上がった芙由子を思わず呼び止める。
「何?」
「聞いてくれて、ありがとう」
私がそう言うと、芙由子は一瞬真面目な顔をして、すぐ微笑んだ。
「いつものことだよ、気にしないで」
それに、と向き直る。
「節目だったんじゃないかな」
「節目?」
「糸ちゃんが糸ちゃんだと証明する、タイミング」
そうか、と何かがストンと胸に落ちる。
私を大切にしてくれる人たちとの時間。
それが紛れもなく私だ。
妹でも年下でもなく、
私を私として扱ってくれる、大切な人たち。
間違っていない、と頷いた。
それを、否定は、させない。
その、これでもかというくらいあたたくて広い、敬意を。
「寒っ」
店を出ると、外は日差しに反して冷たい空気に満ちていた。
毎年の初詣にカイロを握りしめ、凍えながら近所の神社に伸びた列に並んでいたころを思い出す。
「よし、行こう!」
気合を入れるように芙由子が叫んだ。
傾いた「定休日」の看板を背にして、私は車に乗り込んだ。
ここが開いていることが、私の時間の一部になっている。
逆か。
私が、この喫茶店の歴史の一部になっている。
「定休日」のその内側に。
可笑しくて、思わず笑った。
どうしたん、と芙由子が聞く。
何でもないと答えた声はすっかり軽くなっていた。
モーニングを胃におさめ、私たちは250号線を東に走り出した。
目指す牛窓はここから30分ほどだ。
ちゃんと前に進んでいる。
車内に入る日差しにほっとしながら私はアクセルを踏んだ。
自分らしく。




