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Apollo  作者: ゆいまる
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愛という名の暴力 情という名の束縛 4

 赤茶けた剥き出しの大地は果てのない連なりを持って広がっていた。遠近感を奪いかねないその巨大な空間は、同時に僅かな時間にもさまざまな表情を覗かせる繊細さも兼ね備えていた。インディゴブルーの空はその大地を覆い、厳しさの中の底なしの包容力を圧倒的な何かで見せつけていた。

 神崎川は、それらを見渡せる場所に立ち、息を飲む。

 頬に当たる風は躍動感を持ち、降り注ぐ光は全ての始まりと終わりを浮かび上がらせているようだった。

「凄いっすね」

「言葉なんか必要ないだろ」

 烏丸は呆然とする神崎川の様子に、満足げにそう言うと傍らに立ち、おもいっきり手足を伸ばした。

「ここに何度か来てるんだけどさ、いつもかなわねぇなって思うんだよ。まがい物は所詮リアルには」

「え」

「どんなにCG技術が発達しても、合成技術が巧みでも、精魂こめてセットを組んでも、結局さ、この本物には敵わないんだよな」

「確かに、圧倒されますね」

 そう、どんなに最高の技術や知識、感性を投入しても、理屈が入り込んだ人工物はこの本物の前にはかなわない。

 神崎川は頷くと、しばらく目の前に広がる景色を自分の細胞一つ一つに刻み込まんかとするかの様に見つめた。

 雲のない、直接太陽の光が影を地面に焼き付けている。その熱い大地に、まるで降ってわいたような烏丸の声がした。

「何か、あったのか?」

「え?」

 神崎川は眉をよせ、烏丸の意図を測るように見つめる。烏丸は苦笑交じりに眼鏡を触りながら

「ここに来て、お前らしくない感触がしてさ。いや、ミスがあるとかじゃないんだ。ただ、良くも悪くも無難かな。以前の突き抜けた感じがしない。やっぱ、あれか? 奥さんがいないと、調子でないって奴か?」

 そう冗談交じりの口調ながらも、決して笑っていない目で尋ねた。

「そう言うわけでは……」

 神崎川は言葉を濁らせ、彼から視線を再び渓谷に移す。

 確かに、あの夜から自分の感覚が鈍っているというか、仕事にいまいち身に入らないのは感じていた。その原因はやっぱり

「いえ、そうかもしれません」

 認めるのは嫌だがそうなのだろう。なんだかこの景色を前に小賢しい嘘をつく気になれず、言い直すと神崎川はゆっくりと頷いて見せた。

 烏丸は自分より背の高い神崎川を、困った悪ガキを見るような眼で見上げた。

 実際、年齢でいえば一回りほど違う。本当に自分の事をそう言う風に見ているのかもしれないな。神崎川はそう感じると、苦笑した。

「浮気がばれた?」

「そんなのは特に問題ではないんです」

「へぇ浮気は公認か?」

「というより……」

 何も訴えない紅の顔、そして昨日の緋奈の言葉が脳裏に蘇り、何とも言えない苦々しい気持ちになる。

「アレは俺のことなんか興味ないんでしょうね。俺が何しようが何にも言いやしませんよ」

「?」

 棘のある物言いに、烏丸が不思議そうな顔をしたので、神崎川はムキになっている自分に少々恥ずかしくなって、弁解の様に言葉を続けた。

「ここに来る前夜、烏丸さんと飲んだ日です。家に帰ってまぁ、色々あって……」

「必要ないとか言われた?」

「逆です。いるだけでいい。そう言ったんです」

 自分に向って両手を広げる彼女が言った言葉を自分の口に写す。

 あの不安感がまた自分を闇の底へと引きずり込むような感覚に陥った。そんな得体のしれないものへの怯えを隠すように奇妙な笑みに顔を歪めると、自嘲気味に神崎川の言葉は続いた。

「信じられないでしょう? そんなの詭弁もいいところですよ。生きている。それだけでいい? まるで俺に何の価値もないみたいじゃないですか?」

 そう、彼女が言った事が本当なら、彼女は自分の才能を必要としていない、つまりその才能を取った無意味な自分が必要だという事になる。

 馬鹿げている。自分以外の人間を好きになる時に、無意味な、むしろ自分に危害を加えるような存在を理由なしに必要とし好きになるものか。

 谷底から風が吹きあがった。瞬間、烏丸の笑い声が耳に届く。

「ぷっあは、あっはははははは……」

「烏丸さん?」

 神崎川は彼の笑みの意味がわからず彼を見つめた。烏丸はひとしきり笑うと、涙を拭いながら彼を見上げる

「で、お前は拗ねてるわけだ。意外に少年なんだな?」

「からかうなら、話は終わりにしましょう」

「いや、そう言うわけじゃない。でも、わかったよ。君の奥さんが君を選んだ理由」

 むっとする神崎川の表情が一変した。

 どういうことだ? 完成図を教えられていないパズルのピースだけを与えられるような感覚に、瞬きする。そんな神崎川を烏丸はにやりと見上げると、ポケットに両手を突っ込み、肩をすくめて、まるで手品の種明かしをするかのような口調でこう言い放った。

「ま、単純にほっとけなかったのさ。きっと」

「単純に、ですか」

 突き放すようにも聞こえる言葉をリピートする。

 まるで要点がつかめないといった神崎川に烏丸はさらにテンポよく続けた。

「わからないのか? この『単純』って言うのが重要なんじゃないか。まるで反抗期の子供みたいだな」

 烏丸は口調の割に楽しそうに目を細め

「いいか何にも言わないのは、興味がないからじゃない。君を丸ごと受け入れてるって事だろ。そういう女は貴重だぞ」

 そう言うと、神崎川を自分の肩で小突き、目の前の荒涼とした大地とはまるで対照的なごくごく身近にありふれた話をし始める。

「今日び、収入がないとダメだの、身長が高くないとダメだの、価値観が一緒じゃなきゃダメだの、優しくしてくれないとダメだの……まるで自分本位で恋愛、結婚する奴ばかりだ。そういう理由ばかり口にする連中はいかに自分が大切にされるか、いかに自分が気持ちよく過ごせるか、そればっかりで、単純に惹かれその相手を理解して支えようって気持ちがない」

 まるで『近頃の若い者は…』なんて苦言を呈しかねない雰囲気だ。

 神崎川は陽気に悲観する十二年も自分より早くに生まれた男を不思議そうに見つめた。

「でも。普通そうでしょ? 人間は、自分に得になる対象しか必要としない」

「どうだかね」

 烏丸は肯定も否定もせずに肩をすくめると、ふと口を噤んで再び目の前に広がる果てない惑星の礎を見つめた。

 不動な存在感であって流動的な表情を持つこの星の記憶に、烏丸は目を細めて口を再び開けた。

「俺さ、子どもがいるんだけど、一人」

「はぁ」

 今までの話題と全く違う降ってわいたような話に、神崎川は相手の意図が組めずにただ追いづちを打つ。

 烏丸はそんな返事を意にも介さない様子で独り言に様に続けた。

「月並みだけど、出産に立ち会った時、心底感動したよ。そうだな……」

 深く大気をその胸に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 そして、きっぱりとした明確な口調で

「この景色に負けないと思った」

 と断言した。

「俺達の作るものは、どんだけ心血注いでもたかが知れている。何百年後には残ってない可能性の方が高いし、それどころか機械がそろわないとまるで無意味。ただの黒い帯だ。でも、見ろ。この大自然は違う。ずっとずっとここにただある。そう考えると、俺達は本当にちっぽけだ」

 確かに、それはそうだ。

 映画は何億もの費用と、膨大な時間と、多くの人間の知恵の結晶だ。しかし、そんなものはこの惑星にとっては刹那の出来事で、今、目の前に横たわるものとはまるで格が違った。

「でもさ、唯一これと張り合えるのがあるんだよ」

「?」

 烏丸はまるで見当をつけることのできない神崎川を見上げ、にやりと笑った。

「命さ」

 まるでその答えが世界にある全ての謎の秘密を明かすような声でそう言い、遠い目をした。その視線の先には、ただただ連なる大地と果ての見え無い空。

「何千年だか知らない。人類じゃなく生命の誕生ならそれこそ何億年の時だ。それがずっとずっと繋がってその先に俺達がいる。俺達個人の命なんてたかが知れてるが、ここにある存在の意味は、それこそ……」

 烏丸は両手を思いっきり大地と空に掲げた。

「これに勝るとも絶対劣る事はないんだ」

 その横顔を神崎川は見つめながら、心臓があの奇妙な悲鳴をあげているのを感じ始めていた。

 震えそうになる気持ちを必死に抑え、うわごとの様な弱々しい声でそっと尋ねる。

「じゃ、生まれてきただけで、意味はあると……」

 紅の言っている事は本当って言うのか?

 烏丸はそんな神崎川を手を下ろしながら振り返ると、

「壮大な話だろ? ま、それだけが理由とはいわんがね」

 と冗談めかしてそういった。まるで、壮大な話は壮大な場所でするべきだといわんばかりに。そしてその顔を、急に大地と空を抱く解放されたものではなく、真実を追求する好奇と知己に溢れたものに変え、神崎川を逃げる事の許さない視線で見つめる。

「君の奥さんは、君の子どもを損得で産んだのかい? 産んで、何か得をしているのかい?」

 彩の事だ。あの奇妙な生き物を思い出し、神崎川の嫌悪感が出る。

 烏丸はその表情を咎めはしなかった。

「知ってるよ。君の子どもの事情。確かに、親の中には代理ミュンヒハウゼン症候群の様に、子どもの世話をすることで周囲の関心を引きたがる奴もいる。単純に男を繋ぎとめるための道具で産む奴だっている。が、奥さんはそういう女なのかい?」

 質問という形の、理論否定。事実の前に、神崎川の声は苦々しさに力が無くなる。

「違う……と思います」

 そう、むしろ損をしているだろう。

 あの生き物の存在は、今までもこれからも彼女を束縛し死ぬまで離さない。そしてその存在は、自分の嫌悪を買うだけで、彼女に得なものは何もなかった。

「なら、君の『得な存在しか必要としない』という持論は崩れるわけだ」

 烏丸は一つ一つ、まるで神崎川の鎧を剥がすように理論の展開を続けた。

 そして、触れたくない、直視したくないものを、この世界にさらすかのように最後の謎を口にした。


「じゃ、どうして彼女は君の子どもを産んだんだ?」


 世界が音を立てて色を変え始める。痛みの伴うそのメタモルフォーゼは、それでももう、止ろうとはしない。

 なぜ自分の子を彼女は産み、守るのか。

「それは……」

 あの細い体を思い出す。どんな時も拒まない温もりを思い出す。自分を見守る微笑みを思い出す。


何故

傷ついても

自分の人生を投げ出しても

あの命を産み落としたのか

それは

自分の存在を丸ごと受け止め

その価値を繋いでいくため

俺が生きている

それだけで意味がある

それを伝える

その為だって言うのか?!


 神崎川は自分の掌をじっと見つめた。彼女を傷つけ痛めつけてきた手だ。

「どうして、俺を?」

 梅田蒼汰の様な、彼女を大切にする手だって彼女は選びとることはできた。全ての命に意味があるというのなら、何故彼女は敢えて自分なんかを選んだのだ?

 烏丸は自分の手を見つめ身動きしなくなった彼を一瞥すると、まるでいさめる様に言った。

「それを理由づけて言葉にするのは、学者か詩人か臆病者だ」

 そして、気の遠くなりそうな広い世界に吹き抜ける風に、ため息交じりの声を乗せた。

「そう思わないか? なぁ」

 ようやく、神崎川は自分の手から視線を剥がすと、そんな烏丸に促されるように顔を上げた。

 光が射し生まれたての温もりで包み、風が吹き新しい息吹を運んでくる。

「ま、敢えて言うなら、まがい物のCGや合成には理由や理屈はあるが、この景色の様にリアルにはそんなものはいらない。それと同じ、なんじゃね?」

 烏丸はそう言うと、これ以上はこの目の前のリアルに教われと言わんばかりに口を閉じた。

 神崎川は己の肌で、心で、そしてゆっくりとようやく開いてきたその眼で、この世界のリアルに向き合い始める。

 確かに自分の生まれには理由があった。

 でも、紅が自分を選び傍にいるのに理由はない。いらない。

 そしてこのリアルは理屈のある事情を超え、理由のない真実を語る。


大地は大地

大空は大空

自分は自分

それでいいのだと


世界が広がり

輝きだした


 深く深く息をつく。まるで産声を上げる、その代わりの様に。そして、息をつくと、神崎川はゆっくりとしゃがみ、足元にあった石を一つ拾った。

「どうした?」

「妻と、息子に」

 繋がっていく尊いものの存在の証の代わりに、神崎川はその石をぎゅっと握りしめた。

「帰ったらここの話をしようと思います」

 そして、自分の息子を、彩を抱きしめたい。まだ一度もこの手に感じたことのない、自分の生きた証、彼女の生きた証、自分たちが出会った奇跡の証をもう、逃げだりしないで受け止めたい。

「こんな話したら嫁さんに会いたくなって来た!」

 急に烏丸が声を上げた。神崎川は自然に笑みがこぼれるのを感じながら立ち上る。

「あ、奥さんの具合は?」

「ん? 元気に娘と俺の帰りを日本で待ってるよ」

 そう言って烏丸は悪戯っぽくはにかんだ。

 そうか、初めから彼は……。

 神崎川は自分の未熟さに苦笑しながら、まだまだ捨ててもんじゃないこの世界を好きになり始めた自分の胸の中に、もう、あの『波』が立たないだろうという事を確信した。

 見上げた空はどこまでも青く、広く、澄んでいる。

「烏丸さん」

「ん?」

「最後のシーン。ここの空を背景にできたら最高でしょうね」

 想像力が囚われていた重苦しいものから解放された。自分の世界が今まででは想像もできなかった領域へと広がっていく。これまでとまるで比べ物にならないほどの、しなやかさと柔軟さと確かなリアルをともなって。

 烏丸は、才能をようやく自分のモノにした天才の空を見上げる横顔を見つめ、大きく頷いた。

「神崎川。これまでで一番良い見立てだ。これから、本当のお前の世界をみせてくれ」

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