廻る季節〜桃〜
青とケンカしてしまった。
彼が出て行ってしまった部屋で、一人桃は膝を抱え蹲る。
きっかけは些細な事。たった一本の細い紐、携帯のストラップだ。
青の携帯についていた見覚えのあるそれを見た時、桃は自分の気持ちの中にある重い重いしこりがまた大きくなっているのを感じた。それが、藍のものだとすぐにわかったからだ。
独占欲? たぶんそうなんだろうけど。桃はぎゅっと膝を抱える腕に力を入れた。
「藍ちゃん」
親友? 正直女友達のそれってわからない。地元の友達の中にもそう呼べる子はいるけど、藍は彼女たちとちょっと感じが違う。仲良くはしてくれるけど、肝心なところでは本心を打ち明けてくれていない。確信はないが、そう感じていた。
藍は時々、桃にとって不可解な行動をする。もし、本心をちゃんと知っていれば、こんなに嫌な風に勘ぐる必要のないことばかりなのかもしれないが、やっぱり気分は良くなかった。
自分達が付き合う前の事だけど、藍は自分が青の事を好きなのはとっくに知っているのに、一人で彼の家に泊まったり、二人でいなくなったり、自分ならそんな事しないというような行動をいくつかとっていた。
「私の心が狭いんかな」
細かすぎる? 嫉妬深すぎる?でも……。さっきのストラップを思い出して、胸の痛みに堪えるように桃は顔をしかめた。青の持ち物に、他の女性の持ち物が付いている。青の口ぶりからだと、きっと彼女の携帯には青のモノがついているはず。うまく言葉にできないが、それを想像すると胃の底がムカムカするような嫌な気分がする。それに、こんな事にクヨクヨしたり、こんなに恋に依存したりする自分も嫌だった。
考えたら、彼と出会ってからずっと振り回されっぱなしな気がする。片思いの時も何度も諦めようとしては、心が引きとめられ、ようやく気持ちが通じてつきあっても、もともと青が藍を好きなのを承知で始めたものだから、安心なんて程遠い。
青の方は付き合っているんだから、って思っているのかもしれない。さっきの喧嘩も、いつもは何にも言っていないのに急になんだって不可解と感じているのかも。
でも、言わないから不安がないってわけじゃない。
青はそれをわかってくれていない。
さっき、ついに不満や疑いを口にしてしまったが、桃にすればずっと我慢していた不満が爆発しただけだ。
一緒に住んだりペアリングをしたり、いくら形がそろっても不安は拭えない。形は所詮、形のないものには勝てないのを知っているからだ。むしろ、形あるものはいずれ必ず滅びる。
「青くん」
右手の薬指を眺める。
この繋がりをどこまで信じて安心していいの? それとも、こんなに恋に依存する自分がいけないのか? 桃がまた込み上げてくる切なさと涙に息を飲んだ時だった。
携帯が鳴る。光るサブディスプレイ。青からだ! 仲直りの電話かもしれない! そう思って慌てて電話をとると、電話の向こうの声は意外な人物だった。
「え、先生?」
三宮だ。どうして青の携帯から? 疑問が飛び交うが、喧嘩していることを悟られたくないので、努めて平静を装う。
内容はこれまた意外にも、バイトの勧誘だった。カレンダーを見上げる。就職も、実は地元の親の知り合いの会社にほぼ決まっている。桃さえOKを出せば内定がすぐにでも降りる状態で、夏休みの間はそれこそその気になれば時間はいくらでもあった。
このままウジウジしていても仕方ない。
「はい。わかりました。」
桃はそう返事すると通話を切り、深くため息をついた。
携帯を手元に置くと、ぐるりと部屋を見回す。一人暮らしで一人なのと、一緒に住んでいる人がいるのに一人なのとはまるで寂しさが違う。それは片思いで振り向いてもらえないのと、付き合っているのに向き合えないのと似ている気がした。
「今日は、帰ってこないのかな」
藍にでも会うのかな。
そんな卑屈な事まで考えてしまい、桃は自己嫌悪にまた胃の痛みを感じた。
だめだ。ちゃんと話し合おう。向き合えないのが問題なら、向き合えばいい。今日帰ってこなくても、いずれは必ずこの部屋には戻ってくるのだから。
桃はそう思いなおすと、放り出したままになっている青と行くはずの旅行のパンフレットを再び手にした。
二人で楽しい時間を過ごせる。そう信じて。
昨夜遅くに青が帰って来たのはわかっていた。帰ってくるまで不安で仕方なく眠れなかったのだ。
青を信用していないわけじゃない。浮気をするような人だとも思わない。でも、青はモテるし彼だって男だ。魔がさすって事はあるわけで、そう思うと気が気でなかった。
だから、彼が帰ってきた気配がした時、あのストラップへの怒りより安心の方が勝ってしまい、やっぱりこんな状態でも一緒にいたいと桃は強く思ったのだった。
眠りについたのは遅かったはずなのに、翌朝早くに目が覚めてしまった。
喧嘩をしたのは今回が初めてで、仲直りのきっかけをどうしていいかわからず桃はしばらくの間、青の部屋のドアをじっと見つめる。いつもは簡単にノックできるそのドアが今朝は違ったものに見えた。
でも、このままうやむやは嫌だ。これからもずっと傍にいたい。だから、こう言うのは積み重ねて行きたくない。桃は一つ深呼吸すると、思い切ってドアの前に立ってみた。
「青くん、起きてる?」
ドキドキする。返事がなければ今すぐに退散しよう。そんな逃げ腰で返事を待っていると
「今起きたとこ」
少々寝ぼけた声が中からした。よし。小さく気合いを入れてドアを開ける。
「おはよ」
ベッドの上には眼鏡をかけていない青が体を起して座っていた。眼鏡をかけていない顔が桃は大好きだった。自分だけしか見られない彼の素顔。そんな気がしていたからだ。
どこに座ろうか迷って、結局その大好きな顔がよく見える隣に遠慮しながら座った。
夏の朝の陽射しがまぶしく室内を満たし、その清々しさはこの重苦しい雰囲気とは対照的すぎて余計に桃の気を焦らせた。
なにから話せばいいのだろう? なにから伝えればいいんだろう? 昨夜散々考えたはずなのに、いざとなるとなにも浮かんでこなくて、桃は迷いながら口を開いた。
「あのね……昨日」
「ごめん。言いすぎた」
「?」
自分の言葉に前髪を気まずそうにかき上げる青の声が重なった。
「ストラップは今度返しておくから」
その声にはこの話をさっさと打ち切りたい。そんな青の気持ちがアリアリと見てとれて、桃の気持ちは余計に暗くなる。
「青くん、あのね……」
違うのだ。ストラップがどうとか、そういうのじゃなくて、もっと根本の話をしたいのだ。
桃はじれったい気持ちを伝えようと再び口を開いたが、青はそんな桃の会話を取り上げるように無理やり彼女を抱きしめた。
「もう、仲直りしよう? 桃とこんなことで揉めるのは嫌だよ」
はぐらかそうとする青の言葉に桃は押し黙る。仲直りしたいのは同じだ。でも、こんなその場限りの和解なんて嫌だった。ちゃんと分かりあいたい、理解し合いたい。向き合いたい。
「あの」
違う。そう言おうとした時、青はさらに強く抱きしめ桃の唇を塞いだ。
甘い甘い痛み。納得したふりを強要し、それを拒む事を許さない彼の我儘に抗えないのは、きっと惚れた弱みだ。
どうであれ青はここにいる。そして、そんな青に嫌われたくないと思っている自分がここにいた。
桃は諦めに小さくため息を漏らす。そして、わだかまりを飲み込むように青を受け入れた。
重なる唇も
触れ合う肌も
求めてくる指も
全てが蠱惑的で麻薬の様な
淫らな快楽を自分の中に植えつける
そして
真実や事実を
巧みに隠し
なかった事にしてしまう
自分は
きっと
そんな歪な魅力に囚われて
いずれ
少しずつ
嘘や偽りに
汚れていくのだろう
それでも彼から離れたくない
傍にいたい
今の桃には、そんな自分の弱い心を受け入れる道しか探せなかった。