廻る季節〜藍〜
花見は大学の構内。藍が着いた頃には良く知った顔がいくつも楽しそうに、満開の散り始めた桜の木の下で騒いでいた。
藍の顔を見つけ、真っ先に駆け寄って来たのは桃だ。
「藍ちゃん、いらっしゃ〜い」
この間の様子とは打って変って上機嫌な様子で藍にお茶の入った紙コップを差し出してきた。
何か聞いてほしそうな顔の桃に、紙コップを受け取りながら藍はいつもの様に「どうしたの? いい事あった?」と誘い水を送る。
桃は頬を可愛らしく染めて、少しもったいぶった様子で「えへへ」とはにかんだ。彼女はアルコール類は一切受け付けないので、酔っているわけではなさそうだが…。
「じゃ〜ん! 見て見て! 買ってもらっちゃった」
右の薬指を誇らしげに翳してみせる。そこにはまるシルバーリングに藍は一瞬目を大きく開け、すぐに親友の顔を作った。
「青くんに?」
分かりきった質問はこう言う場合、される側は嬉しいはずだ。桃は藍のそんな見当にバッチリはまり、喜色満面の笑みで頷いた。
「うん。ペアリングなの」
「へぇ〜。良かったじゃない」
青が、指輪。なんだかピンとこなかった。実際、アクセサリーとか似合いそうな気はするが、本人がそういった類をつけているのを見た事がないからだ。だとすれば、青がつけたくて買ったというより、桃のための指輪なのかもしれない。もしかしたら、この時期だ、単なるペア以上の意味を持っている可能性もあった。
また胸の奥で嫌な痛みが走る。
藍は取り繕うように微笑むと、冗談にその痛みを紛らわせ桃を小突いた。
「やだ。なんだかんだ、うまくいってるんじゃない」
「そうかな」
「そうよ」
まだ自信が持てない様子の桃に頷いて見せると、藍は蒼汰を探すことにした。探すといっても、いつも人の輪から離れた所にいる青と違って、必ずと言っていいほど騒ぎのど真ん中にいる彼を見つけるのは簡単だ。
「あ」
やっぱりいた。ガキ大将は今日も健在だ。
「蒼汰くんったらね、さっき、カラオケで歌いまくっていて、すっごく面白かったんだよ。もう、ジャイアンみたいだった」
藍の視線に気がついた桃が思い出しながら笑う。
今も、三宮教授と肩をくんで何やら大笑いしているその顔には、周りを明るくさせる何かがあって、こんな離れた場所でも感じられる彼の存在感が胸を締め付けた。
「桃ちゃん! ちょっと!」
不意にそんな笑顔がこっちを向いて手を挙げた。
藍はどきっとする胸の痛みに思わず顔を伏せる。
「藍ちゃん、私、呼ばれてるから行くね」
「うん」
桃の声に苦笑いで頷くと、人をかき分け蒼汰の元にいく桃を見送った。
どうせなら、呼ばれてなくても桃と一緒に行けば自分も彼の近くに座るくらいできるのに。こんなタイミングをみすみす逃してしまうのが自分らしくて、藍はさらに苦笑に苦みをくわえ彼らを見つめた。
どうやら三宮が桃を連れて他のグループに乱入していくつもりらしい。
慌てる桃を見上げて面白がってはやす蒼汰を、こんな離れた場所で見つめるしかできない自分を藍はもどかしく、そして情けなく思った。きっとこの想いは、こんな風にくすぶり続けたまま、卒業という強制的なピリオドが打たれるまで、火傷の様なヒリヒリとした痛みを自分に与え続けるのだろう。
結局、自分はどうしたかったのかわからなくなる。
蒼汰の失恋を目の当たりにした時、確かに自分は深く傷ついた。じゃ、うまくいって欲しかったのかというと、それも違う。なら、自分は何を望んでいたのだ?
「……まだ、黙ってるつもりなのか?」
不意に耳に届いた声に、一瞬驚いたが、それが青だとわかると、藍は自嘲の笑みで顔をふせ、手元のお茶の入ったコップを見つめた。
「今更、言えないよ」
切なさが声を震わせるのは、きっと青のせいだ。青の前だと気が緩んでしまい、どんな自分も隠せなくなってしまう。でも本当に『今更』なのだ。『友達』になってしまった今、このポジションは不動のものに思えて、そこから抜け出せる気はまったくしない。
顔を伏せかけた時、再び声がした。
「もう。この桜を見る事は一生ないよ」
「青くん」
その言葉に、藍は顔をあげて青を振り返った。
青は秀麗なその横顔で、儚く散り急ぐ薄紅色の華吹雪が舞う夜空を見上げていた。現実感を伴わないほどの美しさは、夢の欠片もない現実をつきつける。
「最近は将来の事しか考えられないでいるけど、今、この時間はもう二度と来ないんだぞ」
「でも」
確かにそうなのだ。きっと、来年、いやもっと早い時期に自分たちはバラバラになる。そうすれば、もしかしたら一生会わなくなる可能性もあるのだ。
燻る想い。怖いのだとわかった。自分勝手な想いを蒼汰にぶちまけて、彼を傷つけるのが。
「行ってこい。やらずに残す後悔より、やって残す後悔の方が力になるから」
青がそっと背中を押した。その言葉は、大みそかに蒼汰が言った言葉に似ている。
藍は蒼汰に目を向けた。ちょうど「明日早いから」と帰ろうとしているところだった。
行ってしまう…。
胸が軋む。
足が竦む。
手が震え
唇を噛みしめた。
― 嫌だ
胸の奥がそう叫んでいた。このまま偽りの友情の仮面をかぶった友達のまま終わるのは嫌だ。本当はモノわかりの良いふりなんかしたくない。本当はいつだって、汚くてもずるくても、本物の自分を見てほしかったんだ。
「ほら! 行け!」
青の声。
泣き出したいくらい怖い。
本当の自分を彼にさらけだして、彼を失望で傷つけるのが怖い。
そして、それで自分が傷つくのも怖い。
弱い心は揺れる。
それは、このまま『友達』として無難な思い出になれば誰も傷つかないと囁き決心を鈍らせる。
やっぱり駄目だ。自分には。そう、藍が諦めかけた時だった。
「大丈夫、俺がいるから」
怯え震える自分を青の声が包みこんだ。
刹那。心が嘘みたいに軽くなっていく。
藍は隣に立って自分を穏やかな顔で見つめてくれている彼を見つめ返した。
「青くん」
そうだ、どんな時も青は自分を支えてくれていた。どんな時も理解してくれていた。青が自分にはついている。
「ありがとう」
心が決まった。
言うのも言わないのも、どちらも怖いなら、自分らしく答えを出そう。青がいてくれる。もし蒼汰がこの告白に傷ついても、きっと青が何とかしてくれる。
藍は半ば勢いでそう自分に言い聞かせるとコップを青に渡し、帰りかけていた蒼汰の背中を追いかけた。
胸が不協和音を打ち鳴らす。
恐怖が追いかけてくる前に、青から貰ったなけなしの勇気を胸に蒼汰に追いつこうと急ぐ。
もう、どうなってもいい。この気持ちをやっぱりちゃんと伝えよう。嘘も誤魔化しも嫌だ。蒼汰が好き。ずっとずっと好きだった。だから、終わらせるにしてもやっぱりちゃんと向きあって終わらせたい。
「蒼汰くん!」
思い切ってその名を呼んだ。いつも目で追っていた背中が、桜の木の下でゆっくりと振り返った。
夜桜が見せる狂乱に華やぐ喧騒が遠い潮騒のように聞こえる。
代わりに自身の鼓動が耳元で鳴り響いていた。
「どないしたん?」
蒼汰はいつもの様子で両手をポケットに突っ込み、藍の顔を覗き込む。
藍は胸の前で自分の手を握りしめると、一度ぎゅっと目を瞑った。
怖い…
怖い…
怖い…
でも…
目を開ける。
諦められない心は、何かを察しかけている彼に強く惹きつけられ、早く言葉にしろと急かす。
「蒼汰くん。あのね。私」
「うん」
その短い返事に、藍は蒼汰がもう、これから先自分が何を言うかわかっているのだと知った。
「私」
唇が震える。まともに彼の顔なんか見れなくて、藍は俯いたまま、まるで散りゆく桜の花弁の様な声と、躊躇いを振り切るような口調で、ずっと言葉にできなかった想いを口にした。
「蒼汰くんが好きなの」
途端に、何かのたがが外れ、どっと涙が溢れてきた。
止められない溢れる想いを手で蔽い、藍はさらに言葉を続ける。
「本当に、ずっとずっと。ごめんね。友達のふりなんかして。本当は、親切なんかじゃないの。応援してたわけじゃないの。本当は、紅先輩の事が凄く羨ましかったし、悔しかった。私、私……本当はずっと蒼汰くんの傍にいたいって思っていて、だから、私は……」
とめどない想いは、言葉なんていう頼りないものでは伝えきれなくて、藍は涙に揺れる声を噛み切るように唇を結んだ。
風が揺れた。優しい沈黙を優しい声が吸い込んでいく。
「藍ちゃんの気持ち、よぅわかった。おおきにな」
蒼汰の声が間近でして、子どもをあやすような手で自分の頭が撫でられているのを感じた。心が温かいもので包まれ、満たされ、終わりを受け入れられる大きさに広がっていく。
蒼汰の瞳が憂いに揺れた。
「けど、ごめん。正直今は、誰かを好きになるって言うのはたぶんできへん」
どこかで分かっていて避けていた答え。でも、いつかは聞かないといけないと思っていた言葉だ。
「蒼汰くん」
顔を上げた自分はきっと醜い顔だと藍は自嘲した。しかし、蒼汰はそんな藍の顔をそっと拭い。
「でも、おおきにな」
大きな笑顔で微笑んだ。
ここで笑うのも反則だよ。藍はそう心の中で蒼汰に言いながら、頷く。
もう十分だと思った。
「明日から、また頑張ろうや。お互い」
「うん。そうだね」
それは、友達を続けていいってことなのか。きっと、そうだ。優しく強い人。自分の好きになったのはそういう男なのだから。
「ほなな」
「うん」
彼が背を向ける。
「バイバイ」
恋が終わる
桜吹雪が彼を隠して良く見えなくなる
もう…
見えなくなってしまうのだ
藍は蒼汰のその背中を最後まで見送ると、力が抜けたようにペタンとその場に蹲った。
冷たい夜風が涙をリアルにさせる。本当に、本当に終わったのだ。
なぜか穏やかな心に藍は密やかな笑みを零すと、この恋をその胸の内に閉じ込めるように目を静かに瞑った。
失恋はまったく引きずらなかったとは言えないが、燻っていた毎日よりずっと楽だった。
さすがすぐには、お互い連絡を取り合う事はなかったけれど、しばらくするとどちらからともなく以前の様なやり取りをするようになったし。結果だけを思うとまだ胸の痛みはあるが、それでも告白できて良かった後悔は微塵もなかった。
藍は背中を押してくれた青にお礼をしないといけないな、と思いながら彼を待った。
今日はたまたま東京での面接が重なり、一緒に新幹線に乗る約束をしていたのだ。
顔を合わせる機会は花見以降も、桃と三人で食事したり皆でお茶したりとちょこちょこあったが、二人でゆっくり話すのは久しぶりかもしれない。
約束の時間きっちり。
顔を上げると、スーツ姿のモデルの様な青を見つけて、藍は思わず破顔した。
青はもともと話しやすい方だ。
無口なんだけれども、いい具合に相槌を打ってくれるし、合いの手の様な返しも軽妙で心地よかった。
その話をすると、青を無愛想な無口な人間だと思い込んでいる人は、全く信じないし、彼に話を聞いてもらったことのある人間は深く頷く。
なんとなく、あの日の事を切り出しにくかったのもあり、またこれからの面接に緊張していたのもあって、藍はその日はいつも以上に口数が多かった。
それでも付き合ってくれる青の存在はありがたかったし、何より、青ほど一緒にいて気持ちが安らぐ相手はいなかったから嬉しかった。
藍がひとしきり話し終えた頃、二人が乗る新幹線はトンネルに入った。
その暗闇にふと去年の夏の花火大会を何故か思い出す。
桃と青が付きあい出して間もない頃で、まだ自分の中で二人が付き合っているのを複雑に感じていた時だ。
四人で並んで座った土手。桃の頭越しに目があった彼。藍にはその時、蒼汰や桃が青を慕う気持が良くわかったような気がした。
きっと二人とも、居心地がいいのだ。
そして桃はそんな場所に、特別扱いでずっといられるんだ。そう思うとちょっと桃を羨ましくなって、いっそう複雑な気持ちになったのを覚えている。
真っ暗なトンネルに青の影。
その指には桃とお揃いの指輪が光っている。またあの苦しみが胸に去来した。
青は桃の彼氏。
親友の恋人。
サークルの仲間。
ただの、友達。
どんなに心が許せて、居心地が良くて、信頼できる人でもそれは揺るがせない。
「ありがとうね」
ポツリと藍は礼を口にした。
「え?」
景色なんかないのに青の顔を直接見たくない藍は外を見る。
「あの、お花見の日」
「あ、あぁ」
青の方が失恋したような顔をして、藍は少し可笑しくなった。
「蒼汰くん」
しかし、軽くなりかけた心はこの名前を出した瞬間にっまだ簡単に笑う事を許さなくなる。藍はなるべく波立ちそうになる気持ちを抑え、事実のみを口にするように努める。
「わかってたって。ありがとうって。でも、今はまだ誰かを好きになる事はできないからって」
そのせいか、口から洩れる声はどこか淡々としていて、独り言のようになってしまった。
「よく、頑張ったな」
そう言う青の横顔は今にも泣き出しそうに固かった。膝の上でこらえるように拳を握り締めている。でも、その手を包む事は自分にはできない。
「告白出来てよかった」
藍はそういうと、手を握れないその代りに、精一杯の笑顔を作ってを振り返った。
「あのままじゃ、やっぱりスッキリできなかったし。おかげで就職活動に集中できるようになったしね」
「そうか」
眼鏡の向こうの目がすっと痛みをこらえるように細くなる。自分の失恋を、こんなに一緒に苦しんでくれるなんて……。でも、どんなに気持ちが共有できても、どこかで線を引かないといけない。藍はそう思いなおすと、敢えて桃の名を口にした。
「青くんは、桃とどうするの? 桃、すごく不安みたいだった」
「今日のが受かれば遠距離決定だろうな」
今度は意外にも事もなげに答える。
「そうか広告代理店だっけ。結構大手でしょ?」
「中堅だよ。まだ若い会社だし」
青はそういうと長い足を、新幹線の座席では窮屈そうに組み直し、眼鏡を直した。
桃の事になると、青は藍が想像するよりいつもさっぱりしていた。これでは桃が不安がるのもわからないではなかったが……また薬指を見てみる。
特別な指輪。それがあるって事は、むしろ二人は傍にいなくても良いくらい強い絆で結ばれているってことなのだろうか?
藍にはいまいち測りかねていた。それでも、どちらにしろ自分は青とは卒業と同時に会えなくなるのは確かだ。そう思うと、ぐっと気持ちは重くなる。
青のいない世界。それはきっと弱い心が彼を頼っていた分、蒼汰がいないよりも寂しいんじゃないか。想像できない、というかしたくないが、そんな予感がした。けど、いくら寂しがったところで、彼女なのは桃で……。
またあの苦しみがキリキリと胸を締めあげる。こんなんじゃいけない。友達の彼氏を羨ましがるなんて。
蒼汰への気持ちを整理したように、この気持ちも整理しないといけないのかもしれない。
藍はしばらくその方法を考えていたが、不意にある方法を閃いた。
「そうだ、お守りあげる!」
自分でもちょっと突拍子がないかな? と思いながら青を振り返る。
「?」
青は不思議そうにこちらを見た。それを藍は微笑みで返す。
藍の閃きはこうだ。彼は自分にとってお守りの様な存在。だったら、本当にお守りの様なものを彼から貰ってそれを彼の代わりにしていけば大丈夫なんじゃないか。そう思ったのだ。
藍は慌てて鞄を開け、携帯を探した。そしてそれを手に取ってキョトンとする青にみせると
「ね、ストラップ、交換しよ。私、あがり症だから青くんがついてると思うと、きっと頑張れる」
なんて適当な言い訳の尾ひれをつけてまくし立ててみた。
ずるいやり方かもしれない。桃がちょっと嫌がるかもしれない。でも、青を頼るのはこれで最後にするから。これ以上はあの胸の苦しみを感じないような位置にいて、もし会えなくなっても寂しがるような事はしないから。だからこれくらいは見逃してほしかった。
「それって、俺に、じゃなくて、藍にとってのお守りじゃん」
青が冷静な突っ込みをしながらも苦笑し携帯を取り出した。
「……そうだけど、ダメ?」
藍はわざと駄々をこねるように尋ねる。
どうしても欲しい。これ以上、青を頼らないために。
藍は半ば祈るような気持ちで彼を見つめた。
「良いよ」
しばらくして、根負けしたのかどうか、青は穏やかに微笑んでそう言った。
気持ちがぱっと明るくなって、思わず笑顔になってしまう。
青は自分のストラップをその長い指で器用に外して差し出した。
「俺も今回の本命、いつもより気合入れて行きたいし。ほら、藍の貸して」
「うん」
自分のを渡す。何だか無償にくすぐったくなって、照れてしまう。
幼い頃にはやっていたミサンガをその時好きだった男の子に渡した、あの時の気持ちによく似ていた。
自分の携帯に、青のシンプルなストラップはちょっと不釣り合いだったが、なんだかそれがかえって存在感を強調するようで……。
今日からこれが青の代わりだ。そう思うと、この一本の細いストラップが宝物のように思えてきた。
「頑張ろうね」
胸が苦しみから解放されて、初恋の様な高揚にドキドキする。
目があった青は変わらずのポーカーフェイスだけど。
「あぁ」
そうお互い言い合った瞬間、世界が一気に明るくなった。
長い長いトンネルを抜けたのだ。
藍は外に広がる眩しい空を仰いだ。
夏はもう、すぐそこまで来ていた。




