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Apollo  作者: ゆいまる
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廻る季節〜藍〜


「藍ちゃんって、本当に青くんの写真、好きなんだね」

 桃の声に我に帰った藍は、ハッとして顔を上げた。

 平日の午後。この部屋の主が就職活動で留守の今日、寂しいから泊りに来てほしいと桃に言われ藍はこの部屋にお邪魔していた。

 入学した時からずっとルームメイトだった彼女と、一緒に住んでいたマンションの改装工事のために離れることになったのは3か月ほど前。初め、桃が青と同棲を始めると聞いた時は正直驚いた。彼女が彼氏である青と住む事にではない。それを聞いてショックを受けた自分にだ。

 別に、大学の友人たちの中にも彼氏と同棲や半同棲している人は少なくないから、桃がそうしても不思議じゃないはずなのだが、驚いたのはどこか青と桃が付き合っているのを実感がなかったのかもしれない。

 いや『現場』を目撃したのだから実感していなかったというより、したくなかったの方が正確なのかもしれない。

「ん。なんだか、見ていると引き込まれちゃうって言うか、空間を捉える視点が独特ですごく好きなの」

 これは本当だ。藍は桃が置いた紅茶に礼を言いながら、もう一度アルバムに目を落とした。このアルバムは藍の一番のお気に入りで、風景の写真ばかりが収められている。徹底して人間の影のない写真ばかりで、その広さと寂しさが好きだった。

「ふぅん。私も青くんの写真、好きは好きだけど、正直、あんまり良くわかんないんだよね」

 桃は藍の隣に座って、同じ写真を眺めてみる。

 ガラスを通した日差しは心地よく、外のまだ冷たい風さえ感じなければもう、すっかり春だ。

「本当に、良くわかんないよ」

 桃が、ちょっと拗ねたような口調でカップを両手で包み込み呟いた。

 藍はそんな桃の妹のような仕草が好きだったし、羨ましかった。実際は、自分の方が生まれは妹で、桃は一人っ子なのなだがこんな風に可愛らしく守ってあげたくなるような表情は自分には出来ない。

「どうしたの?」

 藍の方から誘い水を向けるのは、もう二人の間ではお決まりの様なものだ。逆に、桃はそうでもしないとそれ以上の事は言わなくなってしまうのを、藍はよく知っている。

「ん、青くんね」

 桃は少々口をとがらせながら口ごもる。

「もともと、無口なのは無口なんだけど、その……全然話してくれないの」

「? 会話がないって事?」

「ううん。将来の事」

 あぁと藍は、青が今まさに就職活動のためにここにいない事に思い当たり、何となく桃の不満を納得した。

 桃はどちらかというと寂しがりだ。一緒に住んでいる時も、よく一緒に何かしようとか誘ってきたし、毎日夜遅くまで話をしていた。だから、青が『一緒に』将来の事を考えてくれないのが寂しく不安なのだろう。

「就職活動真っただ中だもんね。桃からは何か言わないの?」

 桃は藍の質問に首を横に振った。そして、少々言いにくそうに

「でも、就職活動もなんだかやる気になれなくて。青くん、本当に、私の事好きなのかなぁ」

 と頼りない声を紅茶に浮かべた。

「心配ないよ」

 藍はすぐに条件反射の如くそう口にすると、部屋の中を見回してみる。

 ここに青と桃が住んでいる。二人の時間、二人の生活がここにあるという事だ。胸が理由のわからない苦しみを覚えて、藍はすぐにそれを奥の方へと追いやった。たいてい、青の事を考える時にはこの苦しみがやってくる。それが何なのかはよく分からないし、結局、それがわかったところで、彼は親友の彼氏なんだという事実に変わりがあるわけでもない。だから、いつしかこうやってその苦しみを感じた瞬間にすぐ追いやることを覚えていた。

「青くんかぁ」

 何故か青の事を思い出す時は彼の横顔が浮かぶ。正面の顔ではなく、横顔。それも決まって右側だ。綺麗な造形だけど、それよりいつも気になっていたのは、その眼だった。どこかを見ているようで、どこも見ていない。そんな不思議な眼だ。もしかしたら、それが桃を不安にさせているのかもしれない。

「自分から何か言うタイプじゃないし。どうしても気になるなら、自分から言った方がいいかもね」

「うん。本当、蒼汰くんの半分でいいから、もうちょっと話してくれてもいいのにね」

「あはは。それじゃ、蒼汰くんがお喋りみたいじゃない」

「けど、あの二人って、足して2で割るくらいがちょうど良くない?」

 なにがちょうどいいのか良くわからなかったが、藍は頷いて見せた。

 でも、確かに、会話量というより分かり易さで言えば、足して2で割ってほしいとも思う。

 そう蒼汰は分かり易すぎだ。

「蒼汰くんとは?」

 桃の振りに藍はさっきよりさらに苦しい胸の痛みを感じて、眉を困ったように下げて「相変わらず」と笑って見せた。

「メールのやり取りは結構してるんだけどね」

 彼からのメールの着信があれば飛びついてしまう。なければ問い合わせしてしまうし、携帯を睨んで切なくなる時だってある。メールを打つときは、嫌な思いをさせないか、誤解されないか、色んなことを迷いながら打つし、絵文字の量にだって気を使ってしまう。返事がしばらくないと物凄く不安になり、返事がすぐ来ると嫌になるくらい嬉しかった。

 こんな些細なやり取りに一喜一憂する自分がたまに情けなくなるが、どうしようもない。やっぱり、自分は彼が好きだし、諦めもできないのだ。

「藍ちゃん。告白はしないの?」

 桃に尋ねられ、視線を落とした。それは考えないでもなかったが……。

 もう一度青の写真を見る。まだ、今はこの世界に浸って何も考えたくない。そんな気がしていた。


 文字だけだと相手の顔が見えないから不安だ。そう思いつつも、藍は三日前に蒼汰から来たメールを読み返していた。

 もう、何度も何度も読み返したその内容は、蒼汰からの食事の誘いだった。しかも、どうやら二人でって言う事らしく、その意図を量りかねて藍は嬉しいながらも戸惑っていた。

 すぐに返事は返したが、駆け引きのうまい人間ならば即返しはしなかったかもしれないと、送信した直後に後悔した。実際、その返事が返って来たのはそれから半日くらいした後で『じゃ、その時にな』と短い一文だったから、メールの即返しに蒼汰が引いてる恐れもなくはなかった。

 そんな事情もあって、それ以上こちらからメールもできず、蒼汰の意図が測れないまま当日を迎えてしまっていた。

 藍は鏡の前で溜息をつく。戸惑いを反映するように、髪形もいまいち決まらない。会えるのはもう二週間ぶりくらいになる。しかもその時は貸していたCDを返して貰っただけだから一瞬だったし、まともに話したのまで遡ればかなりの間、直に言葉を交わしていない事になった。それにこの先もまたいつか会えるのかわからない。

 今日、何か失敗するわけにはいかないのだ。

 もう一度携帯を見る。やっぱり、新着受信はない。

「会うまでわかんないか」

 零す言葉は不安の前に頼りなさすぎて、なんの意味もなかった。

 藍は、メールというのは不安を膨らませるばかりのモノの様な気がしていた。来ても来なくても、送っても送らなくても、やっぱりそこにあるのは不安だけだ。ただ、相手からの受信を知らせる音を聞いたときのみの一瞬の喜びと引き換えに、背負うもののなんと多いことか。平安時代の恋人達はもっぱら文のやり取りで恋をしていたというから、偉いなぁと思う。自分なら、こんな文字のやり取りだけでは不安で仕方ない。

 その時、不意に携帯が震えドキリとさせるメロディを弾きだした。

 藍は慌てて携帯を開き、もう反射の様に高鳴る胸を押さえて画面を開く。

『早よ着いたから、待ち合わせの公園で先待ってるな〜』

「?!」

 時計を見るとまだ約束の時間ではない。でも、でも……会いたい! 藍は慌てて鞄をひっつかむと、携帯を放り込み部屋を飛び出した。

 とにかく蒼汰に会える。その気持ちは春の夕暮れに弾む足取りの影となって、藍を彼の元に走らせた。

 近頃、日に日に日没の時間が遅くなってきている。同じ時間でも、明るいのと暗いのとでまるで感覚が違ってくるから人間って不思議だ。

 藍は乱れた呼吸と、やっぱりしっくりこない髪形を整えながら、待ち合わせの公園の少し手前で足取りを緩めた。

 その公園はいつか青と花火をした場所であり、その思い出が藍の足を止めた。

 もう、あの頃から自分の気持ちは蒼汰に向かっていて、蒼汰の気持ちは紅の所にあった。それは丸三年経った今も変わらない。一体その間、自分は何をしていたんだという情けなさに笑みすらこぼれる。

 想いを伝える事もなく、諦めて次の恋をするわけでもなく、気がつけば、片思いだった桃の恋は先に成就し、蒼汰の恋は終わったとはいえ彼に深い何かを残している。

 藍は、やはり自分だけ置き去りにされた気分だった。

 薄暗い公園に白銀等が灯り、ぼんやりとその周囲を青白く照らし始める。その色と、夕暮れのオレンジが重なる空間は、子どもの頃に誰も迎えには来ない公園で一人ぼっちで見上げた空を思い出させた。

「わっ!」

「!」

 いきなり背後から大きな声がして、藍は声も出せずに目を見開いた。

 振り返ると、ガキ大将の様な悪戯っぽい蒼汰の満面の笑みがそこにあった。

「あはは。すまんすまん。そないにビックリすると思わへんかったから」

「もう〜」

 藍は思わず破顔して、軽く蒼汰の胸を小突いた。そんな蒼汰の服に土が付いているのに気がつく。

「あれ? どうしたの?」

 払ってやりながら訊くと、蒼汰は少しさみしそうな顔をして答えた。

「あ、飼ってたハムスターが、な……」

「あ」

 以前、青の家で見た蒼汰のハムスターを思い出す。

 土を払い終わった藍に蒼汰は礼を言うと、泣き顔を無理やりに笑顔にしたような顔で前髪をかき回した。

「いや、ちょうど寿命くらいやねんけど。さすがにキツイな、これは」

「そうだよね」

 あの愛らしい姿を思い浮かべ、藍は口を噤む。

 蒼汰がどうしてハムスターを飼っていたのかは知らない。でも、大切にしていたのは知っていた。

「ま、食事にでも行こうか」

「うん」

 蒼汰のほうもこの場をどうしていいかわからなかったのだろう。

 彼らしくない、脈絡のない流れに藍はその動揺の大きさを感じ、黙って付き合う事にした。


 蒼汰が連れて行ってくれたのは、少々高台にあるイタリアンレストランだった。外観も内装も、おしゃれな感じで。駐車場から入り口までは中庭を通らないといけないのだが、そこには様々な草花がライトアップされており、藍はその場所が一番気にった。

 蒼汰は予約をしていたらしく、通された席は自分達の街が一望できる窓際の席だった。

「凄い〜」

 夜の帳が降り、街明かりが灯り浮かび上がらせる街は幻想的で美しい。まるでシャガールの世界だ。藍はひとしきりその眺めを楽しむと、蒼汰の方を振り返った。

 こんな場所に誘ってくれるなんて、どんな理由があるのだろう? 見ると周りはカップルだらけだ。期待もなくはない。

 でも外を眺める蒼汰の横顔は、そんな風には見えなかった。遠くを見つめる瞳には、恋に浮ついた感じにも何かそう言った意図を含む緊張感もなく、まだあの細い背中を見守るような切ない色が揺らめいていた。

「あの、今日は……」

「ん? あ、あぁ」

 藍の声にハッとして顔を上げた蒼汰は、少し気まずそうな想いを笑いに誤魔化した。

「礼をずっとしてへんかったなって…」

「え?」

「ほら、紅さんが入院した時に、藍ちゃんには色々世話になったやん? その時の」

「あぁ。そんなの」

 気にしてほしくなかった。むしろ、忘れていてほしかった。あの陽炎のような彼女と一緒に。

 藍は「そんな前の事…」と付け足すと、運ばれてきた料理に口を噤んだ。

 前菜の皿の上にのる鮮やかな春野菜。食欲をそそるはずの彩りも、くすんだ自分の心は素直にそれを受け入れない。

「ま、食べようや。就職活動の荒波にもまれる戦友なんやし。たまには贅沢しよ」

「ん。いただきます」

 こんな自分にでもかけてくれる明るい蒼汰の言葉は好きだ。

 自分の心の暗く湿っぽい部分にも、あったかくて柔らかい光を当ててくれているような感じがするのだ。

 それから、たくさん色々な話をした。就職活動の話が中心になってしまうのはもちろんだが、同じくらい桃と青の話もした。蒼汰は本当に青が好きなようで、彼の話をする時はイキイキする。でも、同時に先日の桃のように、彼らのこの先を心配もしているようだった。

 たぶん、クリスマスに集まった時に、青が桃の永久就職を冗談混じりながらも拒否したせいかもしれない。

「桃ちゃんもエライやろうな」

 エライというのはきっと、大変とかキツイって言う意味だ。藍はそう理解して頷くと、親友の代わりに溜息をついた。

 好きって言う気持ちは、どうしてこうも人を縛るのだろう。

 この気持ちから自由になれたら、どんなに生きやすいだろう。

 そう、メールみたいにどの道、桃のようにうまくいっても、自分のようにうまくいかなくても不安にさせるものなら、いっそこの世からなくなってしまえばいいのに。

「ね、どうして、今更なの?」

 思わずついて出た言葉は、棘があった。

 藍は口にしてからしまったと思ったが、顔を上げると、蒼汰は何度か瞬きをしてキョトンとした顔でこちらを見ていた。

 しばらくして、どうして今更あの時の礼をしたのかという意味なのに行きあったったのか、困ったような顔で前髪を触ると

「ん正直、一個一個終わらせたかったんがあるんかもな」

 と言葉を濁しながら答えた。

「蒼次が死んで、改めて、ちゃんと区切らないとアカンって思ってん。で、心残りを残さんで、ちゃんと整理していけば、前にもっとちゃんと向いて行けるかなって」

「蒼汰くん」

「未練たらしいやろ? 男ってそんなもんなんやって。今は、ずっと後ろ髪惹かれたまんま振り切ろうと走ってる感じやねん。でも、そんなんより、あの事は……」

 彼にしては曖昧な言い方だったが、藍はそこに色んな想いが幾重にも重ねられているのを知っている。何故、ハムスターの死が紅との思い出の整理を煽ったのかはわからないが。

 蒼汰は指を組むと、遠い空の方を見つめた。きっとその空は、彼女を連れ去った遠い外国の地へとつながっている。

「ちゃんと、追い風にせなって思ってん」

「?」

「俺は、後悔は何にもない。ほんまに大切やったし、精一杯やったから。せやから余計に、力に変えたいって言うか」

 照れ始めたのか、口ごもると誤魔化しに蒼汰はグラスの水を飲んだ。

 結局、あの陽炎の様な彼女はこれからもずっと蒼汰の支えになるという事か。それは思い出になっていく今、かえってどうしようもないくらいに、彼の中の確固たるものへと形を変えようとしているようで……。

 藍はそれに悔しいと思う自分を利己主義な子どもだと嫌悪した。

 昔からそうなんだ。どんなに待っても、公園には誰も自分を迎えには来てくれない。待ち望んでも、声を上げても、誰の手も差し出されない。そして、手を引かれて先に帰っていく誇らしげな友達の顔を妬みに近い想いで見つめるしかないのだ。

「藍ちゃん。おおきにな」

「え?」

 不意に飛び込んできた声に顔を上げる。

 自分を見る蒼汰の目は本当に優しくて、強くて、藍の胸を苦しいくらいに締め付けた。

「俺。青や桃ちゃん、ほんで藍ちゃんがおってくれたから、今も立ってられるんやと思う。俺、頼りないしアホやけど」

 ここでの笑顔は反則だよ。

「今度は藍ちゃんのピンチには駆けつけるから、いつでも呼んでな」

「蒼汰くん」

 思わず頬が緩んだ。

 あの夕暮れ空が綺麗な星空に変わり輝きだす。待ち望んだお迎えは、風呂敷マントのガキ大将だった。そのマントは空も飛べないし、その手はまだ小さくてきっと自分を守りきれはしないんだけど。

「ありがとう」

 嬉しかった。

 そして、藍はやっぱりこのガキ大将に恋をして良かったんだと改めて思ったのだった。


 二人で過ごしたその数日後、また蒼汰からメールが来た。

 今度はみんなで花見だそうだ。藍はその一斉送信されてきたメールを見て、ここを離れがたく思っているのは誰しも同じなのかもしれないと思った。

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