見上げた空に 1
デジカメのメモリがもういっぱいになってきていた。きっと、あと残すところ2、3枚が限度だろう。
一番新しいのは、北斗の笑顔と、ボイスレコード機能を使って録音したあの調べだ。
彼と別れる時に、これまでに感じたことのない妙な感覚がしたが、どうしてももうあの町に戻らないといけない気がして、何も言えずに手を振った。
どんどん知っている空気に変わってくる。
聞き覚えのある地名が見えてくる。
そして大学がこの眼に再び映った。
一番はじめに行く場所は決めていた。
蒼汰は高速を降りると、車を停め、1ケ月以上ぶりに携帯の電源を入れた。
前は、自分からかけることなんかできなかったナンバー。
不思議と躊躇いも緊張もなかった。あるのは、声を聞きたい。そんな気持ちだけだ。
三回目のコールが途中で途切れた。
「梅田……くん?」
「お久しぶりです。先輩」
蒼汰はその声を聞いた時、日本中旅しても、この胸を震わせるのに彼女の声に叶う声はないと実感した。
いや、きっと世界中探しても無理だろう。
彼女の声を刻み込むように、蒼汰はひとつ深い息をつくと
「今から会えませんか?」
そっと、これまで何百回も言い損ねてきた言葉を口にした。
「帰って来たの?」
電話の向こうの様子では、自分が旅に出ていたことを知っていたようだ。なんだか気恥ずかしくて蒼汰は前髪をかき回す。
「はい。高速を降りたばっかりです」
「どこに行けば会えるの?」
嬉しい言い方だ。やっぱり、彼女の一言一言が自分にとっては特別だ。
「俺から行きます。どこにいますか?」
「自分の部屋よ」
「今から行きます」
「待ってるわ」
電話をこちらから切る。もっと声を聞いていたい気もしたが、それよりも一刻も早く会いたかった。神崎川が傍にいるかも、なんて不安も今はない。
いてもいなくても同じなのがわかっているから。
そう、何があっても、どうであっても、自分が彼女を好きだ。そう言う気持ちは馬鹿馬鹿しいくらいに変わっていない。
ポケットから鏡を取り出し、自分の顔を見てみる。
いい顔かどうか訊かれれば、ここに来た今も自信を持って肯定できはしないが……
「ま、合格点ギリギリってことで。さて、行くか!」
蒼汰はそう言うと、笑顔になり再びエンジンを振動させ始めたのだった。
曲がり角を曲がって、すぐに彼女の姿が見えた。
その影に胸が高鳴る。痛みと切なさと同時に、喜びが湧き上がる。彼女がここに存在している。それだけで、もう……。
鼻をツンとつくこみ上げる涙を、蒼汰は拭うと、彼女の前で車を停めた。
あの、瞳が自分を見つめている。
相変わらずの細い肩。艶やかな唇。柔らかな光を閉じ込めた髪。
車を降りると、紅は蒼汰を見上げた。
そして、静かに微笑に涙を浮かべ、蒼汰に抱きついた。
「おかえりなさい」
その、頼りのない軽さを、蒼汰はもう見失わないようにしっかり抱きしめた。
「ただいま」
もう一度、やっとスタートラインに立てたのだと思った。
「紅先輩」
「なに?」
瞳が交わるその距離は手の平ほどで、自分の世界すべてが彼女で満ちていた。
蒼汰は、こうやっていても、まだ手に入れる事の出来ないもどかしさと切なさに苦笑いして、唇を重ねたい気持ちの代わりにその冷たい頬を撫でて体を離した。
「俺、絶対、いい作品を作ります。だから、見ていてください」
「梅田く……」
「俺の気持ちは、どうやってもまだ変われないんです。勝負させてください。神崎川先輩と」
蒼汰はそう言いながら、紅の瞳をまっすぐに見つめた。
「でも、私は決めたのよ。彼の子どもを産むって」
「わかっています。それでも、俺は……」
深く息を吸い込む。
もしかしたら、この気持ちを彼女にちゃんと口にするのは初めてかもしれない。なんだか、誓いのような、神聖な気持になっていく。
ゆっくりと、思い全てを吐き出すように息をつくと、蒼汰は微笑んだ。
微笑んで、はっきりと伝えようと思った。心の底からの、この気持ちを。
「俺は、貴女が好きなんです」
「梅田君」
紅は口を両手で押さえた。蒼汰を見つめる目を涙が覆い始める。
「でも、先輩の負担にはなりたくありません。迷惑なら」
「迷惑なわけ、ない」
紅は目を固く瞑ると、零れる涙を隠すように両手で顔を蔽い隠し俯いた。
「私……私……」
震えるか弱い肩。蒼汰には彼女の言わんとしている事はわからなかったが、それでも、迷惑でないのなら、まだ好きでいていいのなら、もうそれで十分だと思った。
今の自分にとっては、あの痛みの代償としては十分すぎるほどの『幸せ』だ。
そっともう一度彼女を抱き寄せると、今度は優しくそれを包んだ。
「俺は、どんな先輩も好きです。せやから」
紅が涙に濡れた顔を上げた。今は、そんな彼女に微笑むしかしてやれることはまだなくて……。
「大切にしてください。先輩の体も、心も」
そう言って、もう一度抱きしめた腕に力を込めた。
蒼汰は紅を部屋まで送ると、そこには上がらずに車に戻った。
旅のクランクアップは彼らと一緒に……そうじゃなきゃ終われないとわかっていた。
「待っててや、マイスイートホーム!マイスイートハニー!!」
蒼汰はそう叫ぶと、親友、青の元へと向かったのだった。
やっと戻ってきたスタートラインから、今度は一歩を踏み出すために…。
家にいるかどうかわからなかったが、どうせ再会するなら感動のサプライズがいいと思った。青はいきなり押しかける自分に、絶対に迷惑そうな顔をするんだろう。奴のそんな顔を想像しただけで笑みが零れた。
蒼次も頼んでしまっていたし、お土産くらいは持っていくべきだろうか。蒼汰は車を青のマンションの駐車場に止めると、後部座席を振り返った。そこには全国各地の土産ものがごちゃごちゃになっている。そのほとんどが、旅先で貰ったものだった。
蒼汰自身は、旅の初めは土産物云々を考える気持ちの余裕はなかったし、後半は金銭的な余裕がなかったからだ。
「ま、えっか」
土産なら、話すことが山ほどある。
蒼汰はバックパックにそれらを詰め込んだりぶら下げたりすると、車を降り「よいしょっ」と背中に背負った。
もうボロボロのバックパック。
これは自分自身への旅土産だ。
「さて。懐かしい仏頂面拝みに行きましょうか」
蒼汰は弾む気持ちを足取りに変えて、階段を駆け上った。