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Apollo  作者: ゆいまる
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終幕の始まり 2

 正直、自分で自分の言動の大胆さに藍は驚いていた。

 先ほど病室で交わした会話をリピートさせ、耳まで真っ赤になる。

 夕暮れの電車内。下校の学生がひしめく、やや汗ばんだ匂いの空気に、秋色がかった斜めの夕陽が射しこむ。赤く染まるその空間でよかったと藍は思った。でないと、今の自分の顔が酷く赤いのが他人にばれてしまうからだ。

「支えになりたいんです」

 もう一度口にしてみて、えも言えぬ浮遊感に、何度も瞬きした。

 あんなたいそれた事を言ってしまったが、蒼汰は重苦しく感じなかっただろうか、今になって不安になってきた。いや、感じていないはずはない。初め彼は自分の申し出に躊躇していた。それはそうだろう。もう半年近く前とはいえ、告白した相手が半ば押しかけで世話をしたいなんて言い出したのだ。引いて当然だろう。

 でも……。

 藍は足もとに伸びる影に目を落とした。真っ赤な世界を切り取った黒い影は、その存在をいやなくらいに強調する。

 あの日、蒼汰の事故を聞いた夜、面接を捨て彼の元に走るのに何の躊躇いもない自分がいた。

 反故にした面接は、大手の出版社で本命の一つ、ようやく勝ち取った最終面接だった。しかしそんなもの、彼の命の前に何の価値もなかった。蒼汰がいなくなるかもしれない。あの恐怖は今でも思い出したくないくらい、恐ろしく、身の置き所を探せないもどかしさと、自分の無力さを痛感した時間だったのだ。

 今振り返ると、それら皆は一つの答えに向かっていたように思う。

 藍はじっとその、普段は意識しない、でも常に自分の傍らにあるはずの影に目を凝らした。

 自分にとって、蒼汰は今でもかけがえのない存在なんだ

 それはもう、否定しようのない感情だった。

 携帯が震え、ハッとする。影から目を離し、慌ててその小さな魔法の箱を取り出した。ストラップが揺れ、名前のつけられない痛みが走る。

 綺麗な横顔を思い出す。

 今日の自分の決意を聞いたら、青は、どういうだろう? 馬鹿な事をって呆れる? いいや、きっと彼なら、黙って理解してくれるはずだ。

 理解者がいる。それを信じられる、それはとても幸せな事なんじゃないだろうか。もし可能なら、今、真っ先に青に会いたかった。

 携帯を開くと、桃からのメールだった。今日の見舞いを知らせていたので、蒼汰の様子を聞く内容だ。

 これからする自分の報告に桃の驚く顔が目に浮かび、藍は小さく笑った。彼女には大分遅れを取ったが、自分もようやくちゃんと踏み出せた気がする。

 蒼汰が自分の想いにこたえなくてもいい。蒼汰が自分を見ないままでもいい。むしろ重荷に感じたりなんかしないでほしい。彼の支えになれる、それはたとえ一時のものでも自分の時間を差し出す以上の価値があり、そして傍に置いてもらうのは自分のわがままなのだから。

「桃ちゃん、好きな人の傍に入れるって、それだけで結構幸せだね」

 小さく小さく呟いてみた。今までは傍にいると辛い、苦しいとばかり思っていた気持ちが、夕陽に染まり色を変えていく。

 先の事はわからない。でも、今をちゃんと抱きしめないと、先になんかいつまでも進めない気がしていた。

 電車の外の風景は近いほどに早く流れ、遠いほどに揺るがない。

 自分を運ぶ時の流れがこの先どんな景色を見せるのだろうか。藍は微かな不安と溢れそうな喜びに溜息を一つついた。


 代わり映えのない毎日は、一日は長く感じても週単位で考えるとあっという間に感じた。

 腕の骨折の方は割に早くに治ったが、足の方がまだまだで、外の景色がすっかり秋色に染まる頃、ようやくリハビリに入っていた。

「ねぇ、梅田君。毎日お見舞いに来てる男の子、モデルか何か?」

 若い看護師の言葉に、蒼汰は大学の初めの頃の事を思い出して苦笑した。

 あの時、神崎川と紅が付き合っていると聞いて、やけになって合コンばかり組んでいた。今思えば微笑ましいばかりだが、そんな時期も確かにあった。

「違いますよ。でも、男前でしょ?」

 毎日の検温を受けながら交わす会話は、今や自分の日常の会話だ。

「そうそう。噂なのよね」

 そういって、その若い看護師は冗談に見せかけたやや期待に潤ませた目をしていた。青の話をする女性は皆、こう言った目をする。彼のモテぶりは相変わらずで、羨ましい限りだ。

 蒼汰はわざと拗ねたふりで唇を突き出す。

「なんで? 俺は?」

 そんな子どもっぽい仕草の蒼汰に看護師は軽く笑って、ちょうど鳴った体温計を蒼汰から受け取った。

「梅田君には彼女いるじゃない」

 手元のバインダーに挟まれている紙に記録しながらそう言う。

 蒼汰ははにかんで

「彼女は友達ですって」

 と答えた。

 看護師はよっぽど噂好きなのだろう、にやりと笑うと

「またまた〜。聞いたわよ? 彼女、本当に毎日来てるんでしょ?」

 と、蒼汰をボールペンでつついた。蒼汰は少々本気ですねながら

「青……その男前も毎日ですよ」

 と弁解の様な言い訳の様な事を口にする。しかし看護師はそんなのを聞いてなんかいない様子で、少し人の悪い笑顔を浮かべた。

「そうなの? でも、彼女でもない子が毎日来るかしら。いいなぁ。若い子はなんか、楽しそうで」

「リハビリは地獄ですけどね」

 早く話を切り上げたくて、話題をそらすと検温が終わったらしく看護師は「はいはい」と隣のベッドに移ってしまった。

 蒼汰はお尻がムズムズするような、妙な感じに顔をしかめて窓の方へと寝返りをうつ。

 窓際のその場所は、入院1カ月目にしてようやく手に入れた特等席だ。ここからは中庭の景色も見る事が出来れ、なかなか清々しかった。

 しかし、なんだか今、その景色もあんまり目に入らない。

 さっき、からかわれた所為だろうか?

 蒼汰は目を凝らして、遠近感のない青い空を見つめた。

 確かに、藍と青は毎日来てくれていた。藍は洗濯や買い物まで面倒を見てくれている。青は青で卒論を手伝ってくれていて、おかげで入院生活は退屈はしていなかったが……。

 藍が彼女?

 馬鹿な。

 蒼汰は目の前の空に幕を下ろすかの様に布団にもぐった。

 彼女の気持ちは知っている。さっきの看護師が言うように、『ただのお友達』という感情をもって毎日ここに来てくれているわけじゃないのもわかっている。でも、じゃ、どうすればいいんだ? 藍の申し出を受けはしたが……。それに……。

 蒼汰は布団の中から小灯台の上の時計を見た。

 最近は二人が来るのが待ち遠しく感じている。いつも午前中にリハビリに行き、帰って来て昼食、その後しばらくして二人は来る。時間は決まって午後二時。わかってるのに、その午後二時がとても遠く、そしていざ来ると時間の経過のいかに早いことか。

「はぁ」

 思わず溜息をついた。

 どうかしてる、きっと入院で寂しいのと退屈なのとで気持ちが弱ってるのだ。だから、きっと彼女の事がこんなに……。

「!」

 蒼汰はそこで思考を強制終了した。

 自分の続けようとしていた言葉に驚いて、思わずはね起きる。その瞬間

「いった〜っ!」

 急な動きに足が悲鳴をあげた。

「? どうかしたのか? 兄ちゃん!」

 蒼汰の絶叫に、同室者達が口々に声をかけてくれる。

 蒼汰はそれに「いいえ。なんでも。大丈夫です」痛みのために単語しか並べられない声でそう言うと、痛みに顔を歪めながら激しく波打ちだした鼓動に混乱していた。

「なんや? なんや?」

 急に顔が熱くなり、自制のきかない鼓動が駆け足で体中を駆け回るような感覚。自分は一体。

 蒼汰は自分の心臓を握る代わりに胸元のシャツを握りしめると、そっと空を見上げた。

 そこにはもう、白い月はなく、新たな季節を伝える柔らかな日差しに揺れる、銀杏の黄色が世界を染めていた。


 リハビリの歩行訓練は想像以上に苦痛を伴った。

 ほんの少し前まで何の意識もしないで歩けていた自分が嘘のように、歩行という行為は非常に大変だった。

 筋力の衰えが一番のネックで、ドラマで見るような穏やかさはリハビリを始めた外科患者になんかなく、毎日体育会系の様なノリの筋トレが待ち受けていた。

「あと十回! 頑張って!」

 負荷のかかった足を上げ下げする蒼汰の隣で藍の声がする。

 藍の、蒼汰の足の動きに合わせてカウントするその横顔は、本人のそれより真剣だ。

「なぁもう、ここらで……」

「だめ! ほら! あと八回!七……よし! 六。あとちょっと!」

 ひたむきなその眼に、蒼汰は抵抗できない。

 その日も痛みと苦痛に折れそうになる気持ちを奮い立たせて、ようやくノルマより少し多めのメニューをこなした。

「あ〜藍ちゃんって、意外に鬼教官やってんな」

「あら、三年も使った女優の事を知らなかったの?」

「指示はしても指示はされへんかったからな」

 二人の会話も、最近心地よい。

 車いすに戻ると、何にも言わないが示し合わせたように自然に藍の手が伸び、それを押した。

 馴染んできた空気は言葉を必要とせず、その息の合うタイミングが少しくすぐったくも嬉しかった。

「青は?」

 最近、青は藍を病院には連れてくるがリハビリには顔を出さない。

 藍は困ったような顔を笑顔に滲ませ

「ん、ここに来ると、ご婦人方に捉まるから、適当なところで時間つぶすって」

 冗談半分の返事をした。もしかして、自分に気をまわしているのかと心配していた蒼汰は納得して苦笑を堪えリハビリ室を見回す。

「あぁ」

 そう言えば、青は一度ここに来た時に、リハビリに来ている、みのもんた風にいえば、昔のお嬢さん方に囲まれて大変な事になっていたんだっけ。

「青のモテぶりは節操があらへんな」

「本人のせいじゃないでしょ」

「ま、そりゃそうや」

 二人は顔を見合わせ小さく笑うと、銀杏の木が中央に据えられた中庭に出た。

 冬を呼ぶ肌に冷たい風が、まだ柔らかな光の束を揺らし、黄金の地面にいくつもの模様を描き出していた。

 車いすでその上を行くと、乾いた葉を踏む車輪がカサカサと心地よい音を立てる。

「綺麗ね。明日から、外でも歩行訓練していいんでしょ? 楽しみだね」

 まるでその銀杏の木に話しかけるようにその枝葉を見上げる藍。蒼汰はその顔を見上げた。

最近、彼女がいる時間をとても大切に感じている。

 一分一秒でもおしいし、無駄にしたくない。

 彼女がいない時間も、ふとした瞬間に彼女を思い出しては心が揺れたり、くすぐったくなる。どんな瞬間も、少しずつだが確実に彼女で埋められて行っていた。

 そう、静かに静かに大地に水が沁み渡っていくような速度で。

「学園祭、この間の週末だったんだけど」

 藍が思い出したように口にすると、まるで懐かしい遠い記憶をたどるような顔で蒼汰の隣にしゃがんだ。

「せやな。どうやった?」

「ん。芦屋さん、頑張ったみたいよ。こんど春日君と二人でお見舞いがてら作品を持って来るって」

「それは楽しみやな」

「私も見たけど、コメディって新鮮。さすが春日君って感じで、特殊技術も凄かったよ」

「奴もこの方面に進むんかな」

「かもね」

 あんなに夢中になったサークルの話なのに、蒼汰の心はどこかそぞろだった。

 再び降りる沈黙。それを、優しい世界が包み込む。

 学園祭。胸の奥にある焦げ付いた痛みがヒリヒリとした。あれからもう一年になるという事か。

 最後に見た紅の横顔。

 むせかえるような金木犀の香り。

 届かなかった想い。

「蒼汰くん」

「ん?」

 穏やかな声がしてその方に首を巡らせると、同じ目線の高さの藍がこちらを見つめていた。紅を想っていた時の様な激しくどうしようもない胸の苦しさはここにはないが、新たに生まれた感情が芽生えはじめているのを、蒼汰は彼女の瞳の中の自分に見た。

「明日、お弁当作ってくるから、ここで歩行訓練した後に三人で食べよう」

「そりゃええな」

「リクエストある?」

 リクエストか……ふと、母親の唐揚げを思い出した。

 もし、一番食べたいものが何かと訊かれたら、気恥ずかしいが母親の唐揚げと答えるかもしれない。

「じゃ、唐揚げ」

「唐揚げね。わかった。青くんほどじゃないけど、私も自炊派だからね。楽しみにしといて」

 明るい笑顔。優しい声。

「がんばろうね」

 そっと藍が自分の手を握った。

 今しっかりと感じられる、このぬくもり。何も掴めなかった自分の手を握ってくれる優しい手。

「おぅ」

 蒼汰は頷くと、黙って銀杏の木を見上げた。

 月の様な彼女に焦がれたような、あんな恋はきっと二度とできない。でも時は確かに流れている。もう、その想いは記憶に変えていかなければいけないのかもしれない。

 変わりゆく季節も、流れゆく雲も、ここにいる微笑みも、今の自分がいるのも、皆、偽りではないのだから。


 昔から月は秋が一番美しいと言われているが、蒼汰はどちらかというと、冬の冴え冴えとした青白い月が好きだった。

 きっと、それは彼女の事を思い出させるからなのだろう。

「どないしてはるやろか」

 呟き、病室の窓から見える月を見上げた。

 新しい気持ちが芽生えても、彼女の事を思い出すたびに疼く胸の痛みはまだあって、このまま、その気持ちに飛び込んでいいか二の足を踏んでいた。

 もちろん、自分が藍を想い始めたからと言って、彼女が答えるかどうかの保証はないが。

 月明かりに輝く銀杏は、昼間と違って控え目な色を夜の闇に揺らしていた。

 風音は耳には届いてこないが、その揺れるさまはざわざわと自分の変わりゆく心を責めているようにも、はやし立てているようにも思えた。

「ええんやろうか」

 呟きは答えを呼ばず、頼りのない戸惑いを露わにするだけだった。

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