魔神、目が覚める
ぬるりと頬がくすぐったい。
目を開けると顔面が迫っている。
顔面は舌を出し、そしてなめ回す。
「うわっ!」
牛だ。
牛のような動物、だろうか。
もの言いたげな瞳で、まったりと低い声を鳴らした。
痩せてはいるが、どっしりと浮き出た筋肉が蹄を支えている。
鞍のようなものを背負い、そこからロープを垂らしている。
飼われている牛だということはひと目でわかるが……。
「おいおい、行き倒れかい」
牛がしゃべった。
……わけではない。
茶毛の陰には、丸っこい男がいた。
「いや、休んでいたら、うたた寝をしてしまって……」
ごきりと肩を回した。
木の根がまだ背中にくっついている感覚をほぐしていく。
犬を連れ――こちらも、犬のような動物といったらいいのか。
仕草は犬のそれだが、妙に筋肉質だ。
牛といい犬といい、微妙に俺の知っているものとはちがう。
それともそういう種類なのだろうか。
「山かい?」
俺に聞いたのか?
丸い男が顎をしゃくって指す。
進もうとしている先、まだ遠い稜線だ。
だいぶ歩いたので、形はくっきりとわかる。
ひときわ高い山、それに続くように山並みが広がっている。
どの山も緑は濃く、ところどころで剥げた肌が見える。
入れば険しい山森であろうことが想像できる。
「山越えかい? それとも下りて来たのかい?」
「あの山を……越えるつもりはないな」
犬が上目遣いで見つめてくる。
丸い男もしげしげとこちらを見つめてくる。
酪農とか牧畜とかだろうか。
上へ下へとなめるように目線を這わしてくる。
動物も動物なら飼い主も飼い主だ。
さすがにじろじろと失礼じゃないか。
俺がなんだ。
不機嫌な顔に気づいたようだ。
「いや、あんたその、珍しい見た目だから」
あわてて手を振る。
「悪い意味じゃないよ。ほら、都会にでもいそうな。なんとかっていう洒落た茶を飲みながら……街では流行ってるんだろう? それで本でも読んでいそうな。旅人には見えなかったから。よく言われないかい?」
からかっているのか?
しかめ面で返すと、牛が困ったような声を伸ばした。
だが、少し安心した。
都会もお茶も本も、この世界にはあるということだ。
さすがに草原や山地が世界の果てまで続くわけではないだろうが。
横日がまぶしい。
夕方が近そうだ。
「この先に、街があるのか? 日が暮れるまでに着くだろうか」
親指で行き先を示す。
丸い男は笑う。
またからかっているのか?
「ははは、今からだとじゅうぶん着くよ。街なんてないがね。あるのは村だ。……うん? あんた、街から来たのかい?」
「まあ……そうだ。ありがとう」
昼寝もいいとこだ。
少しのつもりが二、三時間ほど眠ってしまったようだ。
牛たち……いや、丸い男たちに見送られて歩く。
手ぶらの旅人なんて、さぞ奇妙に思っただろう。
街ではなく村か。
まあ、なにもなかった、となるよりはましだ。
最初に言われたほうへ、素直に行けばよかったかもしれない。
今さら言っても遅いが。
あの馬車も村へ向かっていたことになる。
それとも、村に帰るところだったのか?
ひょっとして、あの少女は村長の娘だったりするんだろうか。
妙に偉そうにしていたし、それはありそうだ。
世間知らずで生意気で小うるさい娘が従者を連れて街に遊びに行った、と。
都会の洗礼を受け自分が田舎者だと気づき恥ずかしくなって逃げ帰った。
それで機嫌がわるかったのかもしれない。
悔しさと情けなさで涙目の帰り道、馬車に酔い吐瀉物をぶちまけた。
今ごろは家に着き、今後は静かに慎ましく生きようと枕を濡らしているに違いない。
我ながら冴えた推理だ。
「おっと……」
足元の草が、石に変わった。
踏んだ先、ここからは山道になるのか。
ごろごろとした岩、くねった上り道、入れそうにない茂み……。
草原の風景が変わった。
大きく削られた谷もある。
山から集まったような水が、遠くごうごうと響いている。
向こうの岩肌から、また別の山につながっている。
頭上で、ばさばさと鳥が飛び立った。
両側に岩石と崖が増えてきた。
それでも、道といえるものはある。
これくらいの傾斜と幅なら、馬車は通れるだろう。
この先に村が……。
「……あるのか?」
不安になってきた。
道を曲がるたびに期待はするが、また同じような岩と茂みだ。
はさまれて山道は続く。
急がないと、日が暮れてしまう。
ぱらぱらと小石が落ちてきた。
岩の上から落ちたようだ。
野生動物もまあ、いるんだろう。
襲われないことを祈る。
レーションメイドをかじりながら思う。
俺も乗り物が欲しい。
分かれ道を見逃したのかもしれない。
そう思ったときだった。
「馬車だ」