第二十幕 接客に注意してください
男は、整理表だけを持って公民館を出た。婦人が話を聞くために出した白紙は、机の上へ残してきた。忘れたわけではない。あれを持って帰れば、自分が話を聞いてもらう側になったような気がした。
男は、聞いてほしかったのではない。殴りに行きたかった。
それでも、整理表は手に残っていた。捨てるには重く、丸めてしまうには、そこに書かれたことは間違っていなかった。
公民館の引き戸は、思ったより軽かった。男は誰かに呼び止められる前に外へ出た。その逃げ方を、体が覚えていた。新卒で入った会社を辞めた日も、似たような歩き方をした。誰かに怒鳴られる前に、誰かに優しくされる前に、先に部屋を出た。背中が軽くなったわけではなかったが、中にいるよりはましだった。楽園へ向かうバスを途中で降りたときも、たぶん似たような顔をしていたのだと思う。
外はまだ明るかった。救済が始まってから、夕方というものは少し頼りなくなった。夜が来ることを怖がる顔は減り、明日が来ることに大きな意味を置く人も少なくなった。それでも公民館の駐車場には、少し冷えたアスファルトや車止めの白い線、自動販売機の明かりや誰かが置き忘れた傘があり、今までと変わらない夕方の匂いがした。
男は整理表を握ったまま、駐輪場の前で足を止めた。
「通過しますか」
背後から声をかけたのは、カヂルグミだった。
「しない」
「帰宅しますか」
「しない」
「では、待機ですか」
「違う」
カヂルグミは公民館の中に名簿を置いてきたらしかったが、胸には相変わらず現地対応の名札をつけていた。
「希望行動を確認します」
「分かる言葉で言え」
少し考えてから、カヂルグミは言い直した。
「暴力的な衝動を感じます。暴れるつもりですか」
「暴れたいんじゃない」
整理表が、男の手の中で音を立てた。
「ぶん殴りたいんだ」
「誰を」
「言わなきゃ分からんか」
「支配構造利用者ですね」
「バカンス組だろ」
男の声が低くなった。
「紙だけ寄越して、本人は来なかった連中だよ」
男がいちばん腹を立てていたのは、管理側から送られてきた最後の補足だった。
家庭内の不和、才能の欠如、怠惰、浪費、依存、不倫、暴力、育児放棄、貧困を理由とした犯罪行為、モラルの欠如、教育機会の不活用、生活設計上の失敗。それらは、当方単独の管理責任ではない。
紙はそう言っていた。書かれたことが全部嘘なら、まだよかった。事実が混ざっていたからこそ、腹が立った。
「管理側本人への殴打希望として記録できます」
「記録するな」
「では、確認に留めます」
「確認もするな」
「ですが、必要です」
男はカヂルグミをにらんだ。
「殴りに行くんだよ」
「正義の行使ですか」
「そういう言い方をするな」
「では、殴打希望ですか」
どちらを言われても腹が立った。大きすぎる言葉を当てられても、小さすぎる言葉へ縮められても、自分の怒りではなくなる気がした。
「連中が悪いことは、間違ってない」
「はい」
「そこは、この紙にも書いてあっただろ」
「はい」
「だから殴りに行く」
「全員ですか」
「全員は無理なんだろ」
「はい」
「だったら一発でいい」
男は整理表を握り直した。
「一発くらい、俺の分があってもいいだろ」
カヂルグミは一拍置いてから言った。
「希望内容が縮小しています」
「何が」
「当初、あなたの希望は、支配構造利用者の殲滅に近いものでした」
「近いんじゃなくて、そうしたかったんだよ」
「現在は、一回分の殴打です」
整理表の端が、男の指の中で折れた。
「小さくなったって言いたいのか」
「はい」
「腹立つな」
「ですが、希望行動の成立確率は上がっています」
男は返事をしなかった。全員ぶっ壊すと言えば、話は世界の大きさにまで広がってしまう。一発殴ると言えば、情けないほど急に、自分の手の中へ戻ってきた。
カヂルグミは男の手元を見た。
「成立する可能性があります」
「何が」
「打撃です」
男は一瞬だけ戸惑いを見せてから口を開いた。
「殴れるってことか」
「保証はできません。ただし、あなたの怒りが別の状態へ移行する速度と、対象地点までの物理的な移動速度を比較する必要があります」
「比較するとどうなる」
「最短ルートを使用すれば、数回の打撃が成立する可能性があります」
「分かる言葉で言え」
「怒っているうちに着けば、何発か殴れるかもしれません」
「殴れるのか?」
「整理表は持参してください」
「なんでだよ」
「照準になります」
「紙が?」
カヂルグミは整理表にある一つの欄を指した。
「あなたが殴るのは、この欄の人物だけです。他は無視してください」
「殴り込みに注意書きがいるのか」
「はい。扉の向こうでは、殴りやすい顔が出る可能性があります」
男は顔を上げた。
「本人か」
「本人性はあります」
「本人かって聞いてるんだよ」
「本人です。ただし、あなたが定義する本人とは違います」
男は遅れて、嫌そうに息を吐いた。
「接客じゃねえか」
カヂルグミは考えた。
「接客に注意してください」
「何に注意すればいい」
「扉を通過した直後から、あなたの怒りは変容を始めます」
「なくなるってことだろ」
「近いです。ただし、即時ではありません。その間に対象本人へ到達できれば、打撃が成立する可能性があります」
「本人じゃないのも出るんだろ」
「本人性はありますが」
カヂルグミは少し間を置いた。
「本人ではありません」
「それを殴ったら」
「失敗です」
男は公民館の方を見た。中ではまだ、何人かが整理表を読んでいるのだろう。婦人は曲がった線の端を押さえ、配布台の女は、あとで読まなかったと言わせないための紙として、整理表をコピーしているかもしれなかった。
「接客ってのは、どんな顔で出る」
「あなたの怒りに適した断罪対象が発生する可能性があります」
「適した?」
「罪深い顔です。謝る顔、怯える顔、あなたが殴りやすい高さにある顔です」
「高さまで合わせるのか」
「殴りやすい高さです」
「それを殴ったら、失敗なんだな」
「あなたの目的に照らせば、そうなります」
カヂルグミはそこで声を落とした。
「蔵は、あなたを妨害しません」
「本人を殴りたいと思う俺を、満たそうとするんだろ」
カヂルグミは少し遅れて答えた。
「はい」
「じゃあ、妨害より悪い」
「今回の目的には不利です」
風が吹き、整理表の端が揺れた。
「じゃあ、どうする」
「最短距離を提示します」
「何の」
「あなたが怒っているうちに、逃走済み支配構造利用者本人へ到達できる可能性が最も高い経路です」
「分かる言葉で言え」
「バカンス組のオリジナルを、怒っているうちに殴りに行く道です」
「最初からそう言え」
「今、条件が揃いました」
「殴れるのか」
「保証はできません」
「一発は」
「保証できません」
「可能性は」
「あります」
男は整理表を見た。線は曲がり、欄もきれいには揃っていなかった。そこに書かれた支配者階級は、世界のすべての不幸を生み出したものではない。それでも、その欄には入っていた。悪いものとして、来なかったものとして、紙だけを寄越したものとして。
「十分だ」
カヂルグミはうなずいた。
「車両を使用します」
「車両?」
カヂルグミが指した駐輪場の奥には、見たことのない形をしたバイクがあった。
低く、長く、妙に黒い。機械としての機嫌が悪そうで、公民館の駐輪場へ置いてよいものには見えなかった。隣には錆びた自転車と、前かごに軍手の入った原付が並んでいる。その間に置かれたバイクは、速そうというより、出される場所を間違えたように見えた。
「世界一速いバイクです」
カヂルグミがそう説明した。
男はしばらく車体を眺めた。横には物々しい輪が取り付けられている。補助輪と言い切るには大きすぎたが、補助輪ではないと言い切るには、あまりにも見た目が補助輪だった。
「補助輪か」
「転倒防止装置です」
「補助輪だろ」
「はい。速度は低下しますが、到達率は上がります」
「本当にいるのか」
「大型自動二輪免許の保有が確認できませんでした」
「そのための補助輪か」
「はい」
男はバイクの周囲を一周した。支配者階級を殴りに行くための、世界一速い補助輪つきバイク。それは本当に馬鹿みたいな乗り物だった。
正義の行使と呼ぶには恥ずかしすぎ、殴打希望と呼ぶには装備が大げさすぎる。接客に注意するためには、たぶん速すぎた。
カヂルグミがバイクの横に置かれた箱を開けると、中にはゴーグルと手袋が入っていた。
「装着してください」
「殴り込みにいるのか」
「目と手を保護します」
「正義感は保護しないのか」
「困難です」
男は少しきつい手袋をはめ、そのあとでゴーグルをつけた。視界の端が狭くなったが、その狭さはありがたかった。今は余計なものが見えにくい方がよかった。
整理表をどう持つか迷っていると、カヂルグミがバイクの前へ透明な板を取り付けた。出前の伝票を挟む道具に少し似ていた。
「これは何だ」
「紙面保持具です」
「整理表をここに入れるのか」
「はい。照準です」
「ナビみたいに使うのか」
「近いです」
「殴り込みのナビが整理表なのか」
「はい」
透明な板へ差し込まれた整理表は、少し歪んで見えた。
支配構造利用者。出席なし。回答あり。
そこだけを見ろと書かれているわけではない。それでも男にとっては、そこだけが目印だった。
男がバイクにまたがると、体が大きく前へ傾いた。ハンドルが遠いのか、自分が怖がっているのかは分からなかった。
「最短距離に誘導します」
カヂルグミが視線を向けた駐輪場の奥に、扉が立っていた。男の扉だった。
資料の奥でも、陰謀の奥でもない。壁一面の紙の先でも、途中で降りたバスの先でも、新卒で辞めた会社の非常口でもなかった。公民館の駐輪場の奥に、最初からそこにあったような顔で立っていた。
「入ったら、すぐ怒りが削られるんだな」
「はい」
「手頃な顔も出る」
「出る可能性があります」
「それを殴ったら」
「失敗です」
「オリジナルには届く可能性は」
「あります」
「保証はできない」
「はい」
「でも、可能性はある」
「あります」
男はゴーグルの奥で目を細め、うなずいた。
「十分だ」
カヂルグミは一歩下がった。
「接客に注意してください」
男はゴーグルの奥で笑った。
「ありがとう」
補助輪が地面を噛み、次の瞬間、バイクが吠えた。
それは公民館の駐車場にあるべき音ではなかった。古い健康診断のお知らせも、使用後は机を拭いてくださいと書かれた紙も、湯呑みも、全部まとめて置いていくような音だった。
男の体は遅れて前へ持っていかれたが、ハンドルは離さなかった。透明な板の中で整理表が震えている。
支配構造利用者。出席なし。回答あり。
そこだけを見ろとは、どこにも書かれていなかった。それでも男は、そこだけを見て扉へ突っ込んだ。
その先に何があったのか、僕は知らない。
カヂルグミは結末を知っているのだろうが、聞くつもりはない。
途中には、男が殴りやすい顔がいくつも並んでいたのかもしれない。男がそれらを無視できたのか、怒りが削ぎ落とされる前にバカンス組のオリジナルへ届いたのか、一発だけでも殴れたのかは分からない。殴ったあとで握手をしたのか、抱擁までしたのかも分からなかった。
分からないままの方がいい気がした。
公民館の駐輪場には、しばらく補助輪の跡が残っていた。
まっすぐではなかったが、扉の方へ向かっていた。




