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キャビネット



「ずいぶんこのドアもくたびれたもんだ」

20年も住めばまあそうだろう。


4LDKの普通の一軒家で、黒い扉の玄関は、

鍵のまわりが悪く、塗装も多々剥げている。


家主は僕ではない。僕は俗にいう子供部屋おじ…お兄さんだ。



部屋に入るなりVOXのアンプの上に置いてあるオーディオプレーヤーを手に取る。


だが電源がつかない。

「充電ねーのか…」


もどかしい。そんなオーディオプレーヤーに餌をくれてやる。


仕方がないのでスマホのミュージックアプリを開き、

ヘッドフォンを挿した。



何回聞いたかわからない。

何回弾いたかわからない。


20年近く前の曲を10年以上聴き続けている。


僕は目を閉じる。



脳裏に浮かぶのはステージではない。

機嫌を損ねた恋人 奈緒の顔だ。



なぜ彼女の顔が浮かぶんだろう。

いやそれは当然の事、

音とは、音だけではなくついでに何かお土産を持ってくる。


流れている曲が去年流行した曲に変わっていた。

変わっていることに気づかなかった。



プレイリストは僕の曲が3割、

奈緒の曲が7割、

すっかり彼女に領域を侵されている。


何だっけこの曲名は、確か…

音を頼りに記憶の糸をたどる。



「またスターフルーツ聴いてるのかよ」


昨今話題のバンドだ。

先月も今月もスタフルは新曲をリリースした。


今年の流行ソングランキングの5割はスタフルだ。


「いいでしょ?スタフルの夜明けの咆哮」


思い出した。この曲の名前は夜明けの咆哮だ。

僕は2番目のBメロが流れたところで次の曲にした。


「つまんな…」

こんなセリフをまたつぶやきながら飛ばした。



このセリフで奈緒のご機嫌を損ねてしまったことは10回を超える。


僕の音楽の趣味嗜好のせいで大切な人を何度も傷つけてしまった。


だから僕は音楽が大嫌いになってしまったんだ。

いや、音楽と向き合えない僕が本当にみじめで嫌になってしまった。




「山岡、ちょっち」

へい と課長に手招きされるがまま隣に立つ。


「実はよ…」

いつもにもまして真剣な顔をしている…

いよいよ左遷だろうか…


「娘がな?ギターやりたいらしいんだ。お前確か弾けただろ?」

「な、なんだそんな話っすか」


韓国に行け、中国に行け。

とでも言われるのかと思った。


「俺さ、ネットで調べてみたんだけど、恐ろしく高いんだな」


そういわれても困る。

楽器の値段の金銭感覚は高校生時代に狂っているから。


「どんなのがいいか、ってことですよね?」

課長は笑顔でうんうんと頷く。


「ん~娘さん楽器経験はありますか?」

「ゼーロー!」


このパターンが一番困るんだ。


「課長、何か月ぐらいお小遣い削れますか」

「おいおい、そんなたけーのかよ!」


説明しすぎないように一呼吸する。


「エレキ、アコギ、クラシック タイプだけでもこれだけあります」


課長が頷く。普段は僕のプレゼンなんか聞きやしないのに。


「まずはどのタイプが欲しいか決まったらまた声かけてください。

動画で観れますから。それを参考に」


とても気分がいい。


「ちなみに、長くやりたいなら最初はアコギからやるのをおススメします」

「さ、最初はってどういうことだよ」


課長、音楽ってのはそういうもんです。


「このぐらいは覚悟してください」


僕はピースした。


「に、二万?二本?え、どっちなの山岡くん?」


「じゃ、今日は納品あるんで客先行ってきまーす」


2万でも2本でもない。20万覚悟しろってことだ。


僕はまた他人に、自分の音楽を押し付けてしまった。



蜃気楼のように揺れるアスファルト。

その視界に酔ったのかわからないが、

セミの歌声は不規則かつ元気がない。


社会人の夏休み、盆休みが明日から始まる。


子供の頃の夏休みと明確に違う事がいくつかあるが、

一番は蚊取り線香を焚かなくなったことだ。


わかるよ、こんな暑い中を飛び回る事を止めたお前たちは賢い。

だがこんな中、世間は車に乗って飛行機に乗って電車に乗って、

項垂れながら人ごみに消えていこうとするんだ。


「山岡、今日は電車か?」


「ええ、一応」


駅から歩いて容赦なく汗が流れる。


「じゃあ今日はお前もいくよな」


そんな汗を夜になったら黄金のシャワーで洗い流す。


「そのための電車通勤ですよ課長」


この汗をタオルで拭くのが勿体なく感じるが、

シャワーまでまだまだまだ時間がある。


そんな汗だくで仕事をするわけにもいかない。


お盆前の最終日は、企業によってはすでにお休みのところが結構ある。

うちの会社も田舎に帰る人は一足先に夏休みである。


電話の少ないオフィスはとてもいい。

いつもは2時間かかる仕事が30分ほどで終わってしまう。


「課長、毎月こんな日が1日でもあれば生産性良くなるんじゃないっすかね」


課長はうんうんと首を縦に振る。


だが会社のカレンダーを決められるような権限は課長にはない。


棚卸、長期休暇前、休日出勤 少ないからこそのありがたみだろう。



消化試合を済ませて足を運ぶ。


一件目は大衆居酒屋だ。


「かんぱーい!」

その一声でシャワーを浴びる。


待っていたこの時を、

上からも下からも熱せられたこの身体の熱が冷めていく。


これだからやめられない。


二杯目に注がれたそれを飲んでいると、

課長が話しかけてきた。


「山岡、この間のギターの件だけどよ」

ここで喋ってもまた同じ話を休み明けにするんだろうなぁなんて思う。


「アコギからやってみたいと言うんだ。どうすればいい?」

よし、それでいい。


「いいですね、いくつかアドバイスしますよ。まずはメーカー」


ま、後でメール送るんだけど一応説明する。


「ほーん」


予想通りのリアクションをしてくる。


「次に、大事なのは弦です。初心者なので細めの奴、エレキ用でもいいので、

細いの使ってください」

「え?弦?種類とかあんの??」


ま、これは僕の在庫をくれてもいいか。


「ま、後は買ったら、僕が弾きやすいようにセッティングしてあげますよ」


手を上げてレモンサワーを頼んだ。



まあたまには二件目も付き合うか、明日予定無いし。

こうして千鳥足で向かうのはただのスナック。


一番最初にスナックに連れていかれた時は物凄く緊張をした。


「社会人としての洗礼を受けるのだろうか…」

などと期待と不安を募らせてお金の中身を見ながら入った物だ。


だが、その不安は数分で吹き飛んだ。

ただただやっすい焼酎を注がれ、マイクロフォンでアルコールチェックをするだけ。

いや、店によるのかもしれないが、僕が行ったことあるのはこんな店しかない。


「みんな若いね~」

僕の母の前後5歳ぐらいだろうか、

この店を切り盛りしているボスだろうか?


注がれた焼酎を水で割る。

うん。美味しくない。


僕は人とあまり話すのが好きじゃない。


「でな?酔っぱらってトイレにスマホ落としてげろ吐いて」

よく赤裸々にそんな話をできるな、係長。


その横でげらげら笑うのは僕だ。


話すのは好きじゃないが、話を聞くのは好きだ。

だって、普段は仕事の話しかしない係長が酒を飲むとこれだ。


正直、酒の席は嫌いじゃないほうだ。


「ほら若いの~歌いなよ」

ボスから渡された。アルコールチェックの時間か。


参加メンバーを見てデンモクを操作する。

キーの高いことで有名な曲を入れる。

もちろん原曲キーだ。


左手でマイクを握り、右手の人差し指で右耳をふさぐ。


歌いだし、周りから 「おおお」 と声が上がる。


最大音域hiCを超えるその歌を最後まで歌いきる。

点数は90を超えている。


「山岡、お前スゲーな!」


ほとんど外していないキー、

出来る限りのビブラート、

各パートで強弱をつける。

90を超えるのは当たり前の結果だ。


すげーな、そう言われるが、

2、3曲も歌うと、その評価は変わる。

周りが引いているというか、リアクションが無に変わる。


聞かせられるが惹かせることはできない。

ほらね、しょせん僕の歌声はこの程度なんだ。


楽しいのか、楽しくないのか、わからない。

この3曲を最後に僕はマイクロフォンから手を遠ざけた。



タクシーから降りる。

家まで500mくらいか。


鼻にかかる土臭い木の香り、

この匂いを目印に虫たちは飛ぶのだろうか。


450mほど鼻歌を歌いながら僕は歩いた。


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