66.結実
一切寄り道をすることなく自室に戻った。
白い無機質な壁に、色とりどりの家具。
形の合わない箱に無理やり押し詰めたようなそれは、俺が部屋の明かりを付けただけでやけに浮き上がって見えた。
今朝もエリアと一緒に朝食をとったテーブルをなぞる。
指先に残る瞬間が生々しくて、椅子に腰を落とした。
時計の音と、呼吸音だけが響く。
神務随行官。
舌の奥で転がす。
耳障りの悪い言葉。
意味なんて、考えたところでどうにもならない。
カマエルさんの口から明かされたエリアの過去。
――聞くべきなのだろうか。
なぜ俺の手を引っ張ったのか。
なぜ俺を助けたのか。
"あのまま"食べていたら、どうなっていたのか。
考えようとするほど輪郭がぼやける。
強く息を吸いこむ。
肺がきりりと痛んで、吐き出した。
違う。
エリアの優しさのおかげで俺たちは出会った。
小さな糸が絡み合って今に繋がっている。
だったら、それでいいはず。
聞くべきじゃない。
聞いたところで、何が変わる。
エリアは優しくて、俺はそれを受け取るだけでいい。
それで十分だ。
十分なはずだ。
指先に力が入る。
気づけば、テーブルの縁を強く握りしめていた。
もしも。
もしもあの時、エリアが手を引かなかったら。
俺は――
そこで思考が止まる。
考えるな。
ゆっくりと指の力を抜いた。
深く息を吐く。
そんな"もしも"に意味はない。
今ここにあるものだけでいい。
エリアがいて、俺がいる。
それだけでいい。
それ以上は望まない。
だからこそ。
エリアが笑顔でいられるように、俺は何ができるのか。それだけを考えればいい。
思い出せ。
エリアは、"どんな時"に笑っていた?
初めて俺の手を引っ張ってくれた時。
赤くて、つやつやで、みずみずしい。
俺の特別なりんごを褒めてくれたエリア。
アップルパイにして、一緒に食べた。
二人で料理をして、何度も食卓を囲んだ。
俺が天界で1人でも生きられるようになり、白に焦がれた時も。
エリアの軍帽を、いたずらに下げた時も。
彼女は、無理をしてでも俺の前では笑っていた。
……だから。
エリアが俺に心を開いてくれた瞬間の、笑顔。
思いが通じあったと錯覚するほどの高揚。
あの顔を、もう一度。
あわよくば、何度でも。
なら俺は――
「――トオル!」
扉が開かれた。
音を立て、壊れそうなほど。
思考が止まる。
目線の先、肩で息をする彼女。
汗で張り付く前髪を気にすることなく、俺の元へと駆け寄った。賑やかな春風の訪れと相違するように、ゆっくりと扉は閉まる。
俺は無意識に立ち上がった。
上目遣いのエリア。
垂れる目尻が俺の心を溶かす。
「ただいま!」
「おかえり、エリア」
「ただいま!トオル、トオル、あのね」
距離が縮まる。
俺と同じ、石鹸の香り。
優しく二人を包む、心地の良い香り。
彼女の揺れる瞳の中に自分が見えた。
思わず微笑む。
「なぁに」
溶ける。
「あのね!僕――!」
さらに、また。
「僕、トオルが!」
青色の自分が、笑った。
「トオルが好き!」
溢れる。
止まらない。
この顔を、また。
夕日に照らされたエリア。
頬を一層赤く染め上げた。
ゆっくりとその熱が伝わってくる。
飛び出そうになる言葉。
でもそれを何とか食い止めるように、彼女の手に触れた。人差し指、中指、順番に。
エリアはここにいると確かめる。
全ての指が交互に繋がる。
薄い膜が張られた彼女の瞳に映るように、繋がれた手を胸まであげた。
「……俺も」
大切に閉まっていた言葉を、ようやく取り出す。
息を吸い込んだ。
これで、離れない。
「俺も、ずっと前からエリアが好きだよ」
心臓の鼓動が聞こえる。
彼女は表情をさらに緩め、笑う。
この気持ちは、一体いつからあったのか。
よく思い出せない。
でも、ずっとエリアは、俺にとって
特別な――
「嬉しい!」
離れた手。
瞬間冷たくなったはずなのに、再び温もりに包まれる。
背中に腕が回った。
小さくて細い、彼女の腕。
笑い声が肩にかかって思わず身を捩る。
「やだ、もうちょっと」
さらに強く、締め付けられた。
「エリア」
抱きしめられてる。
気づいて、体温が上がる。
初めて触れる、柔い感触。
行き場を失った指先がわずかに動いて、固まる。
……どうすれば。
分からない。
それでも。
ぎこちなく、ゆっくりと腕を持ち上げる。
耳元で鳴り響く自分の鼓動が痛い。
触れるか触れないかの距離。
少しだけ迷って。
そっと、背中に回した。
軽く、触れるだけ。
「へへ、あったかい」
胸の奥がじわりと熱を持つ。
エリアは幸せそうに笑う。
俺の肩がそれを吸い込んで、顔が見えないというのに満たされる。
あまりの温かさに目を閉じた。
「ずっと、そばにいるよ」
「嬉しい。ずっと、ずっとだよ」
指先に力が入った。
いつのまにか力いっぱい彼女の体を抱きしめている。
何度でも青い瞳に照らされていたい。
ずっとそばに。
ずっと、ずっと。
君が俺の隣で笑ってくれるなら。
俺は、それだけで。
それだけでいい。
他に何も望まない。
そうしていれば、エリアは笑ってくれるから。




