恋詩―LUV SONG―
本話は二章と三章の間の幕間であり、時系列的には本編開始時よりも以前の話となります。前話の直接の続きは次話からとなります。
肌を照らす日差しが眩しく、温かい。
色褪せた紅茶の葉のような、古ぼけた建造物の壁面へと背を預け、この街の保安組織ヴェノムの隊長、響=ムラサメは、近くの食堂の入口に設置されている大きな置き時計を眺める。
愛らしいのか不気味なのかわからない子供の人形に組み込まれた、開店や料理の焼き上がる時間をけたたましいベルで伝えるそれ。この街で働く人間達の、憩いの場所の“象徴”たるその時計が示す時刻は、午前十一時三十五分。
――待ち合わせの時間には、まだ五分程の猶予がある。
この食堂でかつて働いていた、待ち人の姿はまだ見えない。
(物好きな娘だ……)
胸の内で呟き、響は抱えた袋一杯に詰め込まれた林檎を一つ取り出し、口元に運ぶ。
確かに“不慣れ”ではあるが、“お守り”のいる年齢じゃない。そうは思いつつも、時計の時刻を気にしている自分も確かに認識でき、響は自嘲の溜息を吐く。そして、
「あれ? 買い食い? おぎょーぎ悪いゾ?」
掛けられた声に、林檎に噛み付こうとした歯が空振る。
気づけば、すぐ側に待ち人の、彼女の青い瞳があった。
「初お給料日おめでとう! ごめんね、少し御粧ししてたら、遅くなっちゃった」
サファイア・モルゲン。
陽に煌めく白い肌と赤い髪が目に眩しい。
保安組織の隊長に就任した響の、この街での初の“買い物”に付き合うと宣言し、待ち合わせ場所と時間を勝手に取り決めた彼女は、普段通りの明朗快活な笑みとともに、そこに立っていた。
華やかな自作のイラストが描かれたTシャツにショートパンツといったラフな、活動的な普段の服装とは違い、響の知らない、響にとって名称も定かでない、少しふわっとした可憐な印象のある衣服を身に纏ったその姿は、普段とはまた異なる輝きを、響の瞳に示す。
纏う服の白の中で、彼女の赤い髪が花びらのように映え、咲く笑顔はまさしく花だった。
「どう? 一応、色男さんの案内役を務めますので、とっておきのを出してきたんだよ? 似合ってる…カナ?」
「機能性が損なわれている」
朴訥極まる返答。だが、わりと予想通りの反応だったのか、サファイアはほんの少し頬をふくらませただけだった。しかし、
「……だが、お前らしいな。お前らしい、好ましい“似合い方”だ」
綺麗な、花だ。
続けて発せられたそんな言葉には、たまらず頬を真っ赤にしてスタスタと前に歩き始めてしまった。
わからない。この少女はわからないところだらけだ。
その反応に、響はそう半ば呆然としながら、彼女の後を追った。
「響クンはさ、自分がイケメンで、無自覚に甘い事言ってるって、ちょっと自覚したほうがいいよ!」
「意味がわからん……」
「ボク、いろいろ心配になってきたよ……」
プリプリと怒り脱力するサファイアを理解できず、溜息を吐く響に、サファイアもまた溜息を吐く。
「……第一、今日の申し出も馬鹿にしすぎだ。俺だって金の使い方くらいは知ってる」
そう語る響の顔を、サファイアの青の瞳が、ジーッと見つめる。
「放っておいたら、キミは全部、果物に使っちゃうでしょ?」
「そ、そんな訳ないだろ……」
口をもごもごとさせて否定しながらも、響の顔には見事に“何故、わかるんだ……”と書いてあった。全部、つぎ込むことはなかったが、袋一杯に詰め込まれた林檎は、その“危険性”を十分に察知させて余りある情報である。
「今度、アップルパイを焼いてあげるよ、意外と甘党なんだよね?」
「……た、ただ珍しいだけだ。別に甘いものが好きなわけじゃない」
そう言って響は口を尖らせると、通りかかった店の前に陳列されていたジャムの瓶を手にとる。イチゴ、オレンジ、ブルーベリー。本人は気付いていないのだろうが、瓶の中のジャムの煌きを見る響の瞳は爛々と輝いている。
「これは美味いがな。保存食だろう? 俺にだってそれくらい――」
また、サファイアの青の瞳が、ジーッと響の顔を見つめる。
「……ジャムは直接食べるものじゃないよ?」
「ッ!?」
驚愕のあまり、響の指から滑り落ちた瓶をサファイアの掌がキャッチする。
「もう! ボクは、キミの健康も心配になってきたよ」
和やかな、これまで感じたことがないほどに、穏やかな時間だった。
それから、二人は様々な店を巡った。
サファイアが響に必要なものを尋ね、案内するという流れの中、響はまた多くの、戦闘以外の、“人間”としての知識を得た。
この街に来て二ヶ月、馴染み始めてはきたが、日々触れるものどれもが眩しく、新鮮だった。
サファイアは手際よく品物を選ぶと、響から預かった金銭で支払いを代行。持ち歩くには多すぎる買った品々を一時的に、各店で保管してもらえるように交渉もしてくれた。
その事が響にまた人の知恵を、気遣いを教えてくれる。
彼女はいつも、響に新たな景色を見せてくれる。そして、響の世界に新たな色彩を与えてくれる。“蒼”というその名の通りに。だが、だからこそ、
「おい」
「え?」
響には、はっきりとさせなければいけない事があった。
「俺の買い物に付き合うかわりに、色々買ってもらうって言ってただろう。何か買わないのか?」
「欲しいものがあったら言うよ。ちょっと、考え中なんだ」
「………」
下手な嘘だ、と響は思う。
最初に、自分で林檎を買った際にも感じたことがある。
この大量の果実は買い込んだというよりも、実際のところは、”強化兵士“の触ったものなど売り物にならないから、と押し付けられた部分もある。
この街の住民達の”強化兵士“に対する嫌悪は相当なものだ。
この娘は、そんな街で“強化兵士”である響が、不自由なく買い物が出来る様、付き合ってくれているのだ。
いや、それだけではない。
彼女は時に、響を連れ回すようなフリをしながら、生活に必要なものを、人間が日常生活で必要とするものを、常識とするものを、響に伝えてくれている。
その報酬など、口にするだけで考えてもいないのだろう。
「損な性分だな」
「え……?」
響の呟きに、サファイアの澄んだ瞳が振り向き、赤い髪が視界を揺れる。
「こうやって人を助けて生きていくのか。人を蹴落として生きていく時代で。この街の外で、そんな奴は真っ先に死んだ。真っ先に」
あえて冷たい声音を作り、響はサファイアへと言葉を投げる。
「もう俺には関わらないほうがいい。お前の気持ちは有難いが、その優しさは、気持ちは他の奴に使ってやってくれ。俺は、そういう奴には“危険”すぎる」
遠ざけねばならなかった。彼女には生きていて欲しかった。幸せであって欲しかった。
この街の外で、自分という“魔獣”と関わったばかりに死んでいった者達と同じ道は歩ませたくなかった。そして、
「助けられてないよ」
「何……?」
応える彼女の声は、響が耳を疑うほどに、昏く、沈んでいた。
「ボクは、助けられなかった。助けられなかったんだ。あの時、あの日」
自分の表情を隠すように背を向け、告げる彼女の声は泣いている、ように聞こえた。
「だから、助けたいんだ。ボクの好きな人達はみんな」
それは胸を掻き毟られるような声音だった。その声音に響は、
「ちょっ……」
気付けば、サファイアの腕を取り、歩き出していた。
響自身、思いもしなかった“衝動”であった。
「きょ、響クン!? ど、どこ行くの?」
お前の好きなところだ。
そうぶっきらぼうに告げて、響は歩調を早める。
「助かってる」
「え?」
「俺は助かってる。だからそんな表情するな」
自分がそう告げた時の、サファイアの表情を響は見ていない。
彼の言葉は、彼女にとって救いであっただろうか。あるいは、呪いであっただろうか。
「俺の礼だ。何でもいい、選んでくれ」
響がサファイアを連れてきたのは、書物が多く売られている雑貨店であった。
サファイアが書物を収集しているのは、響も把握していた。
そういったものに価値を見いだせない戦場に生きてきた響にとって、殊更、印象的な趣味だったのかもしれない。
「ふふふ、アクセサリーとか洋服じゃなく、本、なんだ」
……! もしやとんでもない間違いをしたのではないか、響の頬に朱が浮かぶ。
「ありがとう。嬉しいよ、すごく」
だが、間違いはなかった。
「ボクは、すっごく嬉しい! 嬉しいんだ」
響の気持ちは、確かに彼女に届いていた。
それを確信させる眩しい、無邪気な笑みであった。
帰り道は、少し肌寒かった。
日も沈みかけており、人通りは少なくなってきている。
もう少しで橋に着く。そこを堺に帰り道は分かれる。
響の住む隊員寮と、サファイアの自宅への道は。
「名残……惜しいな」
サファイアの呟きを響も特に否定しなかった。
本来なら、数時間前に告げたように、言葉を投げるべきだった。
“俺にはもう関わらないほうがいい”と。いつものように、淡々と。
だが、この時、響の胸には、そうすることへの“抵抗”が確かにあった。
「……サファイア」
「ん?」
「お前が、俺を、人を助けるのは、過去に助けられなかった人間のためか?」
だから、寂しげに歩を進めるサファイアに、別の言葉を投げる。知りたい、事だった。
「……そうなのかもしれない。ボクは、弱い人間だから、後悔なのかな……あんな事は、二度と嫌だから、ボクは――でもね」
サファイアの足が止まり、その瞳が不意に響の顔を見つめる。
「ボクが、響クンを助けるのは、そんな気持ちのせいだけじゃないよ」
「……?」
つられるように響の足も止まり、二人の間に沈黙が流れる。
「響クン」
沈黙を破ったのは、サファイアだった。
「ある。欲しいもの、お礼」
拳はきゅっと握られ、瞳は潤んでいた。頬は、響が抱える袋に入れられている林檎のように真っ赤になっていた。そして、
「ボクの家に一緒に住もう」
「なっ……」
告げられた言葉に、響は絶句した。
「もともと、食堂のヘネさんと一緒に住んでた家だから、ボク一人だとちょっと広いんだよね。だから――」
「ふざけるなッ!」
吠えていた。響の腕にかかえられていた袋は地面へと投げ捨てられ、その両手がサファイアの両肩を軋むほどに握り締める。
「お前、自分で何を言っているのか、わかってるのか!? 俺は“強化兵士”、いや、只の、マトモな“強化兵士”じゃない。そんな奴と――」
言葉を吐くごとに、硝子の破片が喉を、胸を裂いていくようだった。
彼女への拒絶が、痛みとなって響の内に残ってゆくようだった。
「猛獣の檻に入って自分で鍵を閉めるような真似はよせ。俺は、お前達と……住む世界が違うんだ」
「そうかもしれない。響クンとの距離は、すごく遠いのかもしれない。でも、だから側にいたい。だから一緒にいたい。だから――もっと知りたい。響クンの事が、好きだから」
だが、サファイアは踏み込んだ。突き放すようにする響の腕を払い、その胸へと飛び込んでいた。彼女の温もりが、響の内なる痛みを飲み込んでゆく――。
「好きになっちゃったんだよ、響クンは魔獣なんかじゃない、素敵な人だから。優しくて強い人だから」
「だが、俺は――」
もう突き放すことも、言葉を続けることも響にはできなかった。
そうだ。彼女の言葉はそのまま自分の言葉だ。例え、自分が魔獣であったとしても、サファイア・モルゲンがサファイア・モルゲンである以上、自分の気持ちもまた、偽り続けられるものではない。
もう、抑えられる想いではないことは、響自身、とうに認識していた。
自分のような魔獣が人を愛してもよいのか、自分がこれほどまでに、人に近付いてよいのか、葛藤は絶えず胸のなかに渦巻いている。
だが、この感情は、この想いは無視し続けるには強過ぎた。
その身に渦巻く“戦闘衝動”を凌駕する程に。
「後悔するぞ」
「してもいい」
響の赤の瞳のなかで、サファイアの青の瞳が溶けてゆく。
「死んでもか」
「……キミと、生きたい」
気付いた時、唇が重なっていた。
もう戻れない。後戻りはできない。
だが、この瞬間の二人に後悔などなかった。
残酷な世界で、酷薄な時代で、巡り会えた事を神に感謝すらしていた。
互いの存在は、まだ先の見えぬ”運命”の道筋を示す”灯火”。
そう、信じていた。そう――願っていた。
そして、物語は一年後の“その日”へと戻る――。
NEXT⇒第三章 第01話 突破口