英雄特別篇Ⅵ 星空―”message”―
#EX6
「実質、”負け”かな、これは……」
男の唇から零れた呟きが、誰に聴き取られる事もなく、空間に吸い込まれていく。
心なしか相棒の淹れた珈琲の味が酷く苦い。
宇宙船の外部の様子を映したモニターを眺めながら、宇宙刑事の男は、その眉間の皺を色濃くする。
”鮮血神殿”でのヨゼフ達との戦闘から数時間。
”畏敬の赤”が煌々と流れる”観念世界”に戻ってはきたが、あの”鮮血神殿”に再突入する手立ての割り出しはおろか、その位置の特定すら、まだ、見通しが付かない状態だった。
あの空間は特殊過ぎる。
恐らく、ヨゼフの心象風景……彼の精神と深く結び付いたあの空間は、ヨゼフが文字通り、”心を開かない”限り、発見も追跡も困難だろう。
それが、宇宙船の人工知能と連動した相棒と、彼自身が出した結論だった。
少女の生命、その安全を最優先事項とし、撤退した判断に誤りはないと信じている。
だが、”観念世界”に自らの拠点を作り、”鮮血神殿”に身を顰めたヨゼフと接触する術は現状、先程のように、”向こう側から接触を試みた”場合に限られる。
”創世石”という”座標”が艦内に戻ったいま、次元跳躍という手段も使えない。
こうなれば、例え”罠”であっても招かれね限り、敵の懐に飛び込む術はないのだ。
そして、その”罠”がもし、再び彼女を狙った時――彼女は抗えるのか。
自分は彼女を護り切り、ヨゼフを斃す事が出来るのか……?
苦渋が男の拳を覆う、グローブを軋ませる。
「……彼女の様子はどうだ? ミリー」
【……だいぶまいってるな。この宇宙船の医療設備で身体の怪我は治癒しているけれど……”心”がだいぶ弱ってる】
宇宙船のコンピューターと自身の人工知能を連動させ、観念世界の探索を続けていた、鸚鵡型のサポートドロイド、ミリーは男の肩にとまり、ドロイドらしからぬ感傷的な音声を響かせる。
【……無理もない。同じ”適正者”であるヨゼフに完敗した上に、ヨゼフから彼女が地上に置いてきた”現実”を、無理矢理、共有させられたみたいだからね。——彼女も”創世石”に選ばれるだけの”業”を持った子だ。地上にどんな過酷な”現実”を残して来ていたとしても不思議じゃない】
その詳細を彼等は識る事が出来ないが、想像する事は出来る。
そもそも生身で”観念世界”を漂流するという事態に到る状況が、”並み”のものであるはずがない。
恐らく彼女の世界でも、”世界そのものの在り方を左右するような”事態が発生し、その中心に彼女は立っていたのだろう。
気丈に微笑んではいても、度重なる事態に張り詰めた精神は、疲弊し、消耗しきっていたはずだ。
【でも、そんな気丈な子だけど、やっぱりまだ若い――普通の女の子だ。傷つくし、心だって折れる。こんな事に、こんな”僕らの世界の不始末”に巻き込まれて、両の足で立っていた事自体、不思議なくらいだったのかもしれない……】
「……そうだな。お前の言う通りだ」
だが、
「彼女は……此処で、一人な訳じゃない。そうだろ?」
男はそう応えると、自らの”戦場”である”観念世界”から、少女が滞在する医務室へとその目線を移し、年季の入った革のブーツを前へと進めていた。
医務室に閉じ籠り、塞ぎ込んでいる、青い瞳の少女の下へと――。
「行ってやってくれ、”…………”。彼女にはきっと、”英雄”の言葉が必要だ」
※※※
「……ギィ太くん、まだ目が覚めないね……」
細い指が、友人の眠る医療ポッド、そのガラスをなぞる。
宇宙船の医務室の中、医療ポッドの液体の中で眠り続ける友人を見つめ、サファイアは物憂げな声を響かせていた。
当然の如く応える声はなく、規則正しく響く医療機器の電子音だけが、少女の耳朶を撫でる。
……孤独だった。
愛する人も、可愛い弟も、親愛なる仲間も、此処にはいない。
これまで、彼女は無我夢中で駆けてきた。走り続けた先に、この事態を覆す”解答”があるはずだと。皆を救う術があるはずだと。脇目も振らずに走り続けてきた。
自らの青い瞳に映る、その"大切な人達"を護り、助ける為に。
だけど、あのヨゼフとの”共繋”の中で見た”映像”が、”現実”が彼女を立ち止まらせてしまった。
(ごめん、響……! ごめん、麗句さん……!)
脳裏に焼き付いた映像が、思考から離れない。
今まで両脚に絡み付く度に、遮二無二振り切って来た自身への疑念。
それが”確信”となって、少女の胸に根付いてしまっていた。
……あれからだいぶ時間が経ってしまっている。
元居た”現実”に戻る術もなく、ただ無為に時間を過ごすしかない現実が、彼女の心をより蝕み、その表情を沈鬱なものへと変えていた。
もしかしたら、自分が愛する人達はもう――、
「まるで、世界が終わっちまったような顔だな、お嬢さん」
「……!」
その時だった。
暗鬱とした思考の迷路に入り込み、”絶望”という袋小路へと辿り着きつつあった少女の耳に、草木が生い茂る雄大な大地を想起させる太い声が響く。
振り向けばそこに、自分を怪物から救った英雄の、男の顔があった。
「これから俺達は”世界を救う”っていうのに」
「刑事、さん……」
己を気遣い、励ます男の言葉に、サファイアは曖昧な笑みを返す事しかできなかった。
それが、精一杯だった。
心配をかけたくないが、自分自身を取り繕う気力もない。
握り締めた手はどうしようもなく震え、喉から搾り出した声は自分でも驚く程に掠れていた。
——こんなにも、”本当の自分”は弱かったんだ。
張り詰めた糸が切れ、”創世石”の適正者でなく、ただ十代の少女としてここに在る自分は、あまりにも小さく、みじめだった。
そして、
「……”時間”の事なら、気にしなくていい」
「え……?」
少女の憔悴、その苦悩を察してか、男は彼女の肩を叩き、告げる。
それは、宇宙警察機構と彼が数年を要して、解明した、この”観念世界”に関する”情報”であった。
「君がこの”観念世界”での漂流を開始した時点で、”現実世界”の時間軸とは切り離されている。君が見た、観測した”現実”も、時間を超越する特性を持った”創世石”が切り取った”一場面”に過ぎないんだ。その状況がここの時間の経過で進行する事はないし、その先にある”結末”が確定する事もない。そうだ」
”その結末は、まだ誰も観測していないし、観測できない”。
男は断言し、少女の肩に乗せた手へと力を込める。
「信じるんだ。君が愛し、君を慕う人達の力を、その心を。彼等が到る結末が悪いものであるはずがないと」
「…………」
男の言葉はどこまでも力強く、温かい。
信頼に足る真摯な響きに満ちていた。
だけど、
「でも……」
少女には自分が赦せない。
少女は、自分への疑念を消す事が出来ない。
脳裏に焼き付いたあの”現実”から――目を逸らす事が出来ない。
「救え、なかった……」
「え……?」
掠れた声が、絶望を紡ぐ。
「でも、救えなかった……救えなかったんです! ボクが伸ばした手は、響の、麗句さんの手を掴めたのかもしれない……! けど、本当の意味で助ける事は出来なかった。出来てなかったんだ……!」
ボクの、ボクなんかのせいで二人は……!
思わず顔を覆い隠した両手は、青い瞳から溢れ出た涙で濡れていた。
自分の為に、自分が残した想いの為に、その為に二人はその生命を……、
その”現実”は他者を慈しみ、想いを繋ぐ事で生きてきた少女にとって、あまりに苛酷に過ぎた。
「それは、アイツが……ヨゼフが”人類に絶望した理由”、そのものかもしれないな……」
「え……?」
男の瞳に、過去の闘いの”悲しみ”が過ぎり、その長身が座り込んだ少女の目線まで腰を下ろす。
「確かに人間の想いは複雑だ。例え、それが善意であっても結果的に相手を引き裂く事がある。しかし、君の想いが繋がった先に、”不幸”があるとは、俺にはどうしても思えない」
青の瞳を真っ直ぐに見据え、男は告げる。
「何故、そう悔やむ。何故、そう諦める。君はまだ、その結末を見てはいないのに」
【ギ……ィ……】
「…………!」
微かな”呻き”だった。
その時、微かな呻きが、生命の息吹が、少女の耳朶を撫でた。
「ギィ太くん……!」
医療ポッドの内部から”ギィ太”がゲル状の身体を捩りながら、少女に何かを伝えようとするかのように、微かな呻き声を出し続けていた。
その必死な様が、少女の胸をまた締め付ける。
「……その生物に関し、詳細な検査を行ったが、データで見る限り、とても”人類と共生できるような”生物とは言えなかったよ。でも、”彼”は明らかに君を想い、護ろうとしている。……それは、君を想い、慕う人達が託した想いなんじゃないか……? 俺は、そう感じてる」
「みんなの、想い……」
”ギィ太”は元々、響の体内に蠢く”壊音”の一部だ。
そして、サファイアは知らないが、ギィ太の元となった千切れた”壊音”は、千切れる前に、麗句がサファイアを護る為に展開した”畏敬の赤”を捕食している。
サファイアを護ろうとした麗句の意志が織り込まれた”畏敬の赤”を。
それが”観念世界”での漂流の中、唯のゲルの塊であった”ギィ太”に微かな意志を、その行動原理のようなものを植え付けたのではないか。
男の推察は、事情は知らないまでも、その”核”を捉えていたと言えるのかもしれない。
「生きる限り、後悔はあるかもしれない。でも、”彼”にここまでの想いを抱かせた、君の想いを、愛を、君は悔いるべきじゃない。差し伸べるその手を、躊躇うべきじゃない」
男は告げ、”ギィ太”を励ますように、医療ポッドのガラスをコンコンと叩く。
”男だな、お前も”
そんな言葉とともに。
「俺もかつてヨゼフを斃す事が出来たが……救う事は出来なかった。事件の後、彼の過去を、軌跡を知り、想いのすれ違いが、人の業が、彼を引き裂き、変えてしまっていた事を知った。斃すべき相手であると同時に、彼が救うべき存在であった事を知ったんだ」
”それが……刑事さんの後悔?”
少女の問いに男は頷き、いま”鮮血神殿”に籠り、粛々と牙を研ぐ怪物へと想いを馳せる。
「人を想うが故に彼は壊れ、その願いが強すぎる余りに、彼は……”救済の化け物”となってしまった。宇宙刑事としては、斃すしかない相手だったが、今度は人間として向き合いたい。そう思ってる」
「刑事さんには……そういうのないのかと思ってました。ボクみたいな弱い人間と違って――」
「俺も人間さ。だけど、負けやしないよ。自分の後悔にも、人間の闇にも」
そう言って、男は力強く自分の胸を叩いて見せる。
「寂しい時、辛い時は瞳を上げるのさ。其処にある星空が”会えない人”とも自分を繋いでくれる。同じように星空を見上げ、必死に生きている人達がいると教えてくれるのさ。挫けるな、弱音を吐くな、ってね」
穏やかで力強く、包み込むような笑みが少女の胸に、心に響く。
頬を濡らしていた涙は渇き、熱いものが少女の胸にこみ上げ始めていた。
「そっか……そうですよね。”観念世界”じゃ、残念ながら星は見えないですけど」
心を蝕む悲しみを振り切り、おどけて舌を出して見せた少女に、男は右手の親指を立てて応える。
再び、両脚でしっかりと立った少女の青い瞳は、雨雲を除けた蒼天のように輝いていた。
「ありがとうございます……! 刑事さんの気持ち、ちゃんと届きました。この星の無い夜にも、ちゃんと」
「君ならきっと、この暗闇を照らす太陽にもなれる。自分の世界の状況も解決する事が出来るさ。……そうだな、もう一つ、君に贈る言葉があるとすれば――」
それは――、
律儀にお辞儀をする少女に、男が言葉を贈ろうとしたその瞬間。
(全く……その名の如く”青い”認識だね、”救世主”)
「……!」
穏やかな空気が流れ始めた医務室に、再び緊張が走る。
「なっ……!?」
周囲の機器が火花を散らし、”赤い”霧が視界を漂い始める。
二人の居る医務室に、その”異変”は、怪物からの”招待状”は届いていた。
”畏敬の赤”が、少女の足元で渦を巻き、その肢体を飲み込まんと、轟然と唸りを上げる。
それは、怪物が、”創世石”を手にする為の算段を整えた事を意味していた。
溢れる恐怖、緊張と同時に、少女の胸に一つの想いが閃く。
「……! お嬢さん……!?」
「……刑事さん。ボク、”行ってきます”」
「なっ……!?」
男が制止する間もなく、駆けだした少女の意志が、身体が、躊躇うことなく”畏敬の赤”の渦の中へと飛び込んでいた。
渦は少女を飲み込むと、目的を果たしたかのように、嘲笑うようにその身を撓ませ、細める——。
「お嬢さん……! ぐっ……!?」
男が伸ばした手を、”畏敬の赤”で編まれた鋭利な棘を持つ茨の障壁が阻み、その追跡を拒絶する。
障壁に宿るのは、怪物の確かな憤怒と嘲り。
役目を終えた渦と障壁は瞬く間に消滅し、残された男は、茨によってわずかに裂かれた掌を握り締め、少女が消失した先にあるであろう、ヨゼフの居城……”鮮血神殿”を見据える。
「……選んだのか、自らヨゼフと対峙する事を」
船内に宿る”畏敬の赤”の加護と連動した、宇宙船の人工知能がすぐ様、”座標”である”創世石”の探索を開始する。
その座標の先に在るのは、この名も無き英雄譚の最終章。
いま、ヨゼフとの最終決戦が始まろうとしていた。
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