第2話 遠き道程(みちのり)
天禄三年(九百七十三年)十一月二十七日、兼通は従三位のまま関白宣下を受け内大臣に任じられたが、それ以外の太政官人事は下記の通りである。
左大臣 従二位 源兼明五十九歳
右大臣 正三位 藤原頼忠四十九歳
大納言 従三位 橘好古八十歳
大納言 正三位 源雅信五十三歳
大納言 正三位 藤原兼家四十四歳
中納言 従三位 藤原朝成五十六歳
中納言 従三位 源延光四十五歳
中納言 従三位 藤原文範六十四歳
権中納言 正三位源重信五十一歳
橘好古以外、ぐっと若返った人事と成っている。しかし、通常八人くらいのところ、権中納言以上が兼通を含めて十人もおり、位階と官職が逆転している者も居るなど、順送り人事の中に無理矢理押し込んだ感じの、不自然で不細工な人事である。
この年、兼通は四十八歳である。関白とは言え、さすがに大納言にも成っていないのに、左右の大臣をも飛び越して太政大臣と言う訳には行かない。そこで、苦労して選んだのが、内大臣と言う官職なのではなかろうか。
では、内大臣とは何か。官職の序列で言えば、左大臣、右大臣に次ぐ官職である。官位相当は正又は従二位。兼通は従三位であるから、官位不足である。
左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情の為に出仕出来ない場合に、代理として政務・儀式を司るのが通常であるが、逆に左右の大臣が揃っており、大臣の座に空きが無い場合に、苦肉の策として任命される場合もある。兼通の前に内大臣と成ったのは藤原高藤であり、正にその例であった。
或いはその例に倣っての内大臣就任であったのかも知れない。高藤以後、兼通が就任するまで七十三年間、内大臣が置かれたことは無い。
官職で言えば三番目。位階が上の者は六人も居る。その兼通が関白として、全ての文書を帝に先んじて目を通す。関白とは、内覧の権限を有しており、帝と太政官の間の政治的なやり取りを行う際には、関白が事前にその内容を把握し関与することで、国政に関する情報を常に把握し、帝の勅命や勅答の権限を直接侵害すること無く、帝と太政官の双方を調整する権限を有している。だが、十三歳の円融帝に対する兼通の立場は、むしろ幼い帝の代理として政務を行う、摂政に近かったのではないかと思われる。
師尹の次男・藤原済時は、大納言を経ないで兼通が内大臣に就任したことや、この人事を行った円融帝、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している。
そんな政治情勢の中で満仲は、予て願い出ていた摂津守に任じられ、ほっとしていた。
兼通が幅を効かせる都に居るのは面白く無いし、兼家に愚痴を聞かされるのも敵わない。朝廷での権力争いなど忘れて、将来の為、蓄財に励むのも悪く無い。そう思った。
摂津(現・大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)は都からそう遠く無いから、何か有れば直ぐに駆け付けられる。
政界は、一寸先は闇の世界。兼通とて、いつなんどき、転げ落ちるか分からない。都を離れてのんびりとその時を待つのも悪く無いと思った。だがこの年、満仲は又もや災厄に見舞われることになる。
摂津に赴任して間も無く、左京一条に有った留守宅が武装した集団に襲撃され、放火されると言う事件が起きたのだ。この事件による火災では、周辺の多くの邸宅が延焼した。
この時、都に居た満季が直ぐに駆け付け、同日中に嫌疑人を捕らえたと言うのだが、その者達が検非違使疔で取り調べられ、名が明かされることは無かった。恐らく、満季が闇から闇に葬ってしまったのだ。敵も多く、あちこちから恨みを買っている満仲のこと。下手人の正体が明かされ、動機が表沙汰になると、満仲兄弟に取って少なからず都合の悪い何かが有ったからだと思われる。
一方、鎮守府将軍として陸奥の胆沢城に赴任している千常の許には千晴の孫・千清が身を寄せていた。
「春とは言え、陸奥は冷える」
千常が首を竦めながらそう言った。
「都も結構底冷え致しますゆえ、然程には感じませんが」
千清がそう答える。
「若さよのう。じゃが、陸奥くんだりまで落ちねばならなかったとは、その年で苦労も多いな。兄上の赦免を飲ませることが出来なかった。元々その為に立ったつもりであったのだが、済まぬ」
千常はそう言って、千清に頭を下げた。
「何を仰せですか大伯父上。こうして匿って頂けるだけでも感謝しております」
「だが、まだ諦めた訳ではないぞ。折を見て、引続き朝廷には赦免を願い出て行くつもりじゃ」
「有難う御座います。宜しくお願い致します」
千清は千常に正対して深く頭を下げた。
「湧き湯にでも漬かりながら、のんびりと構えておるが良い。いずれ良き機会も訪れよう」
少し微笑みながら千常は、千清の心を癒そうとする。
「父も、未だ検非違使に拘束されたままかと思われますが、行方が知れません」
千清は素直に不安な心境を述べた。
「うん」
と千常も表情を曇らせる。
千清の父であり千晴の嫡男である久頼も千晴と共に捕らえられたのだが、遠島となった者の中にはその名は無く、どこに囚われているのかも分からないのだ。
千清にしてみれば、隠岐に流されたことが分かっている祖父よりも、父の行方が気掛かりなのは無理も無い。
「ところで千清。明日客が来る。麿も初対面なのだが、なかなか興味深い男じゃ。どうか? そなたも会ってみぬか」
沈んだ気分を変えられるかも知れないと思い、千常がそう提案する。
「どなたで御座いますか」
千清が聞いた。
「安倍忠頼と申してな、奥六郡の蝦夷を支配する俘囚の長じゃ。実は、その男にはこたびはえらく世話になった」
「と言われますと?」
「今こうして麿が鎮守府将軍として居られるのも、公卿共が蝦夷が攻めて来ると震え上がったればこそでな。陸奥守にそう思わせることに協力して貰った」
「なぜそのようなことを頼めたのですか」
「そなた、夜叉丸と秋天丸は知っておろう」
「はい。六郎様の郎等の小山武規と広表智通のことですね」
「そうだ。その者達は、実は蝦夷の出でな。あの者達が育った郷の長・祖真紀と言う者の妻は、忠頼の姉なのだ。その縁で六郎は十五の頃、安倍の舘に滞在したことが有る」
「左様ですか。六郎様は蝦夷の舘で過ごしたことが有るのですか。存じませんでした。興味深う御座います」
千清は千方の幼少期の話と蝦夷に関心を持ったようだ。表情が明るさを取り戻した。
「明日の午後参るとのことじゃ。同席致すが良い」
「はい。是非そうさせて頂きます」
千清が強く頷く。
翌日、午の刻を過ぎた頃から、千清は、外の様子が気に成っていた。奥六郡の蝦夷を束ねる長・安倍忠頼とはどんな男で、また、どのような風体で現れるのか、それに興味が有った。しかし、二刻ほどして現れたのは、坂東の兵達と変わらない風体の主従十人ほどであった。蝦夷達の珍しい出で立ちを見られるかと期待していたのだが、思惑が外れ千清は少しがっかりした。対屋に戻り待機していると千常から声が掛かり、千清は広間に出向いた。
「兄・千晴の孫・千清じゃ」
千常が忠頼に紹介する。
「安倍忠頼に御座います。お見知り置きを」
厳つい髭面の男を想像していたが、意外にも爽やかな男だった。
「千清と申す。良しなに」
千清も爽やかに挨拶する。
「六郎様を思い出します」
忠頼が言った。
「あの折も世話を掛けた」
そう千常が応じる。
「いえ、楽しゅう御座いました。少々はらはらもさせられましたが」
と忠頼は苦笑いした。
「あ奴は、後先考えずに動くことが有るでのう。いや、こたびのことでは、麿も他人のことは言えぬ。すっかり世話を掛けた。安倍には大きな借りが出来たわ」
千常もそう言って苦笑いをする。
「何の。こちらの事情も有り、大したことは出来ませんでした。申し訳御座いません」
忠頼はそう詫びた。
「いや、終生恩に着ねばならぬと思うておる。そなたの姉の舅も死なせてしもうた」
「いえ、殿が、鎮守府将軍としておられる少なくともこの四年の間は、我等も安心して暮らせると言うものです。いずれ六郎様も鎮守府将軍として赴任して来られることが有るかも知れぬと思うと、楽しみで御座います」
「いや、六郎は、都で地道に出世してくれれば良い。高明様と言う大きな後ろ楯はもはや無い。修理大夫くらいまで辿り着いてくれればと思うておる。都に於ける下野藤原家の最後の砦じゃ。それよりも、源満仲、満季が赴任して来る可能性が有る。その時は、用心の上にも用心を重ね、決して尻尾を掴まれてはならぬ、油断の出来ぬ者達じゃ。良いな」
厳しい表情になって、千常が忠頼を諭す。
「源満仲……。殿の兄上・千晴様を陥れた男で御座いますな」
忠頼がそう質した。
「うん。摂関家に摺り寄り、主・高明様を裏切った上、兄を陥れた男じゃ。我が家に取っては不倶戴天の敵じゃよ」
「その者がもし赴任して来た時には、闇に葬りましょうか?」
忠頼が鋭い視線を見せて言った。
「やめよ。そう簡単に殺せるような男では無い。下手をすると、安倍の命取りにもなりかねん」
千常がきつく戒める。
「左様で。では、死んだ振りをして、遣り過ごすことにします」
忠頼もそれを理解して、千常の言葉に従う事を約した。
「それが上策。やる時は、我等が殺る」
「忠頼殿。先ほど六郎様にはらはらしたと申されたが、何が有ったのじゃ」
千清がそう口を出した。千常が苦笑いを見せる。
「興味お有りですか。お話しましょう。当時、手前は狐支紀という者と戦っておりました。狐支紀を追い詰めましたが、その者は堀と柵で囲まれた拠点に逃げ込み、膠着状態が続いておりました。六郎様は、その現場を見に来られたのです。ところがその時、我等は狐支紀の罠に嵌まるところでした。狐支紀は抜け穴を通って我等の背後に兵を回し、我等を挟み撃ちにしようとしていたのです。見物の為に現場にむかっていた六郎様の郎等の一人がそれに気付きました。六郎様をその場に置いて、同行していた我が手の者達が背後に回った敵を討つ為突っ込んで行ったのですが、多勢に無勢。苦戦しているところへ六郎様達が参戦して来られたのです。敵を見付けた時、その場でお待ち頂くよう我が郎等が言い残していたのですが、お聞ききになりませんでした。尤も、そのお陰で騒ぎが大きくなり、我等も事態に気付いて勝利することが出来たと言う訳です。その時六郎様は十五歳でした」
「十五歳、そのようなお歳で戦われたのですか、六郎様は」
感心した千清が驚きの表情を見せる。
「その前の年には、襲って来た者を返り討ちにしておるぞ」
千常は、面白がって笑いながらそう続けた。
「えっ? 本当ですか」
千清が更に信じられないと言う表情を浮かべる。
「相手は確か二つばかり年長であったな。十四の歳に六郎を草原に迎えに行った頃はひ弱な童であったが、負けん気だけは強かった。それで、死んだ先代祖真紀と朝鳥が鍛えてくれたのよ」
「朝鳥殿と言えば、何とも面白き方で御座いましたな。それでいて深いものを持っておられた」
忠頼が懐かしげに呟いた。
「我が家に取って宝とも言うべき二人をほぼ同時に失ってしもうた。朝鳥ともう一人は、そなたの姉の舅・先代の祖真紀じゃ」
「姉上の舅殿には、遂に会わず仕舞いでした」
去って行った者達をそれぞれの胸に刻み、夢がまた一歩遠退いたことを千常も忠頼も感じていた。




