第2話 将門を殺した男 ⅰ
翌日から食事は郷の者達と同じ雑穀となった。付くのはひとつまみの醤と山菜、それに汁のみ。たまに、干した魚が付いた。しかし、なぜかそれは千方に取っては大した苦痛では無かった。出来の悪い強飯より、稗や粟の方がましとさえ思えたのだ。
「ご案内致しましょう。ああ、申し遅れておりましたが、この郷の長を務めおります大道祖真紀と申します」
物腰は柔らかいが、内に凄みを感じさせる男だと、朝鳥は思った。
「蝦夷か?」
ずばりと聞いた。
蝦夷と呼ばれていた人々は、この頃から、エゾと呼ばれるようになっていた。
「はい。さようで」
郷長は、いともあっさりと答えた。
「麿の下の娘の連れ合いが、蔵番をしておってな。蝦夷らしき風体の男達が、時々雑穀を受け取りに来ると聞いたことが有る。その男、それ以上のことは何も聞かされておらず、不審がっておったが、殿、直々の下知なので詮索も出来ず、言われた通り渡していると申しておった。そうか、この郷の者達であったのか。得心した」
「ご覧なされませ。田は無く、畑もわずかでござる。木の実、草の根、鳥、獣の肉も食しますが、足りません。殿からのお下げ渡しの物が無ければ、この郷の者達は生きて行くことは出来ないのです」
「見返りは?」
もっともらしい述懐に違和感を覚えた朝鳥が鋭く切り返す。
「今は、さほどお役には立ってはおりませぬ。上野の山々に分け入って、道や地形を調べたりするくらいでしょうかな。時には、信濃の方まで行く者もおります」
「成る程、山か。町中の探索には不向きじゃな。目立ってしまう」
千常が上野、惹いては信濃にまで進出することを考えていることは、朝鳥も分かっていた。互いに対立する一方と誼を通じ、相手方に圧力を掛けたり、仲裁に立って恩を売ってみたりと、やっていることは、かつて、坂東を舞台に大争乱を引き起こし、謀叛に突き進んだ将門とそう変わらない。揉め事、小競り合いに発展することは度々有る。当然、千常にも乱に突き進む危険が付き纏っていた。
しかし、これは千常の考えと言うよりも、したたかな父、秀郷の思惑である。
「今日は競馬などお見せしたいと存じます」
二日目の朝、郷長がそう告げに来た。広場に出向くと、その日も、既に郷人が総出で、馬を引いた五人の男達が広場に控えていた。
合図を待って乗馬するが、日本古馬は気が荒く、サラブレッドのように大人しく整列などしない。それぞれ、あっちを向いたり、こっちを向いたりとしようとするのを、乗り手が宥めながら、長の合図を今や遅しと待っている。その中に、葦毛の馬に乗った長のせがれが居ることに朝鳥は気付いた。
広場脇に筵が敷かれており、千方達はそこに案内された。千方と朝鳥が席に着くと、乗馬した男達に向かって郷長が手を挙げ、さっと振り下ろす。
郷の中心には、狭い山里には不似合いな幅六間ほども有る道が、広場を横切って一直線に走っている。その道は山に係る手前で狭まり、緩やかに曲がり、上り坂となって木陰に消えて行く。
一方、六間道の後ろも同じように山に係り、木陰に消えている。見回すと、馬二頭ほどが辛うじて通れるほどの道が東側の斜面の木立の途切れる辺りに見え隠れする。どうやら、郷を半周する道が作られているようだ。
馬馳せの訓練をするだけなら、こんな大掛かりな道を作る必要は無い。郷中はともかく、低い所とは言え、山を削って馬二頭が並んで走れる程の道を作るには、相当な年月と労力が必要となる。明らかに、見せる為だけに、大変な労力と時間を掛けて作られた道だ。
この道は完全な周回路であり、郷の外には通じていない。郷に入る道は、防衛の為か、狭隘で険阻なまま少しの手も加えていない。競走路の造作は秀郷が命じたものなのか、あるいは千常か。それとも、郷人自身が考えて作ったものなのか。いずれにしろ、この郷が只の山里では無いことを示している。
歓声が上がる。乗り手であろう者達の名があちこちで叫ばれる。手を振ったり、跳び上がったり、大変な応援である。
走り出した五頭の馬の列は、次第に縦に伸びて、山に係る辺りでは先を争って揉み合いながら木陰に消えて行く。馬の進行位置に合わせて人々は体を巡らせ、千方も朝鳥も立ち上がってその方角に目をやった。木立の途切れる辺りでその姿が垣間見える度にまた歓声が上がる。やがて、後ろの山陰から現れた馬群が、一直線の道で、最後の力を振り絞って広場に雪崩れ込んで来る。
先頭で飛び込んで来たのは、葦毛の馬に乗った体格のがっしりした、三十代半ばの男だった。
「いや、さすが、長のせがれ殿。やり申したな」
朝鳥が祖真紀に言った。
「恐れ入ります」
とは言ったが、祖真紀は当然とでも言いたげに、特に喜びの表情は無い。馬を降りた男達が、千方の前に歩み寄り、立ったまま頭を下げる。
「千寿丸様。勝ったのは長のせがれ殿で御座るよ。お言葉を」
朝鳥が千方に言った。
「うん! 見事であった」
千方は興奮気味に長のせがれを見た。
「恐れ入ります。大道古能代と申します。お見知り置きを」
祖真紀の顎の張った四角い顔を受け継ぎ、眉が太く、しっかりした大きな鼻を持った意思の強そうな男だ。千常よりいくつか年上であろう。
朝鳥は古能代にどこかで会ったような気がしていた。夕べは気が付かなかったが、こうして正面からまじまじと顔を見ていると、その太い眉、大きな鼻、確かに以前どこかで見た顔だった。それがすぐに思い出せないのが歯痒い。歳のせいか、この頃そう言うことが良く有る。
「以前、何処かで会ったことが有るのう」
「ああ、郷の者達を連れてお舘に伺ったことが何度か有りますので、その折では御座いませんか?」
「う? いや違う。婿から聞くまで、御事らが雑穀を受け取りに来ていることも知らなかった。お舘で会ってはいない」
「さようですか。それでは、誰か似た者と見間違えているのでは」
「いや、そのようなことは無い。確かに……」
「朝鳥。良いではないか。そのうち思い出すであろう」
なぜか、祖真紀親子が困っているような気がして、千方が口を出した。
「あ、はあ」
朝鳥は思い出せそうで思い出せない苛立ちを感じていた。
「千寿丸様。まだまだ趣向を用意しておりますので、どうぞ、お楽しみください。さ、汝達も支度に掛かれ。早う」
話題を変えようとしてか、祖真紀が男達を促した。
前を走る馬に追い着いて、騎手の後ろに乗り移ったり、騎手が、駆けながら地上に立っている男の片手を掴んで、ひょいと馬上に拾い上げたりと、競馬よりはるかに面白い趣向が、千方の胸を弾ませた。
駆けながら騎手が後ろ向きに乗り換えたり、地面に突き刺した太刀を、ほとんど逆さまに成りながら拾い上げて、すぐさま体勢を建て直しそのまま走って行ったりと、前輪、後輪を左右に分かれた居木で繋ぐ形式の大和鞍と舌長鐙を使っていては絶対に出来ない技に、千方は驚愕した。
馬馳せ技の数々を観ているうちに、突如朝鳥は思い出した。
「そうだ。あの戦いの折、確かにあの顔を見た」
その戦とは、天慶三年(九百四十年)二月十四日。朝鳥が是光を失った初戦から十四日目の常陸国幸島郡・北山の戦いに於いて、秀郷、平貞盛らの連合軍が将門を討って勝利した戦いでのことだ。
朝鳥は千常の命により、千常の許を離れて秀郷に着いていた。本陣に置いて、朝鳥が無謀な突進に出るのを少しでも防ぎたいとの千常の配慮が有ったのだ。
初戦に策を用いて先鋒を叩き大勝した秀郷ら連合軍は、将門を追って下総国・川口へ進撃し、将門は沼に囲まれた湿地帯に籠った。
秀郷は袋状になった湿地帯の二か所の出入り口を固めて包囲したが、宵闇に掛かる頃、藤原為憲の隊の固める辺りが突破され、将門は本拠地である石井に逃れた。
秀郷らは石井近くに進出し、村々を焼き払い将門を追い詰めて行った。将門は自ら舘を焼き、残り少ない兵や家族を連れて身を隠した。この辺りは川や沼が多く、以前、伯父である良兼との戦いに敗れた時も、将門は、川舟に潜み菰に身を隠して時を待ち、再起を図ったことが有った。
この度もそうしているに違い無いとの見方から、捜索の輪を徐々に絞って行こうと言うことになり、蟻の這い出る隙間も作らぬよう、事は慎重に進められた。強引な方法を取ることは危険だった。
これまで、将門は数倍の敵を何度か破って来た。死んだ蜂に刺されたり、抑えた蝮に噛まれたりするのではないかと思うのと同じような恐怖心が、兵達の心の中に有り、どんなに優勢と思える状況に在っても油断が出来ない。もし、将門が突然現れ、囲みを破り逆襲するようなことが有れば、恐怖心が頂点に達し、四千を超える兵のうち、かなりの者が逃亡してしまうかも知れないのだ。
秀郷も将門も、いわゆる、領主ではない。元々、律令制の許では、土地も民も建前上は公のものである。土豪達は、毎年、国司との間で請負契約を交わし、それに応じた税を納めるだけの存在に過ぎない。だから、理屈の上では国司は、翌年は他の土豪と契約することも出来る訳だ。しかし実際には、そんなことは簡単には出来ない。種籾を貸し付けたりして、民との繋がりも出来ているし、独自に開発した私営田もある。
荘園の拡大なども含めて、既に律令の制度の多くの部分が形骸化しつつあった。また、土豪達の多くが、同時に国府の役人でもある。
今の時代に例えるなら、地元の有力者が県庁の幹部職員として名を連ねているのだ。更に、役職が部長や局長であっても、実際には、知事や副知事よりも力を持っている者も居る。秀郷が正にそうであった。いざとなれば、力尽くで国司に反抗する者も少なく無い。
一方、土豪達にしてみても、戦に際して狩り出す兵の殆どは農民である。主従関係は無いのだ。軍団制が有った時のように、年に数か月の訓練を受けている訳でも無い。有利と見れば従うが、一旦不利と見れば、数千人の兵が一夜にして逃亡し、翌朝には十分の一になってしまうことも珍しくない。それどころか、戦の最中であっても、一旦劣性になれば、浮足立った兵達は、退却どころかそのまま逃げ去って二度と戻って来ない者も多いのだ。頼りになるのは、『家の子』と呼ばれる身内と少数の郎党のみだ。
戦い続けていた将門にはどんどん兵が集まって来て、遂には数千の兵を率いるようになったが、平安な日々が長らく訪れなかったので、天慶二年(九百三十九年)十一月以来、兵を帰して休ませることが無かった。そのまま歳を越し、春の種蒔きの時期が近付くに連れ、兵達をそのまま留め置くことが出来なくなり、遂に帰す決断をした。
休ませるだけなら、交代で帰せば良い訳だが、誰も、農作業に最適な時期に帰りたいと思うのは当然である。近くに住む者達は交代制にし、遠い者達はすべて帰した。
その結果、残った兵は、与力の土豪達、それらの家の子郎党すべてを合わせても千人にも満たなくなってしまったのだ。
細作を放って、常に将門の動静を探らせていた秀郷の耳に、それが入った。
『今だ!』と秀郷は思った。
貞盛の他、常陸大介・藤原維幾、為憲親子も秀郷を頼って来ていたので、秀郷はそれぞれにも兵を集めるよう促し、貞盛が八百、為憲が五百の兵を集め、秀郷の三千の兵と合わせて、既に四千三百の兵を抱える軍を作り上げていた。
兵の訓練は充分に出来ていた。陣形を組むと言うことは言わばマスゲームだ。いかに素早く陣形を組み直すかを繰り返し叩き込んだ。鉦や太鼓に合わせて、次々と陣形を変えて行く。ひとつの陣形が破られた時、素早く次の陣形に組み直せなければ、兵はばらばらになり四散する。それぞれが従う将の旗を見分け、鉦や太鼓の合図の許、素早く集まり、指示された陣形に組み直させなければならないのだ。
秀郷は訓練の成果に満足していた。だが、対・将門戦に付いての不安は残った。
ある朝、将門が石井の東方半里ばかりにある常陸国幸島郡の北山に陣取ったと言う報せを物見の者が齎した。
「しまった。いつの間に……」と言う秀郷の呟きを朝鳥は聞いた。
秀郷はすぐさま全軍を率いて北山に向かい、北側の麓に布陣しようとした。
以前からの位や官職からすれば、維幾、貞盛の方が上だが、実力と任じられたばかりの押領使の権限の許、指揮権は完全に秀郷が握っていた。押領使は軍事指揮権を与えられた地方土豪で、自らの私兵を率いて、通常は一国内の治安維持に当たる役職だが、この乱の鎮圧に当たっては、国を超えた範囲での権限を与えられていた。
将門鎮圧に際して、他に各国の掾クラスの六人が押領使に任命されていたが、実際、将門に対したのは秀郷であった。




