第32章 景春との対話
白井城に引き籠った長尾景春の元には、たびたび古河公方・足利成氏からの密書が届いた。内容は当然ながら公方側への寝返りの打診である。何通目かの書状には、上杉を倒した暁には貴殿を関東管領に任命するつもりだとも書いてあった。
(俺が関東管領か。悪くない話だな)
景春はそう思う一方、冷静に(こんな約束あてになるもんか)とも思った。そもそもなぜ俺がいつまでも誰かの下にいなくちゃならないのだ? 俺がてっぺんに立って何がまずいのだ? 成氏には会ったことが無いけど、顕定はよく知っている。妙に大人ぶった態度をしてるけど、所詮あんなのは半人前のガキじゃねえか。長く続く戦乱が既存の秩序をぶっ壊したんだ。家柄や身分では、いくさに勝てないからな。これからは力のある者が無能な主君を追い出して、どんどん上に立つべきなのではないか? そんな世がすぐそこまで来ているのを、俺はひしひしと感じる。もう好きに振る舞っても良いのではないか?
ただ、どんな形にせよ、俺が反乱を起こせば、そこに立ち塞がる最大の障壁は兄上・・・今は出家して道灌か・・・道灌、あなただ。他の奴らはちっとも怖くないけど、あなただけは恐ろしい。できることなら敵にしたくない。しかし、それは無理だろう、兄上の気性を考えれば・・・
その頃、道灌は何をしていたかというと、江戸城でせっせと子作りに励んでいた。悲田明院は若い資家と紫音に任せて、明子と跡継ぎ作りに精を出していたのである。
その資家と紫音だが、道灌がうすうす察した通り、二人は順調に愛を育み、この度めでたく結婚する運びとなった。
十九歳の年下夫・資家の言葉。
「江戸城で紫音さんと勉強していた頃は、いつも御簾の中に隠れていて、ちっとも顔を見せてくれなかったので、変な奴だなと思っていたけど、悲田明院で初めて素顔を見たら、あまりの可愛らしさにビックリして、また院内の孤児や体の不自由な人を献身的に世話する姿に感動し、いっぺんに恋をしてしまいました。彼女が気に病んでいたらしい顔のあばたなんかまったく気になりませんでした」
二十二歳の年上妻・紫音の言葉。
「年下だし、性格が暗そうだったので、最初は特別な感情を抱くことは無かったのですけど、悲田明院で資家さまが真摯に医療と向き合っている姿を傍らで見ていたら、いつしかわたしの中で彼の存在が大きくなり、気がついた時には恋におちていました」
文明七(1475)年三月に資家と紫音が江戸城で祝言をあげた際には、
「沙羅、見てるか? 紫音が嫁に行ったぞ。無事に嫁に行ったぞ。安心してくれ、沙羅」
と、式の最初から最後まで一人で大泣きしていた道灌だが、翌日の夜にはもう明子から
「さぁて、子供と孫と、どちらが先にできるか競争だわね」
そう言われて再び子作りを強要される雲行きだったので、
「俺は種馬じゃねえ」
と小さな抵抗を試みたが、自分に課せられた使命を全うすること以外は見えなくなっている明子に聞いてもらえるはずがなく、最後の一滴まで搾られ抜かれる試練の夜が続いた。
「も、もう死にそうですぅ、少し休ませてください、明子さん・・・」
同年五月、道灌は援軍を要請されたので、軍勢を率いて五十子陣へ向かい、途中、比企郡小河(現在の埼玉県小川町付近)の宿場に一泊した。
(やれやれ、ようやく明子から解放されて、ゆっくり眠れるわ)
気持ち良く熟睡していた道灌が人の気配に気づいて目を醒ましたのは夜明け間近の時刻だった。
「誰だ?」
すばやく大刀を引き付けて道灌が誰何すると、暗闇の中で聞き覚えのある声が返答をした。
「お休み中のところ申し訳ありません。景春です」
「景春?」
燭台に火が点き、闇の中に景春の顔がぼおっと浮かび上がった。
「どうした、こんな時刻に?」
「こんな時刻じゃないと兄上に会えない立場ですので」
「何をバカな」
と、道灌は大刀を床に置いた。
「お久しぶりです、兄上」
「ああ、久しぶりだな」
「少々おやつれになられましたか?」
景春にそう訊かれた道灌は、とうぜん心当たりがあるので思わず手の平で頬の辺りを撫でたが、まさか「夜な夜な明子に死ぬほど精を搾り採られているのだから、そりゃあやつれもするわな」と正直に告白するわけにもいかず、「ああ・・・まぁ・・・いろいろ忙しくてな」と曖昧な返事でごまかした。
「ところで、何の用だ? 俺に管領さまや伯父上への仲介を頼みに来たのか?」
「違います」
「それなら何用だ?」
「五十子陣へ行くのをお止めくださいと頼みに参ったのです」
「なぜ五十子陣へ行ってはならんのだ?」
「わたしがこれから五十子陣を襲撃するからです」
「はぁ?」
最初、道灌は景春が冗談を言っているのかと思った。しかし、景春の真剣な表情を見て本気だと悟った。
「五十子陣を襲ってどうするつもりだ?」
「管領と伯父上を討ちます」
「つまり古河公方側に寝返るというわけか?」
「いいえ、わたしは公方側につくつもりはありません。わたし自身が関東の覇者になるつもりです」
「景春、おまえ気が狂ったのか?」
「わたしは正気です」
「正気だとしたら、家宰になれなかったのを、それほどまで恨みに思っていたのか?」
「家宰とか、そういう話はもうどうでも良いのです」景春は語気を強めた。「確かに最初は家宰に選ばれなかった事に憤っておりました。しかし、白井城に籠って沈思黙考しているうちに、わたしの中で別の新たな思いが湧き上がってきたのです」
「何だ、その別の新たな思いというのは?」
「それは、公方だろうが、管領だろうが、我々はいつまで他人の下に甘んじていなければならないのか、という疑問です」
「人間社会で生きてゆく以上、秩序は守らなければならんだろう」
「それでは兄上は、高貴な家に生まれた者は何ら努力をしなくても一生のあいだ優雅で贅沢な暮らしができ、卑賎な家に生まれた者はいくら頑張っても生まれた時の身分に固定され、死ぬまで貧しく、みじめで、暗い人生を黙って受け入れなければならない、それが社会の秩序だ、そうお考えなのですか?」
「何もそうは言ってないよ」
「わたしは足利家の生まれではありませんから将軍になれませんけど、将軍職を独占している足利家ってそんなに立派な家なのですか? その昔、源頼朝公が将軍だった頃は、小さな家にすぎなかったのでしょう? つまり彼らも成り上がったわけです。今、わたしが同じ事をして何が悪いのですか?」
「悪くはないさ、成功すればね。しかし、失敗すれば、景春、おまえだけでなく、おまえの妻や子供、さらには一族郎党すべてが殺されることになるのだぞ。それがわかっているのか?」
「わかっています」
「わかっているのなら、そんな危ない橋を渡るのはやめろよ。だいいち勝算など無かろうが」
「わたしにはやれる自信があります」
「上杉と古河公方の両方を敵に回すのだぞ。どう考えたら勝算ありという結論になるのだ?」
「詳しくは申せませんが、第三極ゆえに勝算があるのです。ただ、もし失敗するとすれば、その原因はただ一つ。兄上、あなたです」
「ほう」
「兄上は手強い。目下の不安要素は兄上だけです」
「わかっているではないか」
「そこで無理を承知でお願いするのですが、わたしと共に起ってくださいませんか? 兄上が共に起ってくださるのなら、もちろん兄上を大将にし、わたしは副将で構いませんから」
「そんな誘いに俺が乗ると思っているのか?」
「思っていません。万に一つの希望を胸にお誘いしてみただけです」
「時間の無駄だ」
「でも、兄上、感じませんか? 時代の流れを。新しい波がすぐそこまでやって来ているのを」
「さぁ、俺にはよくわからんね」
「相次ぐ戦乱が既存の社会を破壊したのです。もう古い権威は役に立ちません。これからはおのれの才覚ひとつで卑賎の身から一国の主となる者が数多く出現することでしょう」
「そうなの?」
「そうなんですよ。時代の境目にある今が絶好の機会なのです」
「たとえそうであっても、俺は興味が無い」
「なぜそんなに臆病なのですか、兄上は?」
「臆病? 俺は臆病か?」
「ええ、新時代の到来と古い秩序の崩壊を恐れていらっしゃいます」
「そういえば以前、古河公方からも同じ事を言われたな」と、道灌は苦笑した。「いずれにせよ、俺は古い時代の人間なんだよ。骨の髄までそうなんだよ。だから、おまえみたいに器用に振る舞えないんだ。新時代? そんなもの知るか」




