彷徨い尽きる#2
ぁぃ――まぁ――かさぁ――ぷぃぅ――
ハーミットに片腕で抱えられた幼女はいつしかその表情を混濁させていた。今は片手に藁人形を、もう片方の手でハーミットの白い髪を強く握り締めて、掠れて聞き取れない声で何かをぶつぶつと呟いている。
呟きは初め、意味のある独り言に聞こえた。それが今や亡霊めいた枯れ声になっていた。明らかに普通の様子ではない。ハーミットはただならぬ不安を覚えていたが、もう頭が回らなかった。少しでも集中を緩めると頭がくらくらし、足元がふらつく。
ハーミットは眼球がひっくり返るような眠気に耐えて、ひたすら周辺の警戒に全神経をとがらせて烽火を目指した。
幼女を怖がらせないように歩きで枯森を行くと、運良く異形どもに出会わず、こっそりとキノコの森を抜けられた。というか結局、キノコの密林には異形どもがいなかった。川の中とそのほとりで襲われただけだ。キノコに捕食されてしまったのだろうか。
ぽとりと藁人形が土の上に落ちた。幼女は気にする素振りも見せず、ただ一点を見つめて念仏を唱えている。ハーミットは身を屈めてその人形を拾い、空いていたベルトのオープンホルダーに押し込んでから幼女を抱え直すと、再び歩き始めた。
そうして陽光が落ち始めた頃、空に蒼い薄闇が混じり始めてすぐ。ハーミットはそれを見つけた。はっきりと人工的だと分かる灯りのドームが、キノコの密林の向こうにぼんやりと浮かんだのだ。それは烽火の方角とも一致していた。
「助かった、か……?」
少しだけ気が緩みかけた。その時、何か違和感を覚え、ハーミットは幼女を地面に下ろして背中に庇った。身体を臨戦態勢にして耳を澄ますと、あの忌まわしい汽笛の音を密林の奥から拾った。舌打ちしたハーミットの血液が炎で炙られたようにふつふつと熱を帯び始める。
――来た、あいつが。
背後に回した右手を、小さな手が意外な強さで握り締めてきた。
もう、この子を抱えて突っ切るしかない。だがしかし、自分が異形どもを、しいてはバンダースナッチを引き連れて集落に向かえば、今晩の寝床はおろか、貴重な人里との接触を台無しにし、おまけに“この世界最後の生き残り”かも知れない人間の歴史に引導を渡すという大罪を犯しかねない。ハーミットにはそんな予感がしていた。
ハーミットはエリュシオンにおいて、かつて栄光の末席に名を連ね、闘士の至境に達した存在だ。そのハーミットが容易に死にかけるこの環境で、まともな文明が成り立つとは思えなかったのだ。
もはや相打ち覚悟、この場で決着をつけるしかないのか――。
その時、少女の手が乱暴に振りほどかれ、続けざまに後ろに回した右腕に強い痺れを感じて思考が打ち切られた。
ハーミットが振り返ると、野蛮な牙を剥き出しにした顎が、ハーミットの右腕の上腕部まで飲み込んで深々と食いついていた。口だけを長く伸ばして腕を丸呑みにした深海魚の顔面が、ガラス玉めいた黒々とした瞳に魚類特有の痴れた表情を浮かべていた。
「あ……」
――あの子はどうした。
痺れるような痛みと悪寒がそのハーミットの思考を遮った。
狙ったのか、それとも偶然か。魍魎は頼みの籠手を丸呑みにし、闘衣にしか覆われていない二の腕に、千枚通しのように長く鋭い牙をぐさりぐさりと上下から突き刺していた。ハーミットが振りほどこうとしても、牙が腕を貫いてしまっていてはどうにもならない。
これは一度、魍魎の頭部を破壊して一本一本抜くしかない。
そう考えたハーミットがメキリと左の拳を握り込み、魍魎の深海魚を思わせる頭部に鬼の鉄槌を下そうと振り上げた。その瞬間、目に飛び込んできたのは地面に落ちた白い端布と、そして泥だらけになった紫の花の髪飾りだった。
――あの子は食われてしまった。
ハーミットが総毛立つと、緋色の瞳が燐光を湛え、かっと激しい唐紅に変貌する。
拳を振り下ろす直前、一頭の“トリケラトプス”が、闘牛を彷彿とさせる猛進でキノコの密林をぶち破って飛び出してきた。全身を輝く暗血色の硝子で固めた、戦艦の衝角の如き三本角の威容は羅刹で間違いない。
輝くトリケラトプスはぐんと加速すると、ハーミットの右腕に食らいついていた魍魎を巨大な三本角で撥ね上げて丸ごと一口で飲み込んだ。ハーミットの上腕部に突き刺さっていた魍魎の牙が、ますます深くハーミットの腕に食い込んだ。
――天性の組技士たる餓狼羅刹に“捕まって”はいけない。
たった一週間にも満たない期間で、魂の奥底まで徹底的に刻み込まれたその警告が、大音量で脳内に鳴り響いた。断崖でぼろ切れのように振り回された記憶がフラッシュバックする。このままだと羅刹に森中引き廻しの刑を受ける。そんな確たる未来が見えたハーミットが本能的に命じる。
「八房っ!!」
迂闊だった。
“巨象の目方”を手に入れたハーミットと、同等に途方もない質量を誇るトリケラトプス。
両者の間で瞬間的に綱引きが行われ、羅刹の突進の勢いに篭められた莫大な運動エネルギーが、ハーミットの右腕一点に集中する。
さしもの闘鬼の肉体も、この力積には耐えきれず――――
バツンッ!!
太いゴムが過剰なテンションに耐えきれずに爆ぜる音が聞こえ、ハーミットの右腕は、肘から先を骨ごと引き千切られた。
真っ赤なマカロニが自分の腕から生えて、血を吹き出すという馬鹿げた光景に目が点となり、身体のバランスが保てずに仰向けに転倒し――かけて、ハーミットは数歩後ろによろめいた。
薄闇が差した空に鮮血がアーチを描いた。
瞬時にして全ての感覚が激痛に変容した。
「ぉぉぉ……」
七転八倒の痛みに恐慌をきたしかけたが、皮肉なことに、これまでの苛烈な拷問への慣れがそれを阻止した。
急遽、注入したばかりの八房の質量を抜いてボディバランスを取る。せめて一矢報いようと、残された腕で空気を撃き、ハーミットの腕を咥えて走り去る羅刹の脚を狙って【トマホーク】を飛ばした。しかし、平衡が失われた身体では狙いがつかず、キノコの陰から出てきた別の餓狼に命中してしまった。
この誤射を機に、状況は悪化の一途をたどった。
敵意を集めてしまったハーミットに、周囲の餓狼が殺到する。
輝くトリケラトプスも大地をめくり上げながら急旋回し、吠えた。
悪夢の汽笛が聞こえている。
ハーミットは泥土の上で輝くトリケラトプスに踏まれ、無残に砕け散った髪飾りに視線を送った。青筋を立てて鋭い犬歯を剥き出しにすると、慚愧の念を噛み殺し、遠くにぼんやりと見える光のドームに向かって地面を蹴った。
この肉体の状態では、あれらを相手にできない。
自分はまだ、死ぬわけには、いかない。
走りながら残された右腕を左手でがっちりと掴んで、肉に指が埋まるほど強く動脈を圧迫し、残された血液を遁走の燃料とするべく体内に留める。自分の身体を資源と見なし、管理することで限界ぎりぎりまで闘鬼の肉体を酷使する。地獄を生き抜くために編み出した肉体を客観的にコントロールするというハーミットの“新たな技”だ。この地獄を行くには、自分を客観視しなければ気が狂ってしまうのだ。
徐々にキノコの密度が下がり始め、ぱっと視界が開けた。
目の前に現れたのは広い水堀。普通の堀の数倍ありそうな広い幅を持った堀だ。その向こうに見えるのは石造りの壁。更に見上げると、高密度に建つ家々。更に更に、その奥にはきらきらと覗いた一際高い尖塔。その尖塔の向こうには、薄闇の奥に城塞のような長大な陰影が背景となって、うっすらと視界いっぱいに広がった。
都市だ。しかも城壁を持つ城塞都市だった。




