彷徨い尽きる#1
空の明るさが折り返しを過ぎた頃。突如としてキノコの密林が開け、ハーミットの前に待ち望んだ光景が広がった。
そこは奇岩山の下に作られた、物静かな水の円形劇場だった。
穏やかに水を湛えた泉が広がっており、その中央には舞台のように島がひとつ、こぢんまりと浮かんでいた。その奥には腰高の滝がまるで観客席のように段々と幾重にも重なって泉を半分囲っていて、観客席の最上段は背後の奇岩山と繋がっており、そこから溢れた水が、滑らかな簾となって一段、また一段と零れ落ち、音もなく中央の泉に注ぎ込まれている。
中央小島の地表は苔むし、小さなキノコが幾つも生えていた。ここに至るまでの狂ったキノコではない。籠目の常識の範囲に収まる程度のものだ。そんな小島の舞台に目的の鈍色の大樹が屹立していた。小島と大樹が鏡のように穏やかな水面にくっきりと逆さに写り込み、小島自体が空中に浮かんでいるような錯覚すら感じた。
ハーミットは湖畔に立ち、大樹を見た。
半ば水に沈んだ小島の円周を茨の藪がバリケードの如く囲っていて、その中で立派な大樹が立ち枯れていた。その枝張りは凄まじく、この泉全域に張り出している。
足元の泉を覗くと、水は恐ろしく澄んでいて、浅く、足首くらいの深さしかなかった。この水の円形劇場には、滝が一糸乱れず滑らかに落ちるチョロチョロという弱々しい水の音が静かに響き、川の荒々しいゴウゴウという濁流音ははるか遠くに聞こえていた。遠くに聞こえる濁音よりも、弱々しい水の音の方が大きく聞こえる不思議な空間だった。
玲瓏たる空気が包み込む泉にハーミットが踏み込んだ。しばらくそのままじっとして異常がないことを確認すると、ゆっくりと大樹が待つ小島に向かって歩いた。一歩、また一歩と水面を掻き分ける度に脚甲が水を掻く音が立った。足元からは仄かに塩素臭が感じられ、泉の清浄さが際立って感じられた。
ハーミットは茨の藪の前に立った。これまでのパターンだと、ここから何か悪いことが起きる。不安しかない。半眼になって嘆息をつき、頭を垂れた。その視線の先で、半分水に浸かった藪の中に例の赤い実を見つけた。ハーミットはそれをもいで口に運んだ。咀嚼した果肉をゴクリと飲み込むと、強烈な酸味に自然と眉間にしわが寄った。
気合の入ったハーミットは、食べかけの実を持ったまま、茨の藪を跳び越えて小島に上陸した。第一歩は絨毯のように柔らかかった。ハーミットが踏み込むたびに青臭い匂いが立ち上ってくる。何かが起こるのではないかと内心びくつきながらも、何事もなく大樹の袂に到着し、ハーミットは額を大樹の太い幹にゴツンとぶつけ、そのまま頭を押し付けながら深呼吸した。
「――何とか……なったぁ……」
足の裏から全身の力みが抜けていくのを感じる。
そして、巨木の裏で座り込む小さな人影と目が合った。
「?! え、何? えぇ……」
ぶわっと全身に鳥肌が立った。
ハーミットが驚いて身構えても、その膝を抱えて座り込む人物は表情ひとつ変えなかった。一目見て人間だと分かった。その人物は人形かと見紛うほど小さく、そして表情が死んでいる。裸足をさらした二本の脚を両腕で抱えこみ、陰鬱とした生気のない顔でうずくまったまま、ハーミットをぼぅっと見上げ、ぴくりともしない。
小さな子供だ。
汚れてほつれの目立つ、白を基調とした洋風な貫頭衣は性別の判定の助けにならなかった。片手で無造作に掴んでいる、泥まみれの薄気味悪い藁人形もまた然り。しかし、顔つきはどこかふっくらと可愛らしく、切れ目がちな大きな瞳に、肩口まで伸びた髪は痛んではいるものの、控えめに性別を主張していた。なにより透き通った紫色の花の髪飾りが決め手だった。幼い女の子だろう。
白骨死体、炭の骸骨、恐竜の化石、犬人間の骨。骨、骨、骨。死者しか存在せず、自分を理不尽に苛み続けた地獄。そこに突如として現れたる幼女。ハーミットは仰天して声も出ない。
(ほ、骨じゃない――生きてる!!)
しばらくの間、二人は見つめ合うと、おずおずとハーミットの方から「こんにち、は?」と少々間抜けな声をかけた。しかし幼女の反応はなく、唯々、ハーミットを見上げているばかり。
黒く、妙に大きな瞳だった。髪は赤毛気味なのに。
「……食べる?」
ハーミットが手に持っていた食べかけの赤い実を差し出しても、その幼女は関心を示さず、やはりハーミットをじっと見ている。
やや気味が悪くなり、これはひょっとして高度な魍魎の類いか、あるいは無害な魍魎――妖怪なのかも知れない。そう怪しみ始めた頃、
「――おしろさま?」
と、ぽつり。幼女が口を開いた。角のない声は澄んでいた。
「おしろ? ちがう……多分。俺は、ハーミットだ」
「……」
ハーミットは片膝をついて幼女と目線を合わせながら名乗ったが、黒目の幼女は再び口の利けない人形と化してしまった。
「君は? 名前は?」
「……」
「他に、誰かいるのか?」
「……」
どうにか情報を引き出したいハーミットだったが、その後、聞けども聞けども返答がなく、本当に人形に話しかけている危ない人みたくなってくる。ハーミットはひとしきり話しかけて、やがて困り果てると、がっくりと項垂れた。
(まぁ、ここは安全だっていうのは――間違いなさそうだな)
どう見ても無力な子供だ。この辺りは極夜の地に比べれば危険度が下がったものの、まだ餓狼も魍魎もかなりの密度で潜んでいる。この子供が生き長らえていたならば、きっとこの大樹のおかげに他ならない。とはいえ、このままこの子を放置するという考えはなかった。
「お嬢ちゃんは、どこから来たんだ?」
その問いに、黒目の幼女が今度はゆっくりと片手を上げ、キノコの迷宮が支配する領域を指差した。
「……意識」
幼女の声が妙に低く響いた。
――多分、あっちから来たということだろう。
ハーミットが幼女の指を目で追う。すると、遠方の空に細い“筋”が垂直に立ち上っている事に気が付いた。凝視すると微かに揺らいで見えた。あれは煙――いや、ただの煙にしては妙に“高い”。烽火かも知れない。
「あっちから、来たんだな?」
目の前の幼女は座ったままコクリと頷いた。
――人里だ。この子の家族もいるだろう。
降ってきた希望だった。俄然ハーミットの身体に力が漲る。烽火まではそこそこ距離があるようだが、まだ夜まで時間は十分にある。今晩は大樹の下で寝る覚悟だったが、集落があるならそこまで行くのが正解だ。死亡リスクは極力減らしたい。
「――よし」
ハーミットは幼女の手を取り、立ち上がらせる。
抵抗するわけでもなく、立ち上がるわけでもない幼女が腕を引っ張り上げられる様子は壊れた人形そのもの。だがハーミットが両手で脇を支え、立たせてやるれば、幼女はふらつきながらも大樹に手をかけて自ずと身体を支えた。
「じゃあ、俺が連れて行くから、案内してくれるか?」
「――」
幼女はハーミットの問いかけにふるふると首を振り、赤い毛が軽やかに揺れた――なぜ?
「えぇ……そこをなんとか」
しばらくハーミットがあの手この手でお願いするも、幼女が首を縦に振ることはなかった。
やがて、藁人形を両手でぐっと握り締めた赤毛の幼女は、その黒い瞳でハーミットをまっすぐに見据え、無機質な声で「もう、かえれない」と言った。
その言葉の意味するところは、はたして異形どもの危険性を説いているのか、それとも遠くて迷うということを言っているのか、または、何か別の要因なのか。今のハーミットにできることといえば、飛び込み営業になったつもりで自分の有用性をアピールすることのみ。
「――ほ、ほら。俺はさ、こう見えて、それなりに強いんだ! 脚も速いぞ。お嬢ちゃんを抱っこして走れば大丈夫! ……悪いやつじゃないぞ。ちゃんとお嬢ちゃんをあっちに帰してやる。万事まかせろ!!」
力こぶを作ったり、シャドーボクシングをしてみせるハーミットの滑稽な様子をじっと眺めていた幼女は、やがてぽつり。
「――おしろさまが、そういうなら」
――おしろ様ってなんだ。誰なんだ。
ハーミットは全く会話が成り立たない幼女相手に、とりあえずの同意を得たことで軽く息をついた。
「近くに、お父さんお母さんは、いないんだよな?」
そう尋ねたハーミットは、手にした赤い実の残りを口に放り込み、小島のほとりで手を洗って水を口に含んだ。
「いない――」
「向こうにいるんだよな?」
ハーミットの問いかけに、幼女がうつむく。
「わからない――」
ハーミットは、はっとしてこの子供の両親が“もういない”という可能性に思い至った。しまったと思った。慌てて質問を変える。
「……町は、あるんだよな?」
「――コンシャスは、たまむしのきしさまが、まもっているって」
騎士。
守っている。
“たまむしの”という接頭辞が気になったが、これだけ聞き出せればもう迷うことはなかった。
ハーミットは赤毛の幼女を持ち上げて片腕で抱きかかえる。すると、幼女の顔を近くで見たハーミットは自分の目が霞んだように感じた。両目を指で擦り、もう一度幼女の顔を見た時、違和感の正体を理解したハーミットの鼓動が跳ね、首が強ばった。
やけに大きな虹彩だと思っていたが、違った。
近くに迫った幼女の眼球には、瞳がふたつあった。
ひとつの眼球に、ふたつの瞳がある。
まるで小さなフライパンの中で、目玉焼きが押し合っているように。
それは重瞳だった。
この子供は捨てられたのかも知れないと思った。本物の重瞳は初めて見たが、相当なインパクトがある。文化によっては崇拝の対象になるらしいが、烽火を焚くレベルの文明だと、こういったイレギュラーは排除の対象となってもおかしくはない。
ハーミットが抱えた幼女は軽かった。中身が空っぽのようだった。そして身体が微かに震えている。
「いざとなったら、このまま抱えて走るから、口は閉じてるんだぞ」
「……こわい」
一方のハーミットは焦っていた。
もし町についてから何か言われたら、その時考えようと思った。とにかく今は休める場所に一刻も早くたどり着かねば。自分は限界だ。
眼球の裏に鉛を吊り下がったような重い眠気に耐えながら「大丈夫だ」と幼女を宥めながら頭を撫でてやり、ハーミットは茨の囲いを跨いで再び静かな水面に踏み込むと、遠方で上がる烽火に向かって歩き出した。




