第8話 「→」とは、はたして本当に右なんですの?
「舞衣さん」
廊下を歩いている最中、飛鳥様が不意に立ち止まった。
「どうかなさいましたか?飛鳥様」
うわー、ろくでもないこと考えてそうな顔してるー。
「……教室へ戻る道が分からなくなってしまいました」
「……………」
そんな迷子の子羊様の目の前には、デカデカと『三年一組→』と書かれた案内表示がある。
「飛鳥様、この案内通りに歩くだけですわ」
「ですが……!」
飛鳥様が案内表示を半泣きで指差す。
「先程から、この矢印が本当に信用できるのか不安になってきまして……」
「はあ?」
突拍子もない発言に思わず素で反応してしまった。
「だって、『→』が実は左を意味している可能性も……」
「……つまり?」
「『→』とは、はたして本当に右なんですの?」
はい、見事なタイトル回収ありがとうございます。
「……少しはコイツのことを信用してあげてください、ほら。こんなに立派に右に伸びているじゃないですか」
「でも、でも!まず色が怪しいですわ!紫って……悪役の色をしています!」
「飛鳥様の瞳だって綺麗な紫紺色じゃないですか」
「もう!舞衣さん、真面目に聞いてくださいな!」
貴方は正気に戻ってくださいな。
はあ、今が2人きりで本当に良かった。
もし周囲に
『一条家次期当主、ついに錯乱』
などと知られていたら最悪だったよ。
矢印と格闘している(?)飛鳥様をなだめていると、
「……あら?飛鳥様と、舞衣様?」
曲がり角の向こうから数名の令嬢たちが現れた。
や、やばい!
飛鳥様も察したらしく、ビクゥッ!!と肩を震わせる。
「ま、舞衣さん……!」
「飛鳥様、落ち着いてください」
「でもわたくし今、『→』を信用できなくなっていて……!」
ああもう!最初から最後まで何を言ってるんだこのポンコツは!
「とりあえず私に話を合わせて」
令嬢たちが近づいてくる。
フフ、この程度のピンチなど可愛いもんですわ。
わたくしが何年飛鳥様のポンコツに付き合ってると思っているんですの。
「飛鳥様」
「は、はい」
「導線確認はそろそろ済みましたでしょうか?」
「どうせん?」
「『導線確認』でございます」
乗ってください。
どうか空気を読んで。
飛鳥様の瞳がしばらく泳いだ末、スッ……と目を伏せた。
「ええ。災害時を想定すると、避難経路の確認は重要ですものね」
キタ!
「まあ……!」
「流石、飛鳥様!そこまで先を見据えて行動なさるなんて……」
ご令嬢方が感嘆の声を漏らす。
全然違います。このポンコツ子羊は矢印が信用できなくなっていました。
このツッコミも訳が分からないですよ、自分で言っててなんですが。
もう飛鳥様には、感覚で校内配置を覚えるよりも完璧に校内地図を暗記してもらう方がいいかもしれないですね。
「飛鳥様、放課後少しお時間よろしいですか?」
「……はい?」
放課後。
夕日の沈みかけた一条邸の客間に、その広すぎる空間を持て余すように私たちはポツンと座り込んでいた。
「これが校内全体の地図です、初等部だけでいいので暗記してください。飛鳥様は歩いて覚えるよりも図で暗記した方がおそらく早いです」
「こんな事しなくても分かりますのに。まあ一応、頭に入れておきますわ」
なにを生意気なこと言ってるんだ?このポンコツ子羊め。
沈みかけの夕日がちょうど私たちを照らしていて少し眩しい。
扉を閉じるべきかと飛鳥様の様子をチラリと見てみる。
集中しているのかその紫紺色の瞳は軽く見開かれ、夕日に照らされると淡い紫色に輝いているように見えた。
──────綺麗、だと素直にそう思った。
それは、目が離せなくなるほど神秘的だった。
「ふふ、そんなに見つめてどうしたんですか。照れますよ」
「……あ、す、すみません、暗記の邪魔しちゃいましたね。どうぞ続けてください」
「そんなのもう記憶できましたわ!」
「早!?本当に!?」
まだ2分くらいしか経ってないけど……
飛鳥様はエッヘンという効果音が付きそうなくらい自信満々に言ってる。
まあこの人元々頭は良いしな……ただポンコツなだけで。
「ならもう迷子にならないでくださいよ」
「ふふ、迷子になっても舞衣さんがいれば大丈夫なんでしょう?」
あれおかしいな。
さっきまで神秘的なまでに綺麗な美少女がいたはずなんだけど、今私の目に写ってるのは普段と変わらないポンコツお嬢だ。
ふと鞄の中のケータイに着信音が鳴る。
「……っと飛鳥様、すみませんがそろそろ家の者が迎えに来るそうなので、本日はおいとまさせていただきます」
スマホのメッセージアプリに連絡が入っていた事に気が付き、慌てて帰る準備をする。
「あら、泊まっていってもいいのに」
「ふふ、ご冗談を。もうそんなの勝手に決められませんよ」
「……そうですわね。今日はありがとう舞衣さん、ごきげんよう」
「はい。おやすみなさいませ、飛鳥様」
別れ際、飛鳥様は少しだけ元気がないように見えた。
まあ初等部だけとはいえ、膨大な敷地の校内図をたった数分で頭に入れるなんて荒業したら疲れるよね。
そんなことを考えながら私は、送迎車の心地よい揺れに寝かしつけられた。




