文学は認識転換のツール? それともただの情報の塊?
文学は認識転換のツールでしょうか?
それともただの情報の塊なのでしょうか?
どこかで養老孟司氏が「情報とは固定され、変化しないもの」と定義していましたが、現代は情報の移動は流動的になる一方、情報そのものはとうぜん変化しないので、ものに対する観点自体がひっくり返されるような体験はしにくい。
それに文学をやっているより理数系の学問をやっているほうが見方は変わるかもしれない、という意見もあるでしょう。しかし私は、これはそうではなくて、文学も科学も(その他もろもろも)一つの観点でしかなく、重要なのはそれらを統合する体系を造り上げることと考えます(もちろん誰か一人がやる仕事ではないし、下手に理念化してもすぐに社会に「酸化」させられてしまって頓挫するかもしれませんが)。
私見では、人間が小説を万年筆で書いていた時代の尻尾がトーマス・マンだと思う(その後も道具として万年筆で書いている人はいますが)。遅れてやって来た作家といわれます。ある意味では終わらせるために現れた作家という見方もできる。
そしてその次の(何で書いているかというのとはちがう意味で)時代のおでこにいる人がロベルト・ムージルではないでしょうか。
ムージルの提唱する概念「可能性感覚」についてはたびたび検討しなおしているのですが、「存在するものを存在しないものより重要視しない能力」という作者自身の定義を見つけ、いま現在の解釈としては「世界を存在と非存在の集合としてとらえる」と考えています。これは他に読んだ書物の内容と統合したところもあるのですが、埴谷雄高などの問題意識とも近しいものを感じています。
いま現在の私にとっての問題意識は、存在と非存在の分離(解体)にあります。プルースト、ジョイス、その他……文学の解体業者たちは熱心に解体作業をしてきましたが、「存在と非存在の分離」という固定観念こそを解体するにはどうすればよいのかという問いです。つまり解体することが結果としては統合することであるという仕組みです。もっともこの認識は流動的なので寝て起きたら違うことを言っていると思いますが(笑)。
彼の作品のうち、『特性のない男』は、『愛の完成』よりもまだ捉えやすい書き方ですので、それこそご興味とお時間があれば一巻くらいは読んでもいいかと(面白かったら次の巻へ……)。
ちなみに、『特性のない男』は長編の書き方としてはこれ以上ないほど悪い見本なのかもしれません、作者の理念(愛の千年王国)が、それ自体の不可能性によって小説の完成を阻害しているからです。もっと悪いのは、その理念こそが「可能性感覚」それ自体を破壊しかねないものだったかもしれないことです(作者がもっと長生きしていたとしても、やはり完成しなかったかもしれない)。
といっいいつつ、これも「可能性感覚」の前ではあまりパッとした仮説ではないかもしれない。
しかしムージルという作家自体を私も捉えきれておらず、なんというか、長く付き合うには相応しい作家とは思っています。曖昧な結論しかだせず申し訳ありません。




