#09 微熱視線
「あー、もう……かっこつかねぇ」
嘆くみたいな言葉は木瀬くん自身の手に遮られて、ひどくどもって聞こえたけれど、彼の心情もわかる反面、やっぱりおかしくて少し笑ってしまった。
どしゃぶりの中を駆けつけてきてくれた木瀬くんに、どれほどしがみ付いていただろう。雨の冷たさを無視してその心地よさに浸っていられたのは長い時間じゃなく、どちらからともなくぶるりと体を震わせて、とにかく私の家に行こうということになった。
いきなり実家というシチュエーションは私だって気の毒だと思ったけれど、幸いと言っていいものか、父も母もいない。普段よりは敷居が低いはずだった。
バイクを手押しする木瀬くんと自分の真上に傘を差し、家に辿りつくまではどちらも喋らなかった。気恥ずかしい気持ちが大半だった中で、沈黙も苦ではないと感じる部分もあった。
家に着いたらまるで予見でもしていたみたいに壮太が待っていて、大ぶりのバスタオルを渡され、風呂にでも入ったらと勧められた。恐縮する木瀬くんをお風呂場に案内し、私も入れ替わりでシャワーを浴びて、一回り小さい壮太の服を身に着けた木瀬くんに温かい飲み物を出したとき――それに気づいた。
『木瀬くん、具合悪くない?』
「俺、病弱な印象になってませんか?」
「なってないよ。今回のことは仕方がないっていうか、私が悪いんだし」
体温計では三十七℃と少し。平熱が高めだという木瀬くんにしてみれば微熱らしいけれど、さすがに責任を感じて客用布団に寝かせた。
その事実を知った木瀬くんは体調とは関係なしに顔を青くして、とにかく落ち込んでいる。
「雨くらいで……」
「降り出してから三時間も浴びてれば当然でしょう」
その時点で木瀬くんが走り止めなかったからこうして二人でいられるのだとわかっていても、その無茶には少しだけ呆れる。木瀬くんの印象が変わったくらいだ。ここまで粘り強い性格だとは思っていなかった。
どんなに木瀬くんが自分を情けなく思っても、私にしてみれば自分にはもったいないくらいにかっこいいことをしてくれた。だから、それでいいじゃない。
「ありがとう」
「ん?」
「来てくれて嬉しかった」
「はい……必死だったんで」
「無理させちゃってごめんなさい」
「いや、俺が会いたかったからです」
何だか恥ずかしげのない言葉をすらすら言うようになっている木瀬くん。やはり熱のせいかな。それとも変に開き直ったのかな。それは後日、体調が万全のときにしかわからないことだけれど。
ただそのストレートな物言いが、彼の微熱を私に移す。頬に感じる熱さに、私は小さく息を吐いた。
「理香先輩、顔赤い」
「そういうのは気づいても黙っとくものでしょ」
「いやいや、追求するもんです」
「……けっこう木瀬くんってイイ性格ね」
「理香先輩は、けっこう面倒くさくて泣き虫ですね」
「良いとこナシ?」
「可愛いって言ってんですよ」
ああ、駄目だ。降参。
例え彼の体調が戻っても、私はきっとこうやって翻弄される気がしてならない。一つだけとはいえ、年上のプライドがあるからそうそう根を上げたくないのだけど……木瀬くんは私の敗北宣言を聞くまで徹底しそうな気もする。この先が思いやられる。
「それだけ喋れるんだから元気なのよね」
「平気ですよ」
「でもちゃんと寝てね。今日は泊まって行く?」
「え……」
「大丈夫よ。病人扱いだから」
きっと一瞬のうちに、私の両親のこととか実家であることとかが駆け巡った木瀬くんの脳内が透かし見えるようで、本当に酷なタイミングだなと他人事のように思った。
「え、いや、でも、まずくないですか……?」
「熱あるまま帰す方が問題あるじゃない」
「いえそんな! なんとかします!」
「なんとかって……」
「――いろいろ限界です」
「我慢」
気の毒だとも思ったけれど、私の最終通告に木瀬くんは呻きながら反論を諦めた。今は微熱程度でも時間が経てばまだ上がるはず。
母親には一応電話しておくとして、同じくらい衝撃を受けそうな父親を思うと、不安なようなちょっと楽しみなような……。病人同士で通じ合ってくれないかなとか、間抜けな想像をして一人で笑った。
それを見た木瀬くんが、どこか拗ねたようにそっぽを向く。
「……先輩は良いですよ、自分の家なんだから」
「ごめん。ちゃんと私から説明しとくから」
「本当に頼みます……俺いま、上手いこと脳みそが働く自信ないです」
「任せなさい」
いまから緊張で固まってしまいそうな木瀬くんに失笑しつつ、いろんな意味で弱った姿が可愛いと思ってしまう。ああ、半年前との共通点だ。あの日も同じように思っていた。妙に晴れ晴れとした気分だったのを覚えている。楽しくて幸せで――きっと今も。
「……で、なんて説明するんですか?」
「んー、付き合い始めは少し前で、木瀬くんが私を心配して来てくれたことにしようか」
さすがに今日の今日、そういう関係になりましたとは言いづらい。壮太だけには口裏を合わせてもらわなきゃいけないだろうけれど、賢いから勝手にそうしてくれそうな気もする。
「やっぱり“理香さんとお付き合いさせていただいています”、ですかね」
「……」
「先輩?」
「もう一回言って」
「理香さんと付き合いさせていただいています」
「ふ……」
思わず笑み零れた私に、木瀬くんの怪訝そうな表情。私がどこに反応しているのかがわかっていないみたい。
「どうしました?」
「呼び方がさ、」
「“理香さん”?」
「うん、それ。――なんかいいなぁと思って」
私たちは恋人なのだと、実感が湧く。形が作られていく嬉しさがある。
瞬きを数度繰り返した木瀬くんは、確かめるみたいに私の名前を呼ぶ。
「……理香さん」
「はい」
「理香さん」
「うん」
「理香さん」
「ん」
――さらにもう一度、木瀬くんが呼ぼうとしたとき、私は横たわる彼の声を飲み込んでやった。かすかに身じろぎした木瀬くんの肩に手を添えてちょっとだけ体重をかけたなら、大きな掌が私の項に当てられる。
触れ合うだけの唇と、掌と。そこから、私と彼の熱が混じり合う。お互いに目も閉じずに視線を交わして、とろけるような幸せを確認した。あまりの心地よさに、酔ってしまうみたいに。
ここから。これから。何度でも。
私たちはこうして見つめ合って、恋を続けていくんだろう。
END
微熱編、ここで終わりといたします。ありがとうございました。