第92話 Moon lullaby 17
「初めまして、ユリ」
「……え……」
ユリが目を開けるとどこまでも拡がる青い空と白い雲があり、上体を起こすとそんな青い空を鏡で映したような、障害物や草木一本砂粒一粒石ころ一つ無いどこまでも拡がる美しい地面に目を奪われた。
そんな場所のど真ん中にポツンと佇む医療所のベッドの上にいることを自覚すると、そのユリの前に女性の姿をした裸体の何者かが現れ、ユリに話しかけた。
驚いて小さく開いた口が塞がらない……何故ならば目の前にいる「その者」は、ユリと全く同じ姿形なのだから。
「やっと来たか、待ちくたびれたぞ」
声まで同じだったが、喋り方や表情の浮かべ方はまるで別人だ。
「……もしかして私……死んだんですか?」
「何故そう思う?」
「いや……なんとなく……」
この世のモノとは思えない景色、目の前に佇む自分と全く同じ誰か、妙に軽くどこも何にも患っていない自分の体、なのにこれ以上体は動かない……ユリのそんな考えに至るには十分すぎる情報量だ。
「……ここはお前の心の中だ、そして私はお前の心そのもの、夢とでも捉えればいい」
ベッドから少し離れた位置に1人立ち、ユリにこの場所の真実と自己紹介をする。
「……私は、心ある全ての生き物の心でもある、私自身はその数だけ存在するが、ここの私はお前の味方だ」
「……えっと……」
用意されたかのような流れるように口から出る「その者」の言葉を、ユリは全く理解出来ない。
心?夢?何も分からない……ただ自然と、納得だけはしてしまう。
「確かに私がいる生き物が死ぬ際に、私は私から姿を現す……しかし今回はお前自身がここに来たのだ」
「私……自身が?……」
まばたきの瞬間に「その者」はベッドの前から左横に移動しており、ユリと同じ方向を見て話し続ける。
「ここに意識的に入れる者は限られている……まあクルエルはすんなり入れる、私が勝手に特別扱いしてるからな」
「どうして私は……ここに入ってしまったんですか?……」
「生きたいと願っているからだ」
「……生きたい……」
さらにまばたきの瞬間に左横から右横に移動した「その者」は、ユリの目を見てユリの心を打ち明け始める。
ユリはその視線を、何かに強制されている訳でも無く外せなかった───。
「思春期のお前は、未発達な精神ながら誰にも打ち明ける事無く、ただただ死にたいと思っていた」
「……どうして分かるの?」
「お前が生まれた瞬間から私はいるんだ、全て把握している……死にたいと思うも死にきれない、まだ自分はやりたい事がある、けど出来ない……とりあえず誰かに心配されたいから色々やって、それでも成果は出ない」
「……やめて」
背きたい過去という訳では無いはずなのに、何故か胸の内に強く、より黒く、のしかかるような重圧を襲った。
「そこに突然現れたハロドック・グラエル、訳も分からないまま外に出て、そこには自由と満ち溢れた希望が広がっていた……その時海にも映っていた美しき満月は、お前の道しるべにすらも思えた」
「やめてよ……」
責められている訳では無い、睨まれてもいない……ただ過去を振り返るだけなのに、心にしがみついて離れない強い恐怖感に襲われる。
「しかし現実は残酷、ただ用を足しただけで襲われ、そこに助けに現れたのは期待した者ではなく、何一つ素性の知らない者だった……助かったのはいいが、信頼する者は囚われ、とんでもない絶望感を覚えた」
「やめてやめてやめてやめて……」
ここには自分と「その者」以外誰もいないはずなのに、声がする、見える……それが何なのか、説明のつかないままユリの目から光が失われていく。
「そしてその者が助かれば今度は無理やり引き剥がされた、あまりにも突然の別れに止めどない悲しみが込み上げ、生まれて初めて自分に自身が持てなくなり、より一層死にたいという感情が」
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて……やめて!!!!やめてよぉ!!!!」
両耳を両手で塞ぎ、怯えきった目をして俯き、大きな声を出して「その者」の言葉を遮った。
「過去を振り返る事すらも受け付けないのか……目の前で無惨な死を遂げた兄の姿が、脳裏から離れないだけか?……お前は今心と対話している、普段よりも脆い、そして正直だ……
───お前は、《嫌なこと》と《好きなこと》を綺麗に差別化しすぎて、向き合えていないんだ」
無意識的に心の内で行っていた自らの行為を、全て見抜いている口ぶりでユリに言い渡す。
「その者」がユリの心である事は、間違いないと証明された。
「わたっ……私は……そんな……こと……」
涙が止まらない……どういう意味での涙か分からないが、どれだけ拭ってもどれだけ堪えようと溢れ出る涙。
心と向き合う事は精神をすり減らす事、何と対峙するよりも恐ろしく……そして悲しい。
瞬きすればベッドの自身の足元に移動している「その者」に抗う魂の火も向けられなくなり、ユリは無力なまま涙を流し続ける。
「……間もなくお前は死ぬ、それが私には分かる」
「っ!!?」
既に手の施しようの無いほどに流行病に冒されたユリの肉体に、心が気付かない訳が無い。
「……嫌だ……死にたくない」
突然目の前に現れた、生きとし生ける誰もが生涯最大の恐怖とする「死」……絶対を前にすれば、人は自ずと本音を吐露する。
「そうだろうな……意思とは後の方が正しい、だから尊重する……だから腹を括れ、お前は歴代継承者のクルエルの中でも心が弱い……
……死ぬ前に、迷いを捨てろ」
「───」
考えて考えて考えて……自分がやり残したことは何だ?当然数多あるが、その中で絶対的なモノは何だ?それさえ叶えたなら、死んでも悔いの無いモノは何だ?
10秒近く探し出した末に見つけた、唯にして一の最大の願い──気付いた途端に涙はピタリと止まり、虚ろな目に光が宿り、ベッドのユリの足元の位置に立ちユリを見下ろす「その者」を見上げる。
「お前が死にたくない理由は何だ?」
「……ルナ」
「ルナ?……」
「───ルナの……成長が……見たい……」
一切の陰り無き晴れやかな顔、それはこれまで歩んできた未熟な少女ユリの爛漫な笑顔ではない……使命と責任を負いながらも自由を知り心を知り、愛を知った──母親の顔だ。
笑みは浮かべない、現実はまだ受け入れきれない……だが口にしたルナへの思いに一切の偽りは無い。
「……他は?」
試す「その者」は、凛々しい顔をしながらもまだ言葉を言いたそうにするユリに、不敵な笑みでさらに言葉を求める。
「ルナの声をもっと聞きたい、ルナの好きなモノいっぱい食べさせたい、ルナの笑う顔もっと見たい、ルナと色んな所に出掛けたい、ルナと話して、時には喧嘩をしても、時間をかけて分かり合いたい……
……もっと抱きしめたいママって言ってほしいいっぱい遊びたいいっぱい学びたいいっぱい泣いていっぱい苦労していっぱい悩んでいっぱい笑って……一緒に……笑い合って生きたい───生きたいの!!!!!」
ここは心の中、普段よりも感情に過敏で、そしてこれまで蓋をしていた自分自身に向き合え、思いの丈を誰よりも自由に叫ぶことが出来る。
さっき止めたはずの涙が再び瞳を濡らし、歯を食いしばり嘔吐きを抑えながら、布団や服の胸の辺りを握りしめたりして心を打ち明けた。
「なら、死にたい理由は?」
「……そんなの無い」
「いやある、私に嘘はつけない」
「……言いたくない」
「言え、「死」に悔いを持って行くな」
「───」
───ユリはしばらく泣いた。
その後落ち着きを取り戻すと、涙を両手でゴシゴシと拭き、真剣な表情で「その者」の目を見た。
「言え」
「……無責任な責任から……逃れたい」
「ほう」
「……クルエルの血……〝ホシノキズナ〟の継承者……娘……妹……逃亡者……ユリ様……ユリ……ママ……
……私が生きててもらった……私の存在意義……私の外から勝手に意味付けされた《無責任》に……それを受け入れてその姿を振る舞う《責任》から……逃れたい……」
叶うならば、欲しいモノを欲しい部分だけ持って後は捨てたい。
得たかった自由を得た、当たり前にあった愛を知った、初めて人を愛した、自分の命よりも大切な命を授かった。
たった数年、生きてきた時間に比べたなら短く小さなモノでも、それでも生きてきた人生で最も濃密で〝大好き〟に溢れた時間だった。
だからこそ、代償なんて欲しくないと気付く。
たとえ子供という責任が命よりも大切であっても、母親という役目から逃げ出したいと思う日々は少なくなかった。
それでもハロドックに支えてもらい、ルナの笑顔に癒され、街の人達にも助けてもらい、無知で無力な母親がいつしか人々から愛される者となっていった。
だからこそまた責任が生まれる……延々と続く責任という呪縛から解き放たれたいと、ずっと思っていた。
「どこに逃れたい?」
「どこでもいい……私が私で在れるなら……どこだって……」
「その先が、死か」
「……よく分からないけど……そう……なのかも、しれない……」
「心は平等だ……その死にたいが、どれほど大きく、強く、絶望的であろうと、1はどれだけ足掻こうと1だ……言葉に表せないほどまである数億数兆の生きたいには勝てない……
───よくやった、己の心を赤裸々に出来る者はそうはいない」
全くの同じ顔で全くの同じ手の誰かから頭を撫でられ労われるというのも変だが、「その者」は微笑んでユリの顔に近い場所でしゃがみ、優しく頭を撫でる。
同じ容姿同じ声なのに、ユリは別の誰かから包み込まれるような風に抱かれた気分になり、温かい優しさに思わず微笑む。
「……あの……」
「まだ何かあるのか?」
撫でる手を止め、互いに眼差しを向き合わせる中でユリは少し照れくさそうに声をかける。
「……あなたの……名前は……なんですか?……」
「……お前じゃない」
「え?……」
「それを教える器はお前じゃない、お前に私の〝?????〟は渡せない……にしても変なモノだな、自分の心に名前を問うなんて」
何かとてつもなく重要な、それが例えこの世の何よりですら代えられない何らかの言葉を言った気がしたユリだが、それがはっきり聞こえず、脳内で変な音が鳴った。
「……そっか……ありがとう」
「感謝される覚えは無い、腹を括れたのはお前自身の力だ」
「そのきっかけを作ってくれた、ホントにありがとう」
その一言を言った瞬間にユリは全身に力が入り、足をベッドからぶら下げベッドから降りようとした。
ユリが右足の親を地面に付けると、そこから水のように波紋が広がっていった。
それを見ると少し驚き、同時に微笑み、両足を付け10メートルほど離れた位置にいる「その者」の前に歩み寄った。
「……なんか、自分の心に感謝するのって、確かに変な感じだな、ははは……」
「戻るのか?猶予は長くはないが」
「それでも構わない、私の人生に、少しの悔いもありません」
「……救いの手は幾度差し伸べられようとも、その手に届くか否かは、運命が決める……それらを背負えるのか?」
「きっと掴んでみせます」
「……ひとつ言っておこう、それから行ってこい」
「…何?」
「───生きろ、誰がためにでも無く、己のために」
─────
────
───
──
─
「まま……」
「……ル……ナ……」
細く目を開けたユリが最初に見た光景は、自分体に乗り上げ、幼い右手で自身の鼻を触るルナの顔だった。
「えへへへへ!まま!」
「……ルナげほっげほっ……ごめんね……ずっと寝てて……」
「ユリさん?」
花瓶に生けるために新しい花を持って部屋に入ってきた看護婦が思わず花を落とし、ユリの元に駆け寄った。
この看護婦とはこの街に暮らし出してからルナの事でものすごくお世話になり、友達同士となっている。
「大丈夫なの!?」
「……結構……楽で……げほっげほっ!……」
激しく咳き込むユリを心配そうに見つめるルナをユリの上から抱き上げてどけ、看護婦はユリの顔に近付き呼びかける。
「ホントに奇跡的だよ!よく起きられたね!」
「……どれくらい経ってますか?」
(あれ……そういえば右目が見えない……左足……あるよね、感覚無いだけ?……でも何で……)
リミルがハロドックに放った言葉に嘘は無かった……理由は不明だがザルブかぜの症状には無い身体機能の一部不全に違和感を覚える。
「1ヶ月だよ、ちょうど」
「……そう……げほっげほっ!!」
「ああ、無理しないで!……」
何とか上体を起こそうと力を入れるが、思うように体は動かず、さらに咳で力が削がれ仰向けのままのユリ。
「……は……ハロドックは……」
「……あっちこっちに行ってる……治す方法を見つけるために……」
「……そっか……げほっげほっ……」
すると違う看護婦がユリの部屋を勢いよく開け、激しい呼吸を落ち着かせてから驚愕の表情を浮かべて3人を見た。
「た、大変です!!!!───ルブラーンの軍が!!!……ここに!!!」
「……え……」
救いの手は幾度差し伸べられようとも、その手に届くか否かは、運命が決める。
誰かが言ったその言葉をユリは、その時突然思い出す───。
今回初登場の「その者」ですが、もしかしたら今作品ベイルやアリシアよりも重要なキーキャラクターとなります。
「その者」が出てくるとこの物語は大きく動き出すと言ってもいいでしょう。
もちろんそんなに頻繁に出てはきませんが、どうぞよろしくお願いいたします。




