スタシェルシュヴァイン 最終節
十五時三六分。
私とヴィーシャは食事を終え、食後の珈琲を淹れていた。
「どうだったかな、男の手料理は。それなりに自信はあったんだが」
「はい!とってもおいしかったです!またこのガルブツィーを……いや今度はペリメニかな……うーんボルシチも捨てがたい……」
ヴィーシャはうんうん唸りながら、既に次のメニューを頭の中で巡らせていた。それは、今まで見たことのない姿で、けれども年相応の愛らしさを纏ったものであった。ふと私の顔を見てから、彼女はその動きと表情を止め、私の方をじっと睨む。
「ど、どうしたんだい?」
その宝石のように青い瞳が、私を真っすぐと見つめるものだから、私はあまりの気恥ずかしさに、視線を外してしまう。
「なんで先生、笑っているんですか」
少しむっと膨れながら、私に珍しく悪態をつく。その言葉を聞いて、つい先ほどまでの私の口角が、緩やかに吊り上がっていたことに気付く。
「あ、いや、なんだか今日は色々珍しいヴィーシャが見れるな、と思ってね」
今度は彼女が私の回答によって、自分の言行を振り返ることになった。彼女は恐らく醜態を晒したと思っているのか、泡を食い、取り乱した。
そんな姿もまた、珍しいのだが。
「ヴィーシャ」
一言声をかけ、彼女の狼狽を制止する。
「今日は楽しかったかい?」
「はい、とても!」
一通りの後片付けを済ませて、エレベーターを降り、一階のフロントへ。
タイムリミットが迫る中、私は名残惜しく、彼女ととりとめのない話をしていた。きっとこれが最後になる。そう思うと、このまま研究所へ帰るのが辛かった。しかし決断はせねばならない。私は彼女の心に潜む唯一の黒い闇を知っているのだから。彼女にこれ以上いらぬ重荷を背負わせる必要ない。
「じゃあ、ヴィーシャ。そろそろ帰ろうか」
外は幸い雪の勢いが弱まっており、白い街は今や夕日の橙に染まっていた。
「はい、先生!また来ましょう!きっとよ!」
彼女は私がこれからどういう運命にあるのか、そんなことは知らないし、勿論伝える気もない。そもそも今回の一件を、彼女は正式な許可が下りたものだと思っているのだから。
「ええ、”必ず”。”近いうちに”」
思えばヴィーシャに嘘をつくなんて初めてだったかもしれない。ああ、今日は初めてのことが本当に多い。
「さ、では帰り……」
“あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない”
神の教えにこんな言葉があるが、であれば私は罰せられるべきなのだろう。
私の言葉を遮ったのは、神が起こした大地の怒りであったのだろうか。
十六時十分。
長きにわたって続いていた強い揺れがようやく収まる。立っているのすら不可能になるほどの震度で、少なくとも地震の多発する私の国でも、滅多にないような規模の地震だった。頭を上げると、目の前に広がる光景はまさに地獄だった。この国はそれほど地震が多い国ではないし、ましてやこの規模のものは殆ど想定されていないだろう。昨今の建築物はそれなりにどの国も丈夫には出来ているが、生憎今回の地震で生き残った建物は皆無だった。建物のガラスは割れ、あちらこちらに散乱し、一部の建物は自重を支えきれずに、見る影もなくなっていた。
「ストラヴィンスキーの個人研究室に向かう!一人はここで車の番を。私が帰ってきたらすぐに出発できるようにしてくれ!もう一人は先ほどの公園近辺を捜索してくれ。もしかしたらまだそこに残っているかもしれない」
二人に言葉を残し、私は一心に走り出した。研究室はそれほど遠かったわけではないが、道端に散らばった大小さまざまな破片の為に、移動にはかなりの苦労を要した。到着したころにはすでに一六時三〇分を過ぎていた。移動と同時にアラドカルガの本部に連絡をし、今回の事態の概要を伝えて、救援も要請したが、どうやらすぐさま行動でき、かつ私を除いてこの場所へ二時間以内に駆けつけられるものは不在のようだった。こんな時、私たちには動かせる下部団体があるわけだが、場所が場所の為に、それすらも望めそうもなかった。
「ようは一人でなんとかするしかないんだな……」
そうつぶやいたのは、目の前にある、かつて研究所だったものの瓦礫の山を見た時だ。建物は周りの建築物と比べてもやや高く、またその崩れ方も、他の建築物が真っ平らになっているなか、ここだけは斜めに傾き、一部が倒壊しているだけだった。その崩れ落ちた瓦礫は建物周辺に山積みになっていて、これがまた人の接近を許さぬ障害となっていた。他の建築物より状況は良いとはいえ、一階二階は殆ど潰れており、もしここに二人がいた場合、生存確率は極めて低いだろう。生体反応はその中からは検知できない。障害物が多過ぎるからか、それとも……。
いや、今は考える時間はない。今は動く時だ。研究室だったものを、一つまた一つと取り除く。しかしまるでこれは将棋崩しだ。一つ瓦礫を取り除こうとした時、建物そのものが揺れているような気さえする。慎重に慎重を重ね作業を進め、もう三十分近く経つというのに、未だ建物内部にすら侵入できない。生存は絶望的、これ以上作業を進めることにどれだけ意味があるのか。むしろ周りの人間達の救助を行った方がより多くの命を救えるのではないか。刹那の逡巡に手を止めかけるが、迷いを振り払い、再び仕事を続ける。
忘れてはならない。我々アラドカルガは「神に愛された子ら」を守るために作られた「鉄血の奴隷」に過ぎないことを。
ようやく瓦礫の山を取り除き、建物の入り口が見えかけた、そんな一筋の光明が差し込んだ時だった。
大地は再び唸りをあげ、わずかながらの希望と共に、そのジェンガはバランスを失い、跡形もなく崩れ去った。
時間などわからない。
瓦礫に覆われ、先ほどまで橙色に染まっていたフロントは、灰色の闇に覆われていた。フロントのガラス戸は跡形もなくひしゃげ、出口は瓦礫に塞がれている。ヴィーシャは大きな怪我をしてはいないが、私は先ほど落ちてきた天井から、彼女を庇った際に右足を巻き込み、恐らく骨折した。不幸中の幸いか、歩けなくなるほどの重傷でこそなかったが、激しい運動は恐らく不可能だろう。
「ヴィーシャ、大丈夫かい?」
外見からは目だった怪我こそ無かったが、万が一ということもある。腕に抱えていたヴィーシャに声をかけ無事を確認する。
「はい、先生は?」
「ああ、”大丈夫だ。少し足をひねっただけだから”」
何度目かわからない嘘。今日だけで一生分の嘘をついた気分だ。
しかしそれで彼女を鼓舞できるなら、私は何度となくこの罪を重ねよう。
「出入口は塞がれているみたいだ……救助を待つ……のは期待できないかな」
「じゃあ、どうしますか?このままじゃ……」
私たちのいる空間もいつ崩れてしまうかわからない。かといって下手なことをすれば、その崩落を助長しかねない。建物内部の方には道が開けているが、そちらに進んだからといって、出口があるようにも思えない。だが一つ安全な場所があることを見落としていた。
「ヴィーシャ、少し肩を貸してくれるかい?」
「え、大丈夫ですけど、移動するんですか?」
情けないが、ヴィーシャの手を取って立ち上がり、肩に腕を回す。
「この先に地下シェルターがある。とても丈夫でね。核兵器が落ちたとしても、中にいれば無事に生き残れる代物さ。入口が塞がってなければいいが」
肩を借りながら、今にも崩れてしまいそうな道を行く。あちこちで小石のようなものが転がり落ちる音や、水が滴る音が聞こえる。救助も要請したいが、生憎先ほどの衝撃で私の携帯端末は故障していた。
ゆっくりと慎重に歩みを進め、目の前に自身の影響でひしゃげた扉が現れた。
「さ、この扉の先にシェルターがあるが……ヴィーシャ少しだけ離れてくれるかい?」
ドアノブが回らなくなった扉を、少し勢いをつけた体当たりでぶちあける。扉は意外と簡単に開いた。その先にはこの研究所ではない、ヴィーシャが元いた施設と同じような、重厚な金属の扉があった。この扉にもまた、近くに操作端末が付いていた。
「よし、端末は問題なく動く。さあ中に。もしかしたらここもそう長くないかもしれない」
端末を操作して、扉を解除し開くと、その中には下へと向かう階段があった。
「ここを進むよ。暗いから気を付けて」
この時、勿論今後の懸念についてはあった。このまま下に降り、救援を待つのは本当に適当だろうか?最悪の事態はいくらでも想定できる。だが、今の私たちにできることは他にあるのだろうか?どれだけ考えようと、何が得策なのかなんてわからない。しかし、少なくとも私自身はもう、
この命を諦めるべきなんだろう。
階段を降り切ると再び鉄の扉があり、それは上のものよりもはるかに重厚で、遥かに巨大だった。私はこの扉も端末を利用して開放し、中に二人で入った。
「ねえ、先生」
その部屋は、鉄の壁に囲まれ、その中央にベッドが一つという質素なものだった。私たち二人はそのベッドの上に腰かける。
「どうしたんだい、ヴィー……」
いつものやり取りを続けようとしたその時、世界が揺れ動く。
きゃっ、と小さく悲鳴を上げ、私にしがみつく。先ほどの地震よりも遥かに弱いものだったが、死にかけの研究所に引導を渡すには十分だったようで、上の方でけたたましい爆発音にも似た轟音が鳴り響いた。
「良かった。ここにきて正解だったかもな……」
一通りの揺れが終わった後に、ほっと一息をつく。私の安堵とは対照的に、ヴィーシャの表情は未だ恐怖に満ちていた。
「大丈夫だよ、ヴィーシャ。ここは決して……」
「違うんです!」
私の声を遮るように、大声を出すヴィーシャ。彼女の瞳はほんのりと濡れていた。
「今何時ですか!?さっき十六時くらいでしたからもう十七時……。だとすれば私たちに残されている時間は二時間程度しかありません!仮に今救出されて、研究所に急いでも間に合わないし……。それに、それに!もし助けが来なかったら!来なかったら……私……先生を」
怒りながら、泣きながら、そして憐れみながら、様々な感情を私にぶつけてきた。
「ヴィーシャ、大丈夫。本当に大丈夫だから」
「もう殺したくない……もう殺したく……ない……」
「ヴィーシャ!!」
狂乱しかけていたヴィーシャを、こちらに呼び戻さんと、大声で彼女の名を呼び、体を強く抱きしめた。
「大丈夫……。ほらこれを見てごらん?」
「え?」
耳元で囁くように、彼女を諭すように、コートのポケットから一つの注射器を取り出す。
「これは……?」
「”何、予備の対抗薬だよ。今日使った二本と違って、これはいわば試験品だそうだが、効果時間が少し短いだけで、効能そのものは遜色ないものさ。これでおおよそ三時間は効果を伸ばせる”」
「え?本当に……?」
こくんと頷き、彼女と見つめ合う。照れくさいが、今はこうして向かい合う時だ。
「良かった……それなら……」
注射器を手に取るヴィーシャ。その薬を見つめ涙を流す。彼女はそれから少しして落ち着きを取り戻し、今は私とシェルター内に食べ物や飲み物が無いかを物色しているところだ。
ああ勿論この薬は、対抗薬なんかではない。所謂静脈麻酔薬だ。導入からの効果時間が長いのに、その副作用が弱いことで有名なもので、我々も普段からよく使用している。そう、今日彼女に睡眠時の実験をする、という名目で連れだすために、ダミーで持ってきただけに過ぎない薬だ。
最悪の事態になれば、この薬を彼女に投与する。勿論ヴィーシャは睡眠時であろうと、ウィルスを発生させ続ける。決してこれは私が助かる道なんかではない。そうこれは単に彼女を救うためのものにすぎない。もし彼女が再び自分のせいで人を殺してしまったとしれば、きっとまた背負わなくてもよいものを彼女に課すことになる。そんなことはごめんだ。仮に死ぬなら、私は彼女の目の届かぬところで死ぬ。
ああ、最初はここにヴィーシャ一人を閉じ込めて、私が一人、外で助けを待つ、というのも良案かと思った。しかし結果論から言えば、上の建物は崩れ去った。仮に私がその案を取っていれば、間違いなく今こうして彼女の前で話すことはできなかっただろう。仮に救助が薬の効果が切れる前に間に合ったとして、そしてその救助が、十九時前、薬の効果が切れる前に間に合えば、私も含め、皆が命を落とさずに済むだろう。この街の人々をあらかじめ避難させ、施設にいる人間達が全員遠くに外出、もしくは防護服を着れば問題なく彼女を『帰宅』させることができるだろう。それならこの麻酔薬も使わずにすむ。
そして仮に救助が十九時を過ぎる、つまり薬の効果が先に切れてしまった場合だが、恐らく私は死ぬ。というのもこのシェルターの扉を先ほど確認してみたところ、もう中から開かなくなっていた。いやそもそもロックすら開錠出来なかった。先ほどの建物の倒壊が原因だろう。このシェルター内には、この重い鉄扉を力づくでこじ開けられるようなものは、勿論存在しない。私はまだ良い。それ以上にこの鉄扉を開けた時、放たれたウィルスがどうなるかが問題だ。
可能性は低いだろうが、もしこの扉を開けた救助隊が、ヴィーシャのウィルスを防げる防護服を着ていなければ、そしてもしまだ住民の避難が完璧に済んでいなければ、多くの犠牲者を出すことになる。とはいえこれはアラドカルガがしっかりと根回しをしておけば恐らく大丈夫だろう。だが可能性はゼロというわけではない以上、そして私の死が確定している以上は、その死にヴィーシャを直面させるわけにはいかない。一九時を過ぎようかという時は、この薬をヴィーシャに打ち込み、全てを見ないようにする。あとは適当に失敗した時のストーリーを、アラドカルガの者たちに考えさせればいいだろう。
恐らく猶予時間は残り一時間程度といったところか。そろそろ覚悟を決めねばならないな。
一八時〇二分、無情にも時間は経過する。私は既に崩れ落ちた建築物の発掘作業を進める。公園へと向かった研究者からは、あの二人がどこへ行っても見当たらず、また近場の避難所にも詰め寄ったが、そちらの方でも見かけなかったとのこと。避難している人々の情報も逐一収集し続けるものの、あの二人の情報は全く見当たらない。やはり彼らがこの研究所にいた、いや”いる”可能性は高い。彼等にはこれ以上出来ることもないだろうと踏み、雪原の研究所へと戻るように指示を出す。また避難をしている人々に、とある世界的な医療機関を装って、嘘の通知をこの地方の救助隊たちに送信する。
『この地震で、街の中心の研究機関の、危険薬物が流出した可能性あり。集団伝染も考えられるため、避難している人々及び、救助に携わっている者たちは一時間以内に、研究所から半径二キロ圏外の地域に避難すること』
考えうる最悪の事態に備えながら、瓦礫の山を進み続ける。十八時三二分。もはや猶予はない。未だに生体反応は感知されず、彼らの命は絶望的だった。半ば諦めかけ膝をつく。数時間の間、体を全力で動かしながら、電脳で様々なタスクを同時に進行させていると、この酷寒の中でさえも、脳の奥底が熱を帯び、思考と行動を鈍らせ始めていた。そんな諦観で目を伏せただけであったが、しかしそれが思わぬ進展を呼んだ。
「地下に空間がある……それも金属で覆われた……」
瓦礫が一定量取り払われたこともあってか、先ほどまでは見えていなかったこの建物の地下構造がはっきりとわかるようになっていたのだ。一縷の望みをかけ、この地下空間への入り口を探す。そこへの扉だったものはすぐに見つかった。しかしその扉の先の地下への階段は天井が崩落して、もはや常人が進めるような空間では無かった。しかし幸いなことに私は常人ではない。瓦礫を力づくでその階段内から取り除いていく。だがこれは先ほどの作業以上に労力を要し、頭だけでなく体全身から煙が上がり始める。下に行けば行くほどこの作業は難易度が跳ね上がって行き、結果的に私がどこか見覚えのある金属の扉に行きつくまで、更に三十分をかけてしまった。
「この扉……あの研究所と同じタイプか」
私でも開錠には数十分がかかると予想した鉄扉。扉に隣接しているコンソールはまだ生きてはいたが、結局ロックの解除方法を知らないので、別の意味で無理やりこじ開けるほかなかった。右腕の袖から伸びたケーブルを、端末に接続しハッキングを開始する。扉のロックは何重にも存在し、そのロックを一つまた一つとこじ開けていくが、謎解きを進めれば進めるほど、その難易度は格段と上がって行った。その作業の最中、この扉の開閉履歴に目が留まる。ここ数か月、一度として開かれていなかった扉は、今日の、それも地震発生後に開閉されていた。やはりここにいるのは間違いない。結果的に開錠には数十分かかるという私自身の予想を覆すように、その扉は十分程度で開錠することができた。代償として私の頭蓋が熱で悲鳴をあげ始めたが。
あとは端末のパネルに表示された、”Open”のボタンを押すだけ。しかしふと時間を確認する。
一九時一三分。
この時一瞬ためらったのは、もしかしたらカニンガムの薬がすでに効果が切れているのではないかと考えてしまったから。私はアラドカルガ、メレトネテルを守るためなら命も賭ける。では私と一研究者の命を天秤にかけた場合はどうなるのか。私はストラヴィンスキーの生命は、私の命を賭すに値するかという問いに、答えを出せなかった。頭に思い浮かぶのは、どうやってストラヴィンスキーの命を救うかではなく、どうやってアラドカルガとしての任務を完遂できるかだけだった。
彼女を無事に研究所に送り届けるための方策に目途が立つまで、この街に封鎖体制を敷き続けるか?
あるいはこの鉄塊ごと研究所へと運ぶことはできないか?
かちん。鳴るはずのない分針の音が頭に鳴り響く。
一九時一四分。
貴重な一分の葛藤の末、出した答え。
電子パネルに指を置くと、重厚な鉄の蓋が口を開く。全てが開き切るのを待たず、人一人が通れる程度の隙間に、体をねじ込ませる。
「ストラヴィンスキー!!カニンガム!!無事か!?」
空間内には未だウィルスは蔓延していなかった。よし、これなら後は問題ない。ストラヴィンスキーを救い出し、再びこの扉を閉じてから、先ほど考え着いた案を実行するだけだ。目の前に広がった空間はかなり暗かったため、瞳の暗視機能と生体探知を起動する。すると入り口付近からでもすぐに一人の人間を捉えることができた。しかしその人体は床に横たわり、微動だにしない。
「な、ストラヴィンスキー!?」
空間内の生体反応は一つ、横たわるストラヴィンスキー。最悪の事態を想定せざるを得なかった。そう既に薬の効果が切れていて……
いや、この生体反応はストラヴィンスキーから発せられている。彼は呼吸し、心臓も鼓動を打っている。彼は寝ているだけだった。
「どういう……」
頭の中で整理しきれない事態だったが、真相にたどり着くのにはそれほど時間は要しなかった。
まるで悪い夢だ。睡眠と覚醒の狭間で、私は記憶を手繰り寄せる。
私が最後に覚えている記憶の断片。夢想であってほしいと思う願望と、現実であると冷静に判断する思考がせめぎ合う。
しかし、私は必ず思い出さねばならない気がした。今記憶の楔を打たなければ、永遠に忘却の彼方に送ってしまいそうで、罪の意識と一緒に本当に大切なものを忘れそうで。
…
……
………
そろそろ、決断しなければならない。ヴィーシャは咳込み始めた。何かの持病というわけではない。これは昨日にも見られた現象。薬の効果が切れる四分二六秒前にヴィーシャは咳が出始め、二分五秒前には激しい咳となり、そして三五秒前には咳が止まる。その第一段階であった。つまりあと数分もしないうちにヴィーシャはウィルスを再発症する。
「そろそろ、だね。ヴィーシャ、薬を打とうか」
私はゆっくりとヴィーシャへと近づき、注射器を取り出す。ヴィーシャは咳込みながら私の提案に対して、こくりとうなずく。
「ねえ……先生、今日は楽しかった、ですね」
「あ、ああ楽しかった。少し運が悪かったけどね」
冗談交じりに談笑を交えつつ、ヴィーシャの右腕を持つ。冷静に静脈を見定め、ゆっくりと注射器の針を近づけていく。
「あのね、先、生。今日は、本当、はじめて、なこと、ばかりで」
咳で途切れ途切れになりつつもゆっくりと話そうと努めるヴィーシャ。そんな姿が愛らしくて、早く彼女をこの辛い現実から逃がしてやりたくなる。だが焦らずゆっくりと腕を動かす。
「そうだね、私も初めてのことばかりだったよ」
まあ、私としてはあまり経験したくない初めても混じってはいたが、と心の中で呟く。
「ねえ、先生」
「なんだいヴィーシャ」
いつものやり取り。しかし今の私にはとても愛おしく尊いものに感じた。だからこそ、私はもう少しこの余韻に浸りたくて、少しだけ手を止めてしまった。
「嘘つき」
そう、ここで手を止めなければ、こんな言葉を聞くこともなかっただろうに。しかし聞いてしまった。この言葉で私は完全に心を停止してしまった。考えることを放棄してしまった。そしてその狼狽は体の動作にも影響を及ぼし、手に取っていた注射器を落としてしまった。拾い直そうとするが、その注射器はヴィーシャに奪われてしまう。
「何をす……」
「これ、見たことありますよ。私、本でこの薬知っています」
ヴィーシャは私の方へと近寄り、凍り付いた私の体を押し倒す。普段であれば私がヴィーシャの細腕に力負けするわけがないが、この時の私は肉体も精神も思う通りに動かせなくなっていた。
ヴィーシャが私の上にまたがる。銀色に光る髪が私の顔をくすぐる。美しい髪が私の鼻先をかすめるたびに私は魅了されていく。これはまるでゴルゴーンの髪の毛だ。凄まじい魔力を秘め、私を石に変えてしまう。
いや私が意識を手放しつつあるのは、決して魔法などではない。体内に何かが侵入してくる感覚。先ほどの注射器は、ヴィーシャの腕ではなく、私の左腕に突き立っていた。
「ヴィー……シャ……何を……」
消え入りそうな意識を必死に手放さぬように努めるが、無駄なあがきだ。
「ふふ、先生は優しい。けど嘘をつくのは下手です」
首から下はもう自分で動かすことはかなわない。
「私はもう、いいんです。これだけ、沢山素敵なものを貰えましたから」
口は開かず、瞼が鉛のように重くなる。
「これは、私の最初にして最後の罪滅ぼし」
思考が正常に働かず、感覚が麻痺する。
「先生、大好きでした」
最後に聞いたものは、今にも壊れそうな鈴の音であり、最後に見たものは、美しく咲き乱れる百合の花であり、最後に触れたものは、柔らかな赤い果実だった。
「よぉ、目は覚めたか?」
うつろな目を開くと、そこには見知らぬ白い天井と、どこかで見覚えのある男が立っていた。
「ああ、アラドカルガの……。すまないな、面倒をかけてしまって」
体を起こし、彼に謝罪の言葉をかける。ベッドに隣接していた机の上に置いてあった水をコップに注ぎ、一気に飲み干す。体に良い冷気が染みわたり、完全に眠気が消える。
「そうか、私が生きているということは……」
「空気塞栓。死因はお前の注射器さ」
「空気注射か。私はどうやらヴィーシャの智慧を侮っていたみたいだ」
「なんだ、いやに冷静じゃないか」
彼の眼は鋭かった。怒りか、それとも失望か。いずれにせよ降り注ぐ視線は私に容赦なく突き刺さった。
「いや、そうでもないさ。単に今は、こんな感じなだけさ」
昨日の出来事が、すでに誰かの記憶になりかけているのが原因だろう。まるで他人事のように感じてしまうから、絶望的な喪失感が急激に襲ってくることも無かった。
「お前が持ち出したあの薬、あれは即効性も持続時間も長いうえに、副作用が大したことないって代物だったが、一定の記憶障害を引き起こすことは稀にあるらしいな」
「ああ、だから、罪の意識に苛まれるのはあと五時間くらい経った頃だろうさ」
もう半ば自暴自棄だった。彼に当たり散らしたところで、何も解決しないというのに、私はこんな皮肉が、口から飛び出さないように制止することができなかった。彼は私への注視を止め、そっぽを向いてしまう。怒らせてしまっただろうか。
「ストラヴィンスキー、お前に言っておくことがある」
彼は背を向けたままこちらに声をかける。
「私はお前に同情しない。お前を罰しもしない。お前を褒めもしないし、責めもしない。いずれにせよそれは、お前に逃げ場を与えることになる」
彼は病室の扉へと向かい歩みを始める。
「どうせ死んで罪を償う、なんてくだらないことを考えてるんだろうが、それは決して償いでもなんでもない。単なる現実逃避だ。それに死んだってカニンガムには会えない。彼女は今天国だ。お前が死んだって地獄行きか、よくて煉獄だ」
ドアに手をかけ、最後の言葉を投げかける。
「だからお前は生きろ。生きて成せることをしろ。この生き地獄を永遠に彷徨え」
ぱたんと、扉が閉まる。それが最後の音であり、以降は静寂が部屋を支配する。
「そうだな。私は私の罪と償わねばな」
罪と向き合うべく、私は昨日の出来事を回顧する。私の犯した罪の数々を受け止めようと試みる。だがその思い出の節々に、輝かしく美しいものが有無を言わさず映り込んでくる。一つの罪を受け止めるたびに、一つの大切な記憶が想起される。
頬に冷たいものが伝う。
「ああ、ごめんよ。ヴィーシャ。私は弱いんだ……」
これ以上は目から零れ落ちないように、天を仰ぐ。
「だから今だけは、今だけは、」
償いはまた今度に、必ず。そう決意してから、私は感情を抑えることなく、爆発させた。
その日、私の病室には耳障りな悲嘆の声が木霊し続けた。