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人造のアーダム  作者: 猫一世
ノトファグス
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ノトファグス 第四節

 デザインドの精製がまだ許可されていなかった時代、世界は超高齢社会の渦中にあるだけでなく、非常に極端な格差社会にあった。労働力に対する需要は、機械などの自動労働力の増加にも関わらず、非常に高かった。しかしそれに対する給与は非常に低く、一部の貧困層は「働かないなら今すぐ死ぬが、働けば六十歳まで生きられる」という状態であった。結局、需要の高さは給与を上げるどころか、一人一人の労働時間を拡大するだけであった。一部のインテリは資本家たちに給与を上げるように批判をしていたが、しかし資本家たちのメディア、教育、出版に至るまでの市場支配は、肝心の労働者たちからの怒りの声を封殺してしまった。

 ある国の諺で「働かざる者食うべからず」というものがあるそうで、これを大層気に入った世界中の資本家は、これこそ現代のあるべき倫理観として世界中に喧伝した。勿論実情は、低収入なことへの不満に対する抑止であったことは言うまでもない。また資本家たちの作戦は更に続いた。動画や本などをネット上で無料で見ることのできるストリーミングサービスを作ったのだ。映画、小説、オペラ、コミック、アニメなど、多岐に渡るジャンルの娯楽が公開されており、中にはポルノコンテンツも含まれていた。

 このサービスが無料で提供できる絡繰りは、それが殆ど著作権切れだったことだった。古い映画やコミックといえど、その内容やスタイル、美術は既に高度に洗練されていた時代であったため、その無尽蔵な娯楽は、人々を文字通り死ぬまで楽しませた。勿論その中には新たな時代に作られた作品も含まれていたが、それも世界中の人々が利用するサービスに対する広告費で、赤字になることさえなかった。また一部に有料サービスを設けたが、これは殆どポルノコンテンツであった。このポルノが、貧困層の人々を安い給与で雇用し、半ば強制的に理不尽なセックスで作られたものであることは言うまでもない。無料の映画やドラマは理不尽な社会から目を逸らさせ、生活費を僅かに上回る給与でも購入できる安価なポルノは強制的な労働の癒しとなった。

 勿論これをインテリは当然批判した。搾取の連鎖を引き起こす醜悪なシステムだと。だが、この批判に過剰なまでに反応を示したのは資本家ではなかった。そう、貧困層こそが、このシステム最大の守護者であった。 

 特に最も貧困層の逆鱗に触れたのはポルノに対する批判であった。インテリの趣旨は、生きるために仕方なく人々に体を売らせる状況など作るべきではない、というものであった。当然資本家たちは「強制した証拠などない」の一点張りで、更にひどいことに当のポルノ出演者たちからも「我々から仕事を奪うな」という声が現れた。「人権などというものが正義と思い込み、我々貧困層から仕事を奪い、娯楽を奪う者たち」というレッテルは、公でインテリが声を発する機会をことごとく奪った。

 とはいえ、それは所詮、人々に問題を気づかせないための策略であり、肝心の少子高齢社会の解決策は誰も考え付かなかった。結果的に一番の課題である労働力不足は、むしろひどくなるばかりであった。そこで資本家たちの次の一手が決まったが、これは先のストリーミングサービスと違い、むしろ世界に巨大な変革をもたらしてしまうことには、この時点では誰も想像だにしていなかった。

 簡単に言えばその次の一手とは、お見合いサービスである。ネットで自身のプロフィールなどを登録しておくと、相性の良いパートナーをマッチングしてくれるというものだった。交通費も、食費も全て運営企業が持ってくれるというもの。しかし問題なのはこのシステムではなかった。この後一部の国で、一定の年齢に到達した独身者かつ子供のいない人間に対し、社会保障の打ち切りなどの社会的制裁を制定し始めたのだ。言うまでもなくこれらの国々の政治家たちは、このお見合いサービスの運営会社の関係者である。つまり事実上、マッチングした相手の容姿、職業などに不満がどれだけあっても、一定の年齢に達した人間は強引にその相手と結婚するしかなかった。

 意外なことに、この一見高いシナジーを持った二つのシステムが問題だった。この時代には既に同性愛は増加傾向にあった。意図的にパートナーと子供を作らない異性のカップルも多かった。皮肉なことに貧困と、充実したポルノサービス、そして避妊技術の向上という環境下で、多くの貧困層が子供を持つことを望まないのは、当然のことであった。先のシステムが異性同士のマッチングしかしないこともあり、望まぬ結婚をさせられる者たちと、異性愛を強制される同性愛者たちは不満を募らせたる一方で、子供の数は全く増えなかった。

 その中、ある若き大学教授が、行動を起こす。彼は古代ギリシャの歴史学者であった。彼はプラトンの『饗宴』に登場するアリストパネスの言葉を引用し、それを以て世間に変革を呼び掛けた。アリストパネスの語った逸話とは、かつて人間は頭が二つ、体が二つ、腕が四つある存在であったということである。そして性別も男と女だけでなく、男男、女女、そして男女という三種類あった。そして神がこれを二つに分け、人はかつての自分の半身を探し始めた。これこそ愛の起源であるという者である。

 その若き碩学は、この逸話を掲げ、愛する者同士での自由な恋愛こそ重要だという運動を始めた。この運動を象徴する月、太陽、地球の三星のシンボルは、瞬く間に世界中に広がった。異性愛も同性愛も含め、多くの人々、特に若い人々がこの運動に賛同した。この運動は、アリストパネスの逸話に登場する言葉を借りて「ネオ・アンドロギュノシズム」と呼ばれるようになる。貧困への怒りでもなく、知識人の助言でもなく、愛が世界を変えたのだ―――


 


 今、私はある本を読んでいる。デザインドがまだ発明されていなかった時代のことを書いた本を読んでいる。学術書というほどでもないが、それでも詳しく歴史とその流れが克明と描かれている。紙の本など読むのは久しぶりだが、これには理由がある。タブレットでもテレビでも、私の顔が反射してしまうためだ。あれ以降、私は自分の顔が見れない。アンの顔を見てしまうと、凄まじい吐き気と、強迫観念が津波となって私の身体を包み込むからだ。文明の発達により、タブレット一つで映画も小説も漫画も全て楽しめるようになったが、今の私を救うものは前時代の文化であった。

 時間は既に十八時だが、食欲も全くわかない。今の私は兎に角、この一日を、私の顔を見ずに過ごすことしか考えられなかった。先ほど連絡がきて、今日の夕食はどうするかと問われたが、私は昼に食べた食事のせいで、お腹がいっぱいだから、軽食にしてほしいと伝えた。しかし目の前のハッシュドポテトとベーコンエッグ、そしてトーストにサラダと、寝ぼけた胃にも優しい朝食のようなメニューでさえ、私の荒れきった食道は受け付けることはなかった。

 私は一体どうしてしまったのか。お腹に子供がいること、私が今生まれたときの顔をしていないこと、どれもこれもとっくに受け入れた事実の筈なのに、それが全く奇妙でたまらない。この二つの事実を思い出すとき、私は途方もなく自分の肉体が自分の物でなくなったように思えるのだ。この体から魂が遊離した感覚は、船酔いにも似ている。だがこの不定の揺動は、こうして本を読んでいる間は不思議と収まった。

 そんな中私がもう三冊目の本に手をかけようとすると、部屋の扉が開いた。

「ユリア、具合はどうだ?」

 リューベックは湯気が立ち上るマグカップを、二つ持っていた。

 彼は私のベッドの脇にある椅子に座り、ベッドに付属したテーブルにそのマグカップを一つ置いた。

「コーヒーだ。勉強には必須の代物だろ?」

 彼は私の机の上に置かれた二冊の本を目にし、そして私が今手にしている本へと視線を移す。

「すまないね。こんなつまらない本しかなくて。何せこの病院は本なんかの娯楽は殆どタブレットで済ましているからね。置いてある本は、こんなデザインドに関する堅苦しいものしかなくてね。コミックでもあればよかったんだが」

「え、いや。助かってるよ。ありがとう」

 するとコーヒーを啜りながら、私の返答に妙な表情を見せた。まるでなぜ感謝の言葉を返されたのか分からないといった風だ。彼のその感情の動きの理由を掴むため、先ほどの彼の視線の順序を追いかける。まずは机の上に積まれた二冊の本。そして私が今から読み始めようとしている三冊目。

 あ、なるほど。

「リューベック、知ってる?今、性産業に就労している人って九割がデザインドなんだって。理由は血縁意識の希薄さを原因とする両親との軋轢、デザインドゆえの偏見や差別に起因する就職率の低さ、魅力的な外見が中心。最近は減ったけど少し前は奴隷として違法に作られたデザインドが、裏市場で売買されたりしたのだとか」

「へぇ、いつからデザインドに関する歴史学者になったんだ?」

 リューベックの問いへの答えとして、机に積んであった本を持って、その表紙を彼に見せる。

「『作られた娼婦 ― デザインドの社会的紐帯』、この本の中に書いてたことよ」

 するとリューベックは目を丸くしながら、私の掲げる本を手に取り、その冒頭を斜め読みしている。

「もしや」

 先の本をパタンと閉じた後、リューベックは机上のもう一冊を指さす。

「そ、もう二冊とも読んだわよ。とても興味深かったわ」

「それは……凄いな。もしや普段から本を結構読むのか?」

「ねえ、一応私、ほんの数年前までエリート学生だったんだけど」

 確かに今の私は体を売って生きているが、決して無知で無学なわけではない。

「まぁ、そうだったな。それで、結局体調はどうなんだ?吐き気がするのは妊婦には珍しくないことだそうだが、君のそれは少し異常だ。ヒントが欲しい。何か気づいたことはないか?」

 リューベックは私のベッドの端に手をかけ、こちらに体を乗り出す。

「ゲームでキャラクターを操作してる感覚」

「は?」

「うーん伝わらないかな。ゲームでキャラクターの一人称視点でプレイしてると、三半規管が混乱しちゃう感じ」

 少し得心がいったように、リューベックが細かく頷いている。

「なるほど、それならわかるよ。それ以外に気づいたことは?」

 少しだけ言葉に詰まらせる。あのことを言うべきか、否か、その判断がつかなかったためだ。

「ねぇ、変な話かもしれないんだけどさ、なんだか変身したくて仕方ないの」

「へぇ変身願望か。それは大変だな」

「茶化さないで」

 おそらく、彼はそういうタイプなのだろう。少し話が重苦しい方向へと向かうと、調子の良いことを言って場の空気を和らげようとする。だがそれは一方で軽薄ともとられかねない。そう理解していている私でさえ、少しだけ腹が立つほどだ。だがそうせざるを得ないほどに、彼は過酷な人生を歩んできたのだろう。いや、恐るべき運命を授けられた誰か、と共にあったというべきか。

「悪い。しかしそれなら手術を明日に早めるか。体調は万全に越したことはないが、しかしこれくらいならば支障はあるまい。それよりもお腹に子がいる状態で変身なんてされたら、それこそ問題だ」

「んーっとね。少し反対かな。リューベック、私が最初に変身した時、何してたと思う?」

「まさか、寝てたのか?」

 ビンゴ、と人差し指を突き立てる。

「まさに悪い夢の続きみたいだったわ。朝起きたら、鏡に映るのは別人の顔。きっと夢に違いないと思ってたわ。私を起こしに来た孤児院の先生が、驚いた表情でこちらをみつめるまではね」

「確かに一番重要なことを見落としていたよ。メレトネテルの多くは、その力を無意識下で発露させることが多い。メレトネテルの力は言うなれば背中に生えた三本目の腕だ。

 他人と接することで普通の人間の上限を理解し、世界と接することで常識の臨界を知る。メレトネテルの力は超常的で、科学の理解さえ及ばぬ非常識だ。それはメレトネテル本人にとっても同じ。だから無意識下、例えば夢の中のような、倫理観も俗識も気にしなくていい状況こそが、君たちの力の解放には最も好都合なんだ」

 逆に言えば、今の私が麻酔で意識を失うのは、手術をするうえで不都合極まりないということ。どういう手術をするにしろ、体の中心から全てが変化する私の能力が発動などすれば、まず間違いなく私の腹の子供は死ぬ。それどころか、私自身も確実に命を落とすだろう。子宮のない男になぞ変身すれば、歴史上類を見ない変死体が出来上がることだろう。

「なら、私の本来の仕事に戻るとしよう」

「……?情報統制と暗殺?」

「違う。というか暗殺は……多分したことないぞ私は。多分。アラドカルガの本来の仕事は、メレトネテルの健康を守ることだ。情報統制もそのため。そしてその健康とは当然精神も含まれる。さぁ、君の心を解析しよう」




「とは言っても、本当に私の気づいたことは、さっきも言ったことだけよ。自分の顔への吐き気、変身願望、肉体から剥離した精神、それ以外には何も……」

 ユリアは嘘をついていない。だが重要なのは、彼らメレトネテルは超人だということだ。だがその精神性は――仮に精神がメレトネテルの力によって拡大されていないのなら、――ただの人間に過ぎない。だからこそ、どれほどその力を理解し、使いこなしたとしても、その心が強靭で異常で巨大な肉体に追いつくことはない。つまりその肉体と精神の隙間にある問題を、本人が自覚することはできない。そしてその苦悩もまた、常識の尺度では計り知れない。だからこそ、この問題の解決手段は、我々に嵌められた常識の枷が導いてしまった答えの誤りを一つずつ解明していくことでもある。

「じゃあ、改めて。その感覚を最初に覚えたのは?」

「え、っと。この仕事を始めてから……?いや多分一番この感覚が強くなったのは最近のことだと思う。それこそ妊娠したのと同じくらいかも」

 つまり、やはり彼女の吐き気は妊娠が原因なのだ。それが生理学的なものではなく、精神的症状であったというのが第一の間違い。

「なら次だ。君は顔を見ると、吐き気をするという。そして自分の肉体と心の間にある距離感。それはどちらも同じものだろう。"君が君ではない"という意識。それこそがこの二つの症状の正体。自分を自分だと思えない。この理由は単純だな」

「私の能力のせい?」

 そう、度重なる変身の度に、彼女は自分の環境の変化に対しては敏感であったが、しかしその度に彼女は自分の変化のなさについて強調した。体が変わっただけで、中身は何も変わっていないと。

 あり得ない。

 体が芯から変わるのなら、精神も確実に大きく歪曲する。人間はそれほど強くできていない。幻影肢という概念がある。失われた四肢がまるで存在するかのように感じる症状で、加えて場合によっては痛みすら感じるという。そもそも変化する肉体に精神が追い付かないことは、別に珍しくとも何ともない。

 やはり彼女は変わっていたのだ。体と同じく心も。

「なあユリア、君は孤児だろう。親御さんについては?」

「うん、名前と写真で顔くらいしか知らないな。話したことも、今どこに住んでいるかもわからない」

 物心ついた時には既に孤児院。そして幼い時に生まれ持った顔を失い、体を失い、残ったのは名前だけ。ユリアは生まれてこの方、自己を取得する機会が無かったのだ。

 普通の人間であれば鏡を見て知る自分の姿。

 普通の人間なら共に暮らして理解する家族の形。

 何もかも失い、いや失ったことすら知らずに、特殊な環境と特殊な能力に振り回され続けた人生。

 ユリアは確かに強い。どうあれそのような生き方は常人には耐えがたい。だから彼女は自己さえも他者と同列に置くことで、永遠の孤独を凌ごうとした。

 人間には自己と他者を同一視することなど不可能だ。どんな人間でも、『自分』という存在は他人よりも特別視せざるを得ない。究極的な自己の客観視。それは世界からの隔絶と、希薄な自己の欠如に耐えるために彼女が編み出した、人知を超えた術であった。

 だがその対策に思わぬ欠点があった。妊娠である。世界に自分という存在を溶け込ませるには、主体性の欠落が必須である。だが妊娠という自身の肉体の中に他者を宿すことは、失われた主体を取り戻す結果となった。恐らく彼女の嘔吐はそれが原因だ。自己を客観視するという偉業に、許されてはならない綻び。胎児の現出は、余人しか存在しないはずの宇宙に、自意識という怪物を生み出した。

 そしてここで第三の誤りに気付く。メレトネテル特有の肥大した肉体と、常人に過ぎない精神の齟齬、それこそが我々アラドカルガの研究対象にしているものだ。だが彼女にはこれを適応すべきではない。そもそも彼女の肉体がどれほど強大で尋常ならざるモノになろうと、彼女にはそれに不釣り合いだと認識できるような精神を持ち合わせていない。極限まで矮小化、いや透明化されたとも言える自己しか持ちえぬユリアに、メレトネテル特有の精神的強迫観念は発生しない。つまり何故彼女は今混乱を起こしているのか。

 妊娠と同時に、ユリア・ゼビアーという個人も生まれ落ちたのだ。

 まさに今の彼女は生まれたての雛鳥も同然だ。

 ならこの問題の解決方法はさほど難しくはない。

「ユリア、手術は二日後にしよう」

「え、じゃあ明日はどうするの?」

「君の両親に会いに行く」

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