ノトファグス 第三節
「アン様、お子さんについてはどうなされるおつもりですか?」
「もう少し、考えさせてください」
医者と私の会話はそれで終わり、私は付き添ってくれたザカイムと共に病院を後にする。先のやり取りについては、少しだけ偽りがあった。私は決してこの腹の子を産む気などない。しかし堕胎を行うにしてもアラドカルガには報告しておく必要があるだろう。
「ねぇ、アン。力になれることがあったら、なんでも言ってくれ」
「うん、ありがとうザカイムさん」
ザカイムの運転で私は自身の家にまでたどり着いた。
彼は私が車から降りる間、黙って見送ってくれた。こういう人だからこそ彼は多くの人に慕われるのだろう。
その後、私はアラドカルガに連絡を入れた。それは非常に簡素なものだった。
子供ができた。
中絶をしたい。
それだけ。
だがアラドカルガは今頃大騒ぎだろう。ただでさえ「母胎生まれ」が希少になった時代に、それもメレトネテルが子供を孕んだのだから。
どうやら先日訪れてきたアラドカルガの男は、まだ滞在中だったようで、連絡後二時間もせずに彼は家に来た。
「ユリア、お腹の子の父親に心当たりは?」
「ないわね。医者曰く大体妊娠三週間から四週間らしいわよ。勿論連日色んな男を相手していたわ」
来訪後、最初に交わされた会話がこれである。こうして彼らが体裁すら整えないことからも、彼らの焦りと関心の高さがよく理解できる。
「しかし、避妊薬はきちんと飲んでいたのだろう?」
「ええ、当然。けど私が飲んでる薬だって確実に妊娠を防げるわけではないって。あの薬を飲んでいたのに妊娠した事例は今までもあったらしいよ。ごく僅かな確率らしいけど。もしかしたらこの体質のせいかもね」
この体は間違いなく常人のそれではない。度重なる身体の変身によって、何らかの特殊な体質を獲得していてもおかしくはない。
「……それでやはり堕ろすのか」
「ええ、当然。もしかしてアラドカルガ的には産んでほしい?」
すると彼は息を吸い込むと同時に一度肩をそびやかして、そして息を一気に吐ききって、再び元の位置に肩を戻した。
「さあね。珍しいことだろうが、重要なのは君の意思だろ」
部屋の隅で、電気も付けず、アラドカルガが来ようとも顔すら上げなかった私は、初めて彼のこの言葉と、行動に関心を向けた。
「意外。アラドカルガも変わったのね」
「変わるさ、特別な力がなくとも、人は変わる」
その後しばらく私たちは言葉を交わさなかった。彼はというと、ずっと同じ位置で立ち尽くし、まるで私の言葉を待っているかのようだった。私はその無言の要求に応えるように、腕を使って勢いよく立ち上がり、彼の方へ向き直った。
「それで私はどうすればいい?」
「まずは、アラドカルガの運営する病院へ向かってもらう。まだ妊娠が早期の段階だから、それほど手術にリスクはないだろうがね。今すぐ中絶手術を行うことも可能だが……ことがことだ。できる限り精密に君の身体を検査したい。勿論、人体実験の類ではない。母体である君の命を第一に考えてのことだ。大体三日ほど入院してもらうよ?」
「いいわ、私は貴方たちに従う」
交渉成立だと、彼は私に手を差し伸べてきた。これが握手を求める仕草であることは勿論すぐにわかったが、私はそれに対してとまどっていた。というのもその行為が、人の心がなせる業であるからだ。いたって普遍的な友好を示すための、礼儀正しい振る舞いであるが、今まで私を訪れてきたアラドカルガたちは皆、文字通り鉄血の従者―いや冷血の方が正しいか―であり、私の心や感情を慮った行動と思慮に欠けていた。彼らが何度も私に変身をやらないよう命令を下し、この仕事を辞めさせようとしていたのも、結局のところ私の身を案じていたわけではなく、貴重な実験対象に何かあっては困るからだったのだろう。
だが目の前のアラドカルガは、そうではない。方や肉体を機械に置き換えた狂信者、方や姿形を自在に変化させる人工生命。時代が時代なら、いや今の世の中でさえ、我々が『人間として』振る舞っていることを笑う者もいるだろう。
「貴方、名前は」
彼の手を掴むと同時に、私は彼に名を尋ねる。今度は目の前の彼が二の足を踏んだように、返答に詰まっていた。だがすぐに彼は口角をわずかに吊り上げ、口を開いた。
「私はリューベックだ。よろしくな、ユリア」
私はその後、彼に導かれるまま、アラドカルガの運営する病院へ連れていかれた。もしかしたらかなり遠方になるのではないかという心配をよそに、その距離は車で二時間程度であった。偶然かと尋ねたが、リューベック曰く、この国ならどの地域からでも車で六時間圏内に必ずアラドカルガ傘下の病院があるとのことだった。以前ゴシップ紙で世界は将来、アラドカルガに支配されるのではないか、などという見出しがあったが、事実はそれより深刻そうだ。
病院に到着後、私はすぐさま検査を受けた。それこそ体の隅々までだ。まあ仕事柄、全裸など見慣れられたものだが、惜しげもなく肉体を晒している一方で性的な空間ではないという状況は、少しだけ私にとって恥じらいを覚えさせた。
数時間ほどで検査は全て完了した。これから私の身体の状況に合わせた手術方法や、入院生活について検討がなされるらしい。一応解説こそされたが私には殆どその言葉を理解できなかった。理解しようと試みていた、というのも嘘ではあるが。動きやすい入院着に着替え、ベッドに寝かせられる。部屋は個室で、テレビも空調も完備、飲食についてはまだ提供できないそうだが、健康状態を把握でき次第、時間ごとに出されるそうだ。それもある程度食事の嗜好については私の意思が尊重されるらしい。
「あー、テレビ、つけて」
部屋の中には誰かがいるわけではない。しかし壁面にはめ込まれた大画面テレビは、私の指示通り映像が映し出される。驚くことにこの部屋の殆どの家具家電が私の声に反応して動作するらしい。つまりこの部屋では私は指一つ動かすことなく、生活が可能なのだ。
「この部屋だけで一体どれだけの貧しい人々が救えるんだろう」
別にコミュニストというわけではないが、何だかんだこう資本の集中を目の当たりにさせられると、そう思わざるをえない。
とはいえ、そんな苦悩はベッドに体を預けると、一気にすっ飛んでいく。柔らかで、それでいて適度な堅さで、体から疲労という疲労が流れ落ちるかのようだった。微睡を感じさえし始めたころ、部屋に電話の着信音が鳴り響く。機械音声が「リューベック 様からお電話です」と告げたので、私は体を起こした。ひとまずベッドの上から音の鳴っている場所を探すが、それらしい通信端末が見当たらない。ベッドの上できょろきょろと辺りを見渡していると、機械音声は続けて「電話にお出になられますか?」と述べてきた。
「あ、うん。出る、出る」
この部屋の仕組みを思い出し、慌てて機械音声に返事をする。
すると、ベッドの前の空間に映像が投影される。そこに映っていたのは私をここに導いたアラドカルガ、リューベックであった。
「やあユリア。調子はどうかね」
「う、うん。ばっちり。部屋も居心地いいし」
「そうか、それなら良かった。もう日付が変わったが、君はまだ夕食を取っていなかっただろう。検査結果も出たから後に献立を送るよ。無論、健康的な睡眠を考慮すると、豪華な晩餐とはいかないがね」
彼との会話はそこで終わった。度重なる検査の結果自分が空腹であることをすっかり忘れていたが、彼の言葉で自分の胃の中に何も入っていないことを自覚させられた。私はその後スクリーンもないのに、映し出される画面を操作する。不思議な感覚だ。手は間違いなく空を切っているのに、画面はそれに合わせて変化している。
表示された献立は三種類、いずれも少し軽めの食事だった。どれも確かに美味しそうなのだが、文句があるとすれば、どれも西洋風の食事ばかりだったことだ。嫌いではないのだが、やはりこれほどの空腹なのだから、自分の好物を食したいというものだ。まあこれは明日にでも要望を出そう。
食事を終え、私は眠りにつこうと思った。食欲に阻害されていて気づかなかったが、睡魔もすでにすぐそこまで訪れていた。ベッド付属の机をスライドさせたのち、私はそのままベッドに倒れた。
瞼を閉じると、ヒュプノスに囁かれでもしたように、一瞬で意識を失った。
随分ぐっすりと寝ていたはずだが、朝は驚くほどはっきりとした意識の中で目が覚めた。
「うートイレ……トイレ……」
昨夜襲われていた強烈な睡眠欲は、今朝には今度は排泄欲に入れ替わっていた。早朝の冷たい空気は、更にその欲求を強く推進していたため、私はトイレに駆け込んだ。
トイレを済ませた後、シャワーを浴びて弛んだ体を引き締める。もう既にあの睡魔は嘘のように消えてなくなっていたが、胃袋が先ほどから音を立てて空腹を訴えていた。
鏡を見ながら髪型を整える。そこには当然のようにいつも通りのアンの姿が映し出されている。思い返せば昨日も同じように早朝に起きていた。アンはいつものように美しく、いつものように可憐だ。しかしそこには明白な変化がある。服装は肌の露出が極めて少なく、体のラインも一切露出しない入院着だし、加えて目には見えないがお腹には子供がいる。無論昨日も同じように新たな生命は宿っていたわけだが、今日はそれを自覚して初めての朝になる。私にとって変化とは、常に姿形が変わることであった。しかし私は、今までの何にも増して変化を実感している。
無論、この子はこの世界に生を受けるわけではない。私も母にはならない。
しかし子供を孕んだという事実は、どうしたって消せないのだ。体を何度かえても、身分を偽っても、これから永遠体の底から、受胎という事実を語り続けられるような気さえする。
再び鏡の中のアンを見つめる。この美貌は、自分のことながら何度見ても飽きない。三年が過ぎても、この体の生活を辞めたくないとさえ思ってしまうほどに。
そんな時、ふと、湧き上がってきた感情があった。それは一瞬で消え去ってしまうノイズであったが、しかし正常な思考を妨げてしまう帳でもあった。
もしこの子を産んだらどうなるんだろう。
所詮可能性の話で、あり得たかもしれない未来の夢想で、決して私の信念を折り曲げるような疑念ではない。
だが、その僅か数語で形成された文章が、脳裏によぎった後、私は炎症にも似たざわめきが胸の中から這い出ようとするのを感じた。口を抑え、もはや慣れさえしてきた嘔気を防ごうと試みる。しかし食道を焼け付かせるような溶岩流は留まることはなかった。いつも以上の衝撃に驚きつつも、私は洗面台から水を流し、それを手で掬って口に急いで押し込む。今にも口から溢れんとする炎は、冷たい水が鎮めてくれたが、しかし未だに胸中には強い酸性のわだかまりが残り続けていた。いったん呼吸を整え、トイレを後にする。病室に設置された冷蔵庫を開け、昨晩頼んで冷やしていた炭酸水を開けて、コップにも移さず直接ペットボトルに口を付けてがぶ飲みする。炭酸の爽快感とほんのりとした苦みが、口と胸の不快感を取り払ってくれ、事なきを得た。
この病院で初めて耳にしたことだが、妊娠するとこうした嘔気に襲われることがあるらしい。一昔前なら、誰もがこの程度のことを知っていたらしいが、妊娠が珍しくなった今、民間ではあまり知られなくなったらしい。また味覚が鈍感になるのも、同様の症状だそうだ。
朝ごはんの時間がそろそろ来るということで、またもメニューが表示される。シャクシュカとかが食べたいなと思ってたが、全てのメニューがライ麦パンとチキンのコンソメ、サラダが共通しており、メイン料理がニシンの酢漬けか、ハムとチーズのオムレツが選べるだけだった。先日の晩御飯もそうだったが、今の私は味の濃いものが食べたい。この病院の食事は美味しいとリューベックが言っていたが、今の私にはそんな繊細な味を理解できるほどの余裕がないのだ。
無味の朝食を終え、私は今日も再び検査をした。とはいえ、それほど長くはなく、午後に変わろうかという時間には既に、本日全ての検査を終え、自由な時間が訪れた。しかし基本的に仕事ばかりしていたせいで、日中暇な時間をどう過ごせばいいかがわからない。と、そんな私に助け船を出すかのように、腹の虫が嘶いた。普段はあまり昼食を取らないため、この時間に空腹になるというのも珍しいことだった。自分の胎内のもう一つの命にも、やはり栄養が必要からだろうか。どうしてか、お腹の子供のことを考えると、気分が悪くなる。軽い嘔気どころではない。頭痛や眩暈すらするようになった。
昼ご飯は、やはり病室でメニューから選ぶのだが、午前の検診の際に食事について苦言を申し出たためか、私の希望通りの食事を出してくれるらしい。入院は明日までで、四日目に手術が行われるのだが、今日はそれほど手術に影響が出ないため、夕食も含め、かなり私の嗜好に合わせた食事を出してくれるらしい。ちなみに今日の昼食は、朝に欲していたシャクシュカである。一緒に厚めのピタパンも用意してくれた。
シャクシュカの中には、スパイシーソーセージが入っていて、またトマトソースには、卵が五つも落とされていた。鍋から沸き立つ煙が、そのスープの熱さを物語っているが、私にとっては久しぶりの冷めていない料理ということもあり、舌が火傷するかもしれないというリスクを気にも留めず、パンを一切れちぎり、スープを掬い取って、一気に口に放り込んだ。
ああ、たまらない。鈍り切った味覚でもはっきりとわかるほどに香辛料によって引き立てられたトマトソースだが、その辛さを半熟の卵が優しく覆っている。スパイス、トマト、ソーセージ、どれも力強い味なはずであるが、芸術品のように味が調律され、見事な芳醇さと滋味を成立させている。異なる個性が手を取り合い、最高の作品を生み出す、まさにこの多様性の国を体現したかのような一品と言えよう。
いつの間にか鉄鍋の中身は、スープの一滴すら残さず無くなっていた。失って初めて物の大切さに気付くと人は良く言うが、今私はそのことを実にはっきりと実感している。味覚というものがどれほど私の生活を豊かにしていたのか、それを当たり前だと思っていた今までの人生を反省すべきだろう。食事というものに物足りなさを感じたのは、ティーンエイジャーの頃以来と言っても過言ではない。それほどまでに旺盛な食欲が、私の身体に戻ってきたのだ。
「けど、食べ過ぎは良くないね」
自分を戒めるかのように言葉を発して、食器の片付けをする。食事は人が運んでくるのではなく、部屋に付設された荷物用エレベーターのようなものから提供されていた。食器を返すのも、同じくこのエレベーターを用いる。
昼食を終えた後、やはり結局何もすべきことはなく、ベッドの上で横になっていた。ベッドの上と言うと、ほとばしる命の生臭さと消毒液のアルコール臭が混ざった異質な匂いが付き物であったが、今は匂いというものがせず、ほのかに石鹸の爽やかな香りが鼻孔をくすぐる程度であった。しかしこうしてベッドに沈んでいると、どうしても仕事のことを思い出す。一昨日、三日前、四日前、五日前、一週間前、一か月前……どれだけ記憶を掘り起こしても、頭によぎるのはベッドの上で快楽の対象となる私の姿である。何度も複数の男の欲望を受け止めていたわけだが、男たちの顔は全く思い出せない。一部常連の客も、名前という記号しか覚えていないような私が、とてもではないが胎内の子の父親を思い出せるはずもなかった。例えるなら毎日乗る電車の中で、誰から風邪をうつされたかを言い当てるようなものだ。
ふと、また強い吐き気が私を襲った。本当に突然で何の前触れもなかった。急いで洗面台に向かい、口を漱ぐ。実際、胃の中身が口から出たことはないのだが、用心するにこしたことはないだろう。呼吸を整えると、ある程度収まった。顔を上げ、目の前の鏡を見る。当然そこに映っているのはアンの姿だ。しかしなぜか私は「何か変わっているのではないか」と期待していたのだ。理由はわからなかった。ただあれほど美しいと思っていた今のこの姿に、私は言い表すことができないほどの恐怖と嫌悪を抱いていた。
じっと鏡の中の私と目を合わせ続けていると、また嘔気がぶり返してきた。それどころか、頭蓋を引き裂くかのような頭痛と、体の奥底に響き渡るほど心拍が暴走し始めたのだ。
「あ、ぐっ……あがぁ……」
痛みに身を悶えさせ、床に尻もちをつく。眼窩の底がチカチカと光り、焦点が定まらない。思考にはノイズが混じって、正常に脳が働かない。耳に届く音は、金属音のような鋭い耳鳴りと、心臓の鼓動だけだった。
今の私は、まともな判断が可能な状態ではなかった。だからこそ、この時私の頭を騒がせた考えは、所詮混乱の産物に過ぎない。痛みが治まった後、再び立ちあがり、息を整えながらベッドに戻る。その道のりまでの間、また鏡が目に映って、先ほどの奇妙な考えが頭をよぎる。これ以上はダメだと自分に言い聞かせるように、瞼を固く閉じて、鏡を見ぬように通り過ぎた。
だが、全てが正常に戻ってなお、私の思量はたった一つの行動に対する執着に囚われ続けていた。
『今すぐ変身しろ』
アンへの囁きは、冷静に考えずとも非常に愚かだと明瞭に理解できるにも関わらず、好奇心と使命感と焦燥を煮詰めたかのような感情が、私に鬼胎を抱かせた。




