ノトファグス 第二節
アラドカルガが来訪した次の朝、私はまだ夜明け前の時間に目を覚ました。仕事は確かに朝早いのだが、これほどの早起きは必要としない。二度寝するにも微妙な時間なので、目を完全に覚まそうと洗面台に向かった。気付けも兼ねて顔を洗う。目の前の鏡には、水に濡れた私の、アンの顔があった。
いつも、私は不安に駆られている。朝起きると、もしかしたら別人になってしまっているのではないかと。今日は特にそれが強かった。もしかしたらこれほど早朝に起床してしまったのも、その憂慮ゆえかもしれない。ペーパータオルで顔の水分をふき取ると、突如すさまじい吐き気が私を襲う。最近、私がこの仕事を始めた頃をよく思い出すようになったのは、この吐き気が原因だろう。口の中に広がりつつある不快な酸味を洗い流すため、再び蛇口をひねって手も使わずに口を漱いだ。しかし胸のなかのむかむかした感覚は完全に消え去らず、また私が人生について新たな見識を得た時のことが脳内をよぎる。
「一体、何を伝えたいの?」
鏡に映る自分に問いかけるが、しかしアンから答えは返ってこなかった。
もうすっかり彼らとの仕事も慣れたものだ。スタッフやカメラマンは常に私の体調を気にかけてくれるし、男優もカメラが外れれば、世界で一番親切な紳士へと切り替わる。映像の中で記録されるのは女を物と扱う暴力的な場面ばかりだが、舞台袖では精神的にも身体的にも、皆が私に気を使ってくれた。
「世の中の男が貴方たちみたいな人ばかりだったらいいのに」
撮影の合間の休憩中、隣で同じく休息をとっていた男優に向かってそんな言葉をかける。
「まあ僕はプロだからね。どれだけ女の子に乱暴する設定でも、絶対に怪我させない自信はあるさ」
そうにやりと明るい笑顔を見せてくれた。彼は四十代半ばだが、筋肉質で皮膚には一切の弛みがない。
「でもさ、宿にくるお客さんはさ、皆自分の快楽しか考えてないの。きっと私のこと玩具か何かと思ってるのよ」
「そこはお金をもらっている僕と、お金を払っている人の違いだね。いや、勘違いしないでくれ。僕はどんなことがあっても女の子に嫌な思いはさせないよう心掛けてるよ」
「もー、ザカイムさん大好き」
と言いながら私は男優のザカイムに、上半身だけをねじって、座ったまま抱きついた。
私は体にタオルを巻いただけだったので、その動きではらりとタオルが落ちてしまった。
「おいおい、もうおっぱじめるつもりか?お盛んだねぇ。けどカメラマンが今昼飯食べてるからもう少し待ってくれよ」
と、部屋に入ってきた監督が私たち二人に言い放つ。ザカイムは全裸のままだったし、私も唯一の衣を失っていたために、誤解を招いてしまったらしい。
「はは、アンみたいな魅力的な女性ならカメラの外でも是非お相手したいですな」
剽軽な監督に対して、ザカイムも冗談で返す。「生涯現役だね」と呟きながら、監督は私たちに紙コップに注がれたコーヒーを渡してくれた。
「軽食くらいは買ってきてやりたかったんだが、この後も絡みがあるからね。二人はこれで今は我慢してくれ。と、経験豊富なお二人には余計な助言だったかな」
「監督、私はそこまで撮影経験はないんですよ」
「おっと、そうだったか。いやあまりに段取りが良いもんだから。本当お世辞じゃないぞ。そこらの自称ベテラン女優より覚えが早い」
監督が私に送る賛辞に呼応するかのように、ザカイムも何度も小刻みに頷いていた。
私は少し頬に血が集まるのを感じ、それを隠すようにコーヒーを口に流し込んだ。
「あれ」
コーヒーを飲んだ際に生じた違和感。その正体を突き止めるべく、私はコップの中になみなみと注がれたコーヒーを見つめる。
「どうかした?」
ザカイムは私の肩に手を置き、コーヒーを見つめる私の表情を覗き込む。
「いえ、あの、何か思った以上に薄かったから」
「嘘だろ?脳みそに稲妻走ることで有名なくらい濃厚なコーヒーだぞ?おいおい、ザカイム、もうちょい加減してやれよ」
「え!?僕のせいですか!?」
確かに口の中には未だ少しだけ生臭い匂いを感じる。もう一度念のためコーヒーを口に入れるが、やはり味がしないとまでは言わないが、それほど強力な苦みは感じない。
監督が男優の股間を指さして、「お前がアンの味覚を奪ったのか!」と糾弾していると、カメラマンたちが昼食から帰ってきた。それと同時に監督も撮影の準備に戻った。
しかし隣のザカイムは、撮影の準備をせず、ずっと顎に手を当てて考えに耽っていた。
「どうしました?ザカイムさん」
彼に声をかけると、今度は私の身体をまじまじと見つめてきた。
「いや、もしかして、アン、君は何か最近体調に変化はないか?」
「え、いや、その、ちょっと吐き気とかはするんですけど」
そう言うと、彼はガラステーブルの上に置かれていた自身の携帯端末を手に取って、何やら調べ事を始めている。
「アン、薬はちゃんと飲んでいるね?」
「う、うん。撮影の時も、仕事の時も必ず飲んでるよ」
すると再びザカイムは黙ってしまい、今度は天井を仰いでしまった。
「おいおいザカイム、もしかしてさっきの俺の言葉に傷ついて不能になったとか言わないだろうな」
彼の異変を察知して監督は準備をしながら声をかけてきた。
「なあ、アン、もしかしたら僕の勘違いかもしれないんだが」
口を動かし始めたと思ったら、またザカイムは黙りこくってしまった。十秒ほど経った後、彼は突然立ち上がり、監督のもとへ向かう。何かを話しているが、ここからは会話の内容は聞き取れない。
「まさか!!」
何かに驚いたかのように、監督は声を張り上げて叫んだ。
すると、二人はそこで会話を終わらせたのか、こちらに向かってきた。
「どうしたんです二人とも」
「アン、すまない、撮影は中止しよう」
「え!?どうしてですか?」
ザカイムは私の手を優しく握り、中腰で私の顔を見つめてくる。
「病院に行こう」
「え、もしかして私病気とかなんですか?」
すると彼は首を横に振り、否定する。彼はもう一方の手で、優しく私の頬を撫ぜながら、再び口を開いた。
「違うんだ。アン。君はひょっとすると、妊娠してるかもしれない」




