第1話 愛する夫の愛人が、今朝から屋敷に住んでいます
「おはようございます、奥様。本日より新しくお世話になります、リゼットと申します」
朝食室の扉が開いた、その第一声だった。
声の主は、見覚えのない若い娘。淡い金の髪を結い上げ、頬を薔薇色に染め、深々と膝を折っている。所作は美しい。ただ、膝を折る相手の位置が違う。彼女の視線は、私ではなく、私の夫に向いていた。
紅茶のカップに口をつける寸前だった手が、そのまま宙で止まる。
「ユリウス様。どちら様でしょうか」
平らかな声で尋ねた。七年連れ添った伯爵夫人として、朝食の席でみっともない声は出せない。使用人が見ている。窓辺の給仕係も、扉脇の執事ハロルドも、みんな息をひそめてこちらを見ている。
夫のユリウスは、ナプキンで口元を拭いながら、驚くほど穏やかに微笑んだ。
「アデライン。落ち着いて聞いてくれ」
落ち着いて、と先に言われる話で、落ち着いた内容だった例がない。
「リゼット嬢は、男爵家のご令嬢だ。先日お披露目した親戚の養子、アルフォンスの、母親でもある」
紅茶が、カップの縁に一滴だけ跳ねた。
アルフォンス。三歳の、栗色の巻き毛の、あの愛らしい男の子。去年の夏、「遠縁の子を引き取ることにした」と紹介されて、私が刺繍したお揃いの帽子を被せてやった、あの子。
「……母親」
「ああ。事情があって、これまで公にできなかった。だが世継ぎの問題もある。リゼット嬢には、今日から屋敷に入ってもらうことにした。君も、分かってくれるね。正妻の器量というものを」
分かってくれるね。
分かってくれるだろう。
分かってほしいなあ、という祈りのほうが、正しいんじゃないか。
◇
最初に湧いたのは、怒りではなかった。
奥歯の裏側が、じん、と痺れた。冷たいものを飲んだ直後みたいに。怒鳴りたかったのかもしれない。泣いてもよかったのかもしれない。けれど私の中の何かが、さっきから、もっと別のことを叫んでいる。もっと懐かしい、もっと大きな声で。
その瞬間、頭の奥で、何かの栓が抜けた。
蛍光灯。通勤電車。締切前の残業。ライブのペンライト。画面の向こうで剣を構える、銀髪の辺境伯の立ち姿。私がお布施を捧げ続けた、十年分の「推し」の名前。
あ。
あ、そっか。
私、死んだんだ、あのとき。
死んで、それで、ここに。
ここに、いる。なんで、いるんだろう。ここで何してたんだっけ、私。七年。七年って、何してた。帳簿。帳簿つけてた。誰のために。
誰の、ために。
崩れそうになる膝を、テーブルの縁を掴んで支えた。指先の関節が白くなっていた。リゼットが怪訝そうに私を見ている。ユリウスはもう、次の言葉を準備している顔をしている。きっと「理解があって助かるよ」とでも言うつもりだ。
言わせない。
「ユリウス様」
自分の声が、思ったより静かに響いた。
「一点だけ、確認させてくださいませ」
「なんだい」
「アルフォンスを連れていらした夏、私、あの子にお揃いの帽子を刺繍いたしましたね。橅の葉と、小さな熊の」
ユリウスの笑みが、一瞬だけ止まる。
「……ああ。覚えているよ」
「あの刺繍を褒めてくださった方々に、あなたは何とご紹介なさいました?」
「……妻の手によるものだ、と」
「ええ。確かに、そう」
私は紅茶を一口含んだ。温度が、ちょうどよかった。
「では、今日からこちらのお嬢様が奥様になられるのでしたら、あの帽子は返していただきたく存じます。古い妻の、古い仕事ですので」
リゼットの頬から、薔薇色が抜けた。
◇
朝食室を出た足は、自分でも驚くほど軽かった。
書斎に入り、扉を閉める。鍵を回す。窓辺の陽だまりの中で、七年ぶんの帳簿が背表紙を揃えて並んでいる。領地経営の収支、商人ギルドとの契約、使用人の給金、税収の見通し。全部、私の筆跡だ。一冊ずつ抱え上げて、革の旅行鞄に詰めていく。
紙の重みが、腕に染みる。
七年。
長いとも短いとも言える歳月だった。私が精算しようとしているのは、きっと歳月そのものじゃない。歳月に乗せて、どこかで諦めた自分の時間だ。
鞄を閉めて、次に机の引き出しを開いた。薄紙の束。便箋ひとそろい。万年筆。
離縁状を書く。
文面に迷いは出なかった。夫の性格上、情に訴えても、怒りをぶつけても、どちらも彼の耳には届かない。届くのは、私の側から何も奪えなくなる手続きの言葉だけ。
書き終えたとき、ちょうど扉が控えめに叩かれた。
「奥様。……いえ」
執事ハロルドの声は、いつもどおり低く、けれどいつもより少しだけ、震えていた。
「アデライン様。馬の用意、いたしましょうか」
私は振り返らずに、ただ頷いた。それだけで、七年仕えてくれたこの老人には充分だった。
「辺境へ行くわ、ハロルド。あなたは、どうする?」
「お供いたします」
返事の短さが、かえって胸を打った。
◇
門を出る馬車の窓から、一度だけ屋敷を振り返った。
二階の窓辺に、ユリウスの影があった。腕を組んでいる。怒っているのか、呆れているのか、それとも、まだ「理解ある妻」がいつもの気まぐれを起こしただけだと思っているのか。ここからでは、分からない。
分からなくても、もうかまわない。
馬車が動き出す。石畳を車輪が踏む、規則正しい音。前世の通勤電車の、あの低い震えに、少しだけ似ていた。
膝の上の旅行鞄を、両手でぎゅっと抱えこむ。中には、七年分の帳簿と、一枚の離縁状と、それから、もう一冊だけ、古い手帳。さっき書斎の隅で見つけた、私の字ではない走り書き。
銀髪の辺境伯。救国の英雄。名をレオンハルト・フォン・アイゼンベルク。北の領境を守る、氷の異名を持つ人。
いる。
この世界に、いる。
膝の上で、手のひらが勝手に震えた。怒りでも、悲しみでもない。ずっと前から知っていたはずの衝動が、七年ぶりに私の中で息を吹き返していた。
推しが、実在する。
会いに行けば、会える距離にいる。
「ハロルド」
「はい」
「私、この人生、もう一度やり直すわ。今度は、好きなものを我慢しない」
ハロルドは何も言わなかった。ただ、馬の手綱を握る背中が、少しだけ笑った気がした。
馬車は、北へ進んでいく。
推しのために離縁する女が、この世にひとりくらい、いてもいいはずだ。




