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泥を啜れと捨てられた無能令嬢、実は「神の瞳」を持つ奇跡の聖女でした 〜隣国の冷酷皇帝は、私を閉じ込め独占し、世界ごと跪かせる〜  作者: 西園寺ミオ
第5部:全宇宙を「私有地(マイホーム)」にした星冠女王、最愛の娘を狙う多次元の侵略者を最強夫の嫉妬という名の天災で根絶やしにしました

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第79話 閑話:泥の底の懺悔、亡国に残された愚者たち

番外編をお届けいたします。

今回は視点を変えて――エルシア様を「泥を啜れ」とわらった、あの国に残された者たちの、その後を。

どうぞ、最後の泥の一滴までお楽しみくださいませ。


 俺の名は、オズワルド。

 アステリア王国で子爵位をいただいていた、どこにでもいる貴族の一人だ。名を挙げたところで「ああ、あの」と誰かが思い出すこともない、その程度の男。だが今となっては、それこそが唯一の幸運だったのかもしれない。誰の記憶にも残らぬ男は、誰の恨みも買わずに済む。


 結界の消えた王都には、今日も浄化されぬ雨が降っている。

 かつて磨き上げられていた大理石の目抜き通りは、剥がれ、割れ、黒い泥濘ぬかるみと化した。街路樹は立ち枯れ、噴水は淀み、空からはすすのような雨が絶え間なく落ちてくる。俺は襤褸ぼろを頭から被り、崩れた商館の軒下を伝いながら、まだ腐りきっていない食い物を探していた。


 ――泥を啜れ。

 あの夜、我々は口を揃えてそう嗤った。

 今、その泥を啜っているのは、我々の方だった。


 思い出したくもない、卒業パーティーの夜。

 シャンデリアの下で冷たい床に膝をついた、無能とさげすまれた公爵令嬢。エルシア・フォン・アステリア。

 ジュリアン殿下が「この女が義妹に毒を盛った」と声を張り上げたとき――俺は、確かに頷いた一人だった。『証言は揃っている』と殿下は言った。その証言の、ちっぽけな一票が、この俺だ。見てもいないものを「確かに、この目で見ました」と口にした。ただ、王子とイザベラ嬢に睨まれたくなかった。ただ、笑いの輪の内側にいたかった。それだけのために、俺は一人の娘を泥へ突き落とす手に、自分の指を添えた。


 解けた刺繍のドレスを引きずって、彼女は一度だけ振り返り、消え入るような声で言った。

『……いつか、後悔なさいますわ』

 俺たちは鼻で笑った。後悔だと。無能な女が、いったい何を。


 その「いつか」は、驚くほど早く訪れた。


 王宮の跡地へ足を踏み入れたのは、ただの気まぐれだった。金目のものでも落ちてはいまいか――その程度の、浅ましい算段で。

 崩れ落ちた玉座の間に、一人の男がうずくまっていた。

 伸び放題の髪、落ち窪んだ眼窩がんか、枯れ枝のような手足。それでも俺には分かった。ジュリアン殿下だ。この国の、輝かしい第一王子であらせられた、あの御方。

 殿下は、汚れた布切れを――どこかの窓から落ちた、ただのカーテンの切れ端を――胸に抱きしめ、頬ずりをしていた。

『ああ、エルシア……私の、私の聖女……。戻ってきてくれ……。今なら分かるのだ。君こそが、この国のすべてだった……』

 枯れた喉から漏れるのは、かつて自ら追放した女の名ばかり。俺が名を呼んでも、殿下の濁った瞳は俺を映さなかった。彼はもう、過去の幻の中にしか生きていない。掴めるはずのない布切れを、それでも決して離さずに。


 中庭の泥の上を、何かが這っていた。

 最初は魔獣かと身を強張らせた。だが、違った。それは、女だった。

『どうして……。お姉様さえいれば、私はずっとお姫様でいられたのに……! あんな女、死んでしまえばよかったのよ……!』

 しゃがれた声。老婆のようにしなびた肌。抜け落ちた髪。かつて「天才聖女」と持てはやされ、この国の男という男を虜にした、あのイザベラ嬢の成れの果てだった。

 偽りの光は、彼女自身の命をたきぎにして燃えていたのだ。姉の整えた土壌の上でしか咲けぬ徒花あだばなが、その土を失えばどうなるのか。答えが、そこに這っていた。

 彼女は今もなお、己ではなく姉を呪っている。せめて過ちを認めれば、まだ人間の側にいられたものを。それすらできぬから、日ごとに獣へと近づいていくのだ。


 俺は、その場に立ち尽くした。

 恨みではない。もはや、恨むべき相手など一人もいない。

 ただ、途方もない事実が、今さらのように腹の底へ落ちてきただけだ。

 この国が千年、魔獣に食われずに済んでいたのは。街の子らが夜、安らかに眠れたのは。俺のような凡庸な貴族が、酒を飲み、噂に興じ、他人を嗤って日々を過ごせたのは。――そのすべてが、あの「無能」と俺たちが呼んだ娘の、たった一つの祈りに支えられていた。

 誰にも知られず、裸足で冷たい聖碑に額を押し当て、内側から溢れる何かを注ぎ続けた、あの娘の。見返りを求めもせず、ただ愛されたいと、それだけを願っていた娘の。

 俺たちは、その手を掴んで泥に沈めた。守護の聖碑ごと、この国の心臓を、自分たちの手でえぐり出して捨てたのだ。


 救いを求めて、俺は泥の中に膝をついた。

 誰にともなく、許しを乞うた。

 だが、灰色の空はただ煤を降らせるばかりで、返事の一つもよこさなかった。

 自ら踏みにじった愛に、二度目の慈悲などありはしない。俺たちはとうに、それを使い果たしていたのだ。


 その時、遠い東の空が、ふと明るんだ。

 厚い雲の裂け目から、金色こんじきの光の帯が地平線へと差し込んでいる。噂に聞く、中央帝国。あの死神皇帝が泥の中から拾い上げた聖女が、黄金の雨を降らせ、乾いた大地を花で埋め尽くしているという、遥かな国。

 温かく、まぶしく、そして――俺たちには、どこまでも届かない光だった。

 あの光の下に、彼女はいる。もう俺たちのことなど、風に紛れた懐かしい悲鳴ほどにも、覚えてはいないだろう。それでいい。忘れられることこそ、俺たちが自ら選んだ罰なのだから。


 雨脚が強まる。

 俺は襤褸を被り直し、また泥濘へと足を踏み出した。

 この灰色の底の、どこまで続くとも知れぬ道を。

 ――いつか、後悔なさいますわ。

 ええ、殿下。ええ、お嬢様。俺たちは今、確かに後悔しております。

 ただ、それを告げるべき相手は、もうこの世界のどこにも、おられないのです。


番外編をお届けいたしました。


栄華を極めた王子は汚れた布切れに頬ずりし、天才と謳われた義妹は泥を這う。

そして三人目――名もなき偽証者オズワルドの、遅すぎた懺悔。

彼が最後に見上げた金色の光こそ、エルシア様が今なお降らせ続ける、あの黄金の雨の余照よしょうですわ。


罰とは、雷でも、炎でもなく。

「忘れられること」そのものなのだと、皆様に感じていただけましたら幸いです。


エルシア様とギルバート陛下の、あの高みの幸福は――どうぞ本編にて、何度でも。


少しでも「亡国のその後、しかと見届けた」と感じていただけましたら、

ブックマーク や 評価(★★★★★)、感想をお寄せくださいませ。

それでは、また次の一話で。


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