第79話 閑話:泥の底の懺悔、亡国に残された愚者たち
番外編をお届けいたします。
今回は視点を変えて――エルシア様を「泥を啜れ」と嗤った、あの国に残された者たちの、その後を。
どうぞ、最後の泥の一滴までお楽しみくださいませ。
俺の名は、オズワルド。
アステリア王国で子爵位を戴いていた、どこにでもいる貴族の一人だ。名を挙げたところで「ああ、あの」と誰かが思い出すこともない、その程度の男。だが今となっては、それこそが唯一の幸運だったのかもしれない。誰の記憶にも残らぬ男は、誰の恨みも買わずに済む。
結界の消えた王都には、今日も浄化されぬ雨が降っている。
かつて磨き上げられていた大理石の目抜き通りは、剥がれ、割れ、黒い泥濘と化した。街路樹は立ち枯れ、噴水は淀み、空からは煤のような雨が絶え間なく落ちてくる。俺は襤褸を頭から被り、崩れた商館の軒下を伝いながら、まだ腐りきっていない食い物を探していた。
――泥を啜れ。
あの夜、我々は口を揃えてそう嗤った。
今、その泥を啜っているのは、我々の方だった。
思い出したくもない、卒業パーティーの夜。
シャンデリアの下で冷たい床に膝をついた、無能と蔑まれた公爵令嬢。エルシア・フォン・アステリア。
ジュリアン殿下が「この女が義妹に毒を盛った」と声を張り上げたとき――俺は、確かに頷いた一人だった。『証言は揃っている』と殿下は言った。その証言の、ちっぽけな一票が、この俺だ。見てもいないものを「確かに、この目で見ました」と口にした。ただ、王子とイザベラ嬢に睨まれたくなかった。ただ、笑いの輪の内側にいたかった。それだけのために、俺は一人の娘を泥へ突き落とす手に、自分の指を添えた。
解けた刺繍のドレスを引きずって、彼女は一度だけ振り返り、消え入るような声で言った。
『……いつか、後悔なさいますわ』
俺たちは鼻で笑った。後悔だと。無能な女が、いったい何を。
その「いつか」は、驚くほど早く訪れた。
王宮の跡地へ足を踏み入れたのは、ただの気まぐれだった。金目のものでも落ちてはいまいか――その程度の、浅ましい算段で。
崩れ落ちた玉座の間に、一人の男が蹲っていた。
伸び放題の髪、落ち窪んだ眼窩、枯れ枝のような手足。それでも俺には分かった。ジュリアン殿下だ。この国の、輝かしい第一王子であらせられた、あの御方。
殿下は、汚れた布切れを――どこかの窓から落ちた、ただのカーテンの切れ端を――胸に抱きしめ、頬ずりをしていた。
『ああ、エルシア……私の、私の聖女……。戻ってきてくれ……。今なら分かるのだ。君こそが、この国のすべてだった……』
枯れた喉から漏れるのは、かつて自ら追放した女の名ばかり。俺が名を呼んでも、殿下の濁った瞳は俺を映さなかった。彼はもう、過去の幻の中にしか生きていない。掴めるはずのない布切れを、それでも決して離さずに。
中庭の泥の上を、何かが這っていた。
最初は魔獣かと身を強張らせた。だが、違った。それは、女だった。
『どうして……。お姉様さえいれば、私はずっとお姫様でいられたのに……! あんな女、死んでしまえばよかったのよ……!』
しゃがれた声。老婆のように萎びた肌。抜け落ちた髪。かつて「天才聖女」と持て囃され、この国の男という男を虜にした、あのイザベラ嬢の成れの果てだった。
偽りの光は、彼女自身の命を薪にして燃えていたのだ。姉の整えた土壌の上でしか咲けぬ徒花が、その土を失えばどうなるのか。答えが、そこに這っていた。
彼女は今もなお、己ではなく姉を呪っている。せめて過ちを認めれば、まだ人間の側にいられたものを。それすらできぬから、日ごとに獣へと近づいていくのだ。
俺は、その場に立ち尽くした。
恨みではない。もはや、恨むべき相手など一人もいない。
ただ、途方もない事実が、今さらのように腹の底へ落ちてきただけだ。
この国が千年、魔獣に食われずに済んでいたのは。街の子らが夜、安らかに眠れたのは。俺のような凡庸な貴族が、酒を飲み、噂に興じ、他人を嗤って日々を過ごせたのは。――そのすべてが、あの「無能」と俺たちが呼んだ娘の、たった一つの祈りに支えられていた。
誰にも知られず、裸足で冷たい聖碑に額を押し当て、内側から溢れる何かを注ぎ続けた、あの娘の。見返りを求めもせず、ただ愛されたいと、それだけを願っていた娘の。
俺たちは、その手を掴んで泥に沈めた。守護の聖碑ごと、この国の心臓を、自分たちの手で抉り出して捨てたのだ。
救いを求めて、俺は泥の中に膝をついた。
誰にともなく、許しを乞うた。
だが、灰色の空はただ煤を降らせるばかりで、返事の一つもよこさなかった。
自ら踏みにじった愛に、二度目の慈悲などありはしない。俺たちはとうに、それを使い果たしていたのだ。
その時、遠い東の空が、ふと明るんだ。
厚い雲の裂け目から、金色の光の帯が地平線へと差し込んでいる。噂に聞く、中央帝国。あの死神皇帝が泥の中から拾い上げた聖女が、黄金の雨を降らせ、乾いた大地を花で埋め尽くしているという、遥かな国。
温かく、まぶしく、そして――俺たちには、どこまでも届かない光だった。
あの光の下に、彼女はいる。もう俺たちのことなど、風に紛れた懐かしい悲鳴ほどにも、覚えてはいないだろう。それでいい。忘れられることこそ、俺たちが自ら選んだ罰なのだから。
雨脚が強まる。
俺は襤褸を被り直し、また泥濘へと足を踏み出した。
この灰色の底の、どこまで続くとも知れぬ道を。
――いつか、後悔なさいますわ。
ええ、殿下。ええ、お嬢様。俺たちは今、確かに後悔しております。
ただ、それを告げるべき相手は、もうこの世界のどこにも、おられないのです。
番外編をお届けいたしました。
栄華を極めた王子は汚れた布切れに頬ずりし、天才と謳われた義妹は泥を這う。
そして三人目――名もなき偽証者オズワルドの、遅すぎた懺悔。
彼が最後に見上げた金色の光こそ、エルシア様が今なお降らせ続ける、あの黄金の雨の余照ですわ。
罰とは、雷でも、炎でもなく。
「忘れられること」そのものなのだと、皆様に感じていただけましたら幸いです。
エルシア様とギルバート陛下の、あの高みの幸福は――どうぞ本編にて、何度でも。
少しでも「亡国のその後、しかと見届けた」と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価(★★★★★)、感想をお寄せくださいませ。
それでは、また次の一話で。




