№0008
最終回です。
ここまで足を運んでくださり、本当にありがとうございます!!
次の瞬間、少女は傷ひとつない虫パトスを口元に持っていって、目を瞑りながらそれを噛み切った。
ぶちっ、という鈍い音を立てて千切れるそれは、この世の姿であるとは思えないほど猟奇的な景色だった。
断面から、白い神経と思われる糸がだらりと垂れ下がった。緑色の汁がこびりついている。
少女が可愛がっていた虫の体内はこのように、生命の神秘すらも冒涜するのだろうかと少年は疑問に思った。
その光景に現実世界を疑った。
少年を遠い世界の知らない美術館の一角に誘って、巨大な絵画でも見せつけられているかのような感覚に陥れた。
虫の断面から涙のように流れ落ちる鮮血は、あの残酷な見た目からは想像ができないほど、鮮やかで美しい赤だった。
その一筋の赤が少女の白色の素肌を這う様は彼の中で、永遠の芸術となった。今後、少年はこの瞬間の出来事を思い出すだけで、陶酔する事ができるのである。
数秒もしないうちに、少女は虫を全て口の中に含み、咀嚼し、うるうるした瞳で少年を見つめながら、口から流れ落ちた一筋の鮮血を手で拭った。
その手はもう二度と、あの虫を撫でる事はできない。その事実に、少女は心を痛めていたのかもしれないなと、少年は痛烈に感じ取った。
「まだ、その口の中には……パトスの破片がいるのかい?」
少年は少女に問いかけた。
「いいえ。もう全て私の内側よ」
「じゃあ。今度は僕が」
「平気?」
「どういう意味?」
「クネクネした虫とか苦手じゃなあい?」
「大丈夫だよ」
「ふふふ……ねえ、本当に大丈夫? 今度はアナタがそのお口で……」
ここまで来て、再度確認してくれる少女の優しさで少年は今回、本当に救われたのだ。
実はまだ、彼は心の整理ができていなかった。
彼女が食したのはまだ傷ひとつないパトスである。
そしてこれから喰おうとしているのは、無残に潰され、目も当てられない程の死に方をしたロゴスである。
体は張り裂けて、中身の器官は飛び出し、中腹の突起物は折れ曲がって、その奥に隠された精巣と思われるブツブツから膿の塊をのぞかせている残酷な虫である。
実際にこの虫を口にするというのは、大罪を犯した者が地獄で受ける刑罰に等しかった。
「ごめん。本当の事を言うと、実はまだ受け入れられなくて」
「じゃあ、最初は私がロゴスを咀嚼するわ。そのあとに、アナタの口の中に流すの。全部」
虚ろな少女の瞳を見て、彼は了承した。
何時にも増して、目の前の少女は可憐で魅力的な佇まいをしているなと彼は思った。
微かに笑みを浮かべる気品あるその姿は、彼の心の内の戸惑いを払拭してくれるかのようだった。
少年は、孤高の少女の姿を脳裏に焼き付けながら、彼女の瞳の奥に何かを守りぬく信念のようなものさえ感じ取ったのだ。
さっきまで、おどろおどろしい虫をその清らかな唇の奥で噛みちぎっていたと思えない程の姿で、少年を誘っている。
「始めるね」
その声は少しだけ震えていた。
少女が手に持っている潰れた虫はすぐに唇に触れた。
残酷な姿に変わり果ててしまった虫と彼女の唇とのコントラストは、昨日感じた鮮明な記憶を蘇らせ、彼に多大なる衝撃を与えててから、少女の唇の中へと入って行った。
ぶちっ、という鈍い音を再び立てて、少女は虫を噛みちぎった。その音と同時に中腹の折れ曲がった突起物が根元から剥がれた。少女の可憐な唇にだらりとぶら下がっている。
突起物が剥がされた事により、精巣と思われるブツブツの器官の全貌が、明らかになった。
その醜悪さに彼は反射的に目を背けた。あまりにも凄惨なその姿は、少年の血液を凍らせ、思考を鈍らせ、感情をゴシゴシと拭き取って行った。
しかし少女は、虫がぶちまけた体液も、断面から伸びた糸のような神経も、血も、精巣さえ、愛おしく全て口の中に入れて愛撫している。少女はそれに、微塵も険悪感を感じてはいない様子だったのだ。咀嚼は数回あった。ただ、数回だった。
これからされる行為を想像した時、少年は狂いそうになって、その狂気を鎮めるかのように少女の表情を眺めた。
唇をうっとりと見つめた。彼の口にこれから注がれるものは、バーミキュライトでも精液でもない。それらの本体であり根源でもある。
「本当にだいじょうぶ?」
「ああ。ほんとうに大丈夫!」
「よかった」
少女は少年を抱き寄せた。ギュっと強くしがみついてくるから、少年の胸の奥に熱いものを込み上げさせた。
少女の体をより濃く感じて、少年は最終的な生命に感謝した。
人通りが少ない道だったが、ここは外である。
教会の十字架が立つ住宅街の一角である。
けれども二人の心に羞恥の念は一切なかった。彼らにとって何よりの不安は、破廉恥ではなく、虫の存在を知られてしまう事だったので、ある意味でこの痴態によってカモフラージュがなされていたのかもしれない。直後に二人は唇を重ねた。
それは、虫の存在を確認する事ができる最後の口づけだった。少女の唇の奥から、潰されたロゴスの肉片が注がれた。
まだ、生きていた頃の触感を残しているそれは、凄まじい程、少年の口の中で暴れて呼吸を妨げてくる。
少女の清らかな口づけが、気休めでしかない程に酷だった。
歯を食いしばる度に砕け行く虫の破片を感じた時、彼はこの世界の本当の罪を感じ取った。我々のような人間は、たとえ一千年も懺悔し、永遠と神の子にその肉体と捧げようとも、決して赦しを得る事はできないと確信していた。
聖書の言葉や神の慈悲など受ける権利も余地もなく、黙って等活地獄に叩きつけられると知っていた。
けれども、けれども例えどのような場所に落ちたとしても、二人はこの残虐な虫を、無残に潰れた凄惨な虫の死体を喰って生きるのだと心に決めもしていた。
そうする事がこの二つの虫に対する真実の愛であるのだ。この虫の存在を粉々に崩して世間に知らしめない事こそが、彼女の守り通す愛なのである。
しかし、少年は限界だった。
口の中にある如何ともしがたいこの苦汁をいつまでも噛みしめている訳にはいかなかった。
一秒でも早く喉の奥に流して胃の中で溶けて欲しかったけれども、緊張で乾いた喉に流し入れる為には、少女の唾液だけでは足りなかった。
少年は、辺りを見回した。
「ねえ。自販機がある。飲み物を買ってこようと思うんだ」
「……いちごミルク。私、いちごミルクが飲みたい」
「ああ。分かった」
少年は、おぼつかない足取りで立ち上がって、自販機の方向へ歩き出した。途中で何度も胃液が込み上げて、幾度となくえづいた。だが吐き出す訳にはいかなかった。
この虫の存在を隠し通し、例えもう遅かろうがDNAの一本たりとも路上に残したくはなかったのである。
少女の守り通した虫に対する真実の愛を、自分が踏みにじる訳にはいかないと半ば強引に足を進め、財布から千円札を取り出して、自販機に吸い込ませて、いちごミルクのボタンを連打した。
少年がふと我に返った時には、彼の口の中はコチニール色素で洗い流されていた。そうして、目の前にいる少女も幸せそうにいちごミルクを口にしていた。
その光景を目にした時、少年は胸をなでおろした。これで終われるという安心感が全身を包んで、少女の守り通した愛情を噛みしめて、胃酸で溶け行く凄惨な虫をも忘れた。
彼は地面に倒れ込んだ。そうしてまだ口の中を洗浄してくれているいちごミルクの桃色をしっかりと受け入れ、再び安堵の為に大きく息を吐き切った。湧き上がる自分たちの終焉を直感し、それと同時に押し寄せてくる多大な幸福も感じて、倒れた。
少年の胸に、脱力感が重くのしかかった。少女の胸に、幸福感が鮮やかに差し込んだ。
かくして二人は、この二匹の虫の存在を決して公に出す事なく、日常に戻ったのである。
平凡な日々の中で少年と少女は、人の姿をした虫と変わり果て、今も冷静に暮らしている。
新種の虫は、もういない。
決して、どこにも。