第三章 ・・・ 7
得られる警察の情報は、捜査会議で集まった内容をデータとしてインプットしているものに限られる。
だけど池田はじめ刑事たちの手帳の中身。あそこには、もっとリアルで最新のデータが記入されていることだろう。
世羅が隠していることを、一秒でも速く、一欠片のヒントでもいいから知りたかった。そう玲華が話した。だからドレスのまま館を飛び出したのだと…。
玲華と世羅の間には歴史がある。それは簡単に俺が踏み込むことができないようなものに感じた。
―――絆。
俺が持ってないもの。最初に感じたときは、羨ましいと思った。だけど今、それが壊れかけている。
踏み込めないから、自分は傍観者になるしかない。為す術がないんだ。事件解決したら元に戻るんだろうか。それなら頑張るだけだ。
(でも、なにか取り返しのつかないことになったら…?)
「聞いてるか?悠汰」
ふと久保田の声が感覚を貫いて俺の思考を停止させた。
(あー…そっか)
作戦会議中だった。俺は聞いてる、とうそぶいた。
「警察は世羅を追っているから、オレたちが動くとしたらコイツを調べるべきだと思う。同じもん追っても効率悪いからな」
そう言いながら久保田は、自分が書いた家系図の浅霧邦春のところを指差した。
世羅の義理の父親…。虐待してたという…。
「邦春様は頭は良くないけど、がめつくて強かよ。簡単に尻尾は出さないと思うわ」
「なら諦めるか?」
「冗談!その意見には賛成よ。ただやり方を間違えないようにしないと、って言ってるの」
「確かにな。君ならどう出る?」
「なんでもいい。邦春様の弱味を握って喋ってもらうように脅すのよ。拷問するより効果があるわ」
「ごっ……!」
なんだか、玲華がイキイキとしてきたように見えるんだが…気のせいであってほしい。
「それで?邦春氏の弱味とは?」
隣で青くなってる俺を無視して久保田が続きを促す。
ダメだ…。コイツら同類だ。
(席替えしてえ…)
とりあえず横と前で交差して話されているから、居心地が悪い。
祥子さんと世間話していた方がマシかも…って本気で考えた。だけど祥子さんは、ただニコニコ笑いながら黙って聞く側に徹している。ここは俺と同類ではないようだ。
「いちばん邦春様が恐れているのは、美希子様に捨てられることよ。捨てられて浅霧から追い出されないように必死なの」
「そうだろうな。彼は元々金に困るような人生を歩んでる」
「そういえば再婚するとき周りは大反対だったわね。遺産目当てだろう、とか言われてたし、子どもながらにあの対立は凄まじいものを感じたわ」
(それで馬の骨か……)
盗み聞きしてしまった内容を思い出す。未だに兄弟たちにそのシコリが残っているようだ。
「バレる前に…って」
なんと言っていた?世羅の母親は。
そうだ。
「お父様にバレる前になんとかしないとって、言ったんだ」
「なにが?」
「いきなりどうした?」
考えが口に出てしまって、不信そうな目で皆に見られた。そういえばこの事はまだ話してなかった。 俺はなるべく思い出して脚色を加えずに、聞いたままを伝えた。
「確かにその噂って世羅のことね。でもそれなら功男様もご存知のはずだわ」
腕組みをして眉間にシワを寄せながら玲華が呟く。
「なんでもっと前から聞いておかないんだ!なにか重要なことを話してたかもしれないのに」
「んなこと言われたって知るか!俺は玲華を探していただけだ!」
久保田に責めるようなことを言われて、焦って弁解してしまった。まったくコイツの変わり身の早さにはついていけない。事件には関わるなって言ったくせに。
「だったら、あの兄弟たちは重要なことを知ってんだよな。そいつらも脅して吐かせれば」
投げやりに、この二人に合わせて俺は言い放った。
ホントに、深く考えずに言っただけなのに、久保田も玲華もすごく深刻な感じで頷いた。
「それもいいわね。だからやっぱり、邦春様を仕留めれば万事解決するのよ」
「そうだな。調べたら一番簡単にボロが出そうなのは彼だ」
ああ…ダメだ。俺の入る余地がない。というか入りたくない。
「じゃあそういうことで、久保田さんよろしく」
「オレは忙しいんだ!近い位置にいる君が適任だろう」
「近すぎて警戒されてるのよ。忙しさを理由にする人って好かれないわよ」
「あのなあ、オレは悠汰から離れられないの!わかってんだろ」
なんか不毛だ。
俺は、何の気なしに頭に浮かんだことを言ってみた。
「ってかさあ、そういうことはコンピューターで探れないワケ?」
そしたら、二人ともこちらを見て。
「いや…それはどうだろう…」
「まーそういう手もあることはあるんだけどね…」
とかなんとか言いながら、部屋の隅に置いてある、パソコン机まで揃って向かって行った。
意外と盲点だったらしい。
二人がソファから抜けて、すごく解放感を感じたのはナゼだろう…。俺はそのままソファに横になる。
祥子さんと目が合った。
「神崎くんは行かなくていいんですか?」
「あんなん見てもさっぱりわかんねえから」
「そうですね、わたしも同じです。………でも良かった」
祥子さんがふと声の調子を上げた。
「先生、久しぶりに楽しそうです」
「そうかあ?」
俺には全然そんなふうには見えない。むしろ玲華に怒鳴ったりして不愉快そうだ。
「ええ。最近ふさいでましたから。今回の依頼、先生にとってもわたしにとっても、とても意味のあるものになってるんです」
今回の依頼というところで、無関係ではないことを知って祥子さんを見た。
目を伏せ軽く俯きながら、それでも口元は笑んでいた。
「先生がわたしに負い目を感じてるってことは気づいていたんです」
(あ…このまえの…)
車の中で聞いた話だ。
「だから神崎くんにわたしを重ね合わせたんじゃないかな?先生は神崎くんを助けたいと想っていると思います」
「実際に助けてもらったけど」
「そういうこともあるんですけど、それだけではなくて、精神面のことです」
俺はふと久保田を見た。玲華とあーでもないこーでもないと言いながら、パソコンに向かっている。
こちらの会話には気づいてないようだ。
「あなたを護るうちに情が湧いたんでしょうね。こんなことはわたしが知る限り初めてなんですよ」
「でもそんなん…同情だろ…」
「同情でもなんでも情は情じゃないですか」
哲学めいたことを言う。
俺にはよくわからないくて、眉をひそめた。
「愛情の方が良かったですか?」
「ありえねえ!」
これには即答できた。スッキリした気持ちが生まれる。
祥子さんは声に出して軽く笑った。
「でも、無責任なただの同情ではないことは確かだと思いますよ。余計なお世話だと、神崎くんは思われるかも知れませんが、先生は真剣です」
「なんでそんなこと言うんだ?」
わざわざ。
まるでだから許してあげてくれ、とでも言いたいかのような。庇っているようなものを感じた。
(許すってなにを?)
「先生が楽しそうにしてるのは、本当は最初からあなたに協力したかったんだと思います。強引な方法だったけど、玲華さんに協力する理由をもらえて、少しだけ気持ちが楽になったんじゃないかな?」
祥子さんから久保田に対する想いが伝わってきた。
労るような、安心したような想い。
好き、なのかな。
少し勿体ない気がした。
* * *
「悠汰、起きて」
また俺は知らない内に眠っていたらしい。玲華に激しく揺さぶられて起こされた。
祥子さんとの話が一段落ついたところの記憶はあるから、会話の途中で寝るっていう失礼なことはしてないはずだ。というか、これって酔いつぶれた人の考えることじゃないか…。
「悠汰!早く起きないとイタズラするわよ」
ぼんやりしていたら、玲華がまた良からぬことを企んでる顔で言ってきた。
「起きてるよ。目え合ってんだろ」
イタズラってどんな?とは、口が裂けても訊けない。聞いたら後悔する。間違いなく!
慌てて体を起こしたら、久保田も祥子さんもいなかった。
「二人は?」
「給湯室の方。祥子さんは洗い物してる。久保田さんは換気扇の下でタバコ」
親指で玲華が後ろを示す。
あいつ煙草なんか吸ってたのか。見たことが無かった。
我慢してたんだろうか?ふとそう思ったけど、俺はべつに気管が悪いわけじゃないから違うな、と思い直す。
「で?………なんだっけ?」
「んもー寝ぼけすぎ。ゆするネタでしょ」
「脅しからゆすりに変わってんぞ、おい」
どちらがマシかは知らないが…。
どちらにしても悪いことだ。堂々としている玲華の心情が理解できない。
「なんかあった?」
「有ったか無かったかと聞かれれば…有ったかな」
険しい顔ではっきりしない言い方をする。
「……あったんなら良かった…んだよな?」
「頑張るわ」
不安になったから確認するように聴いたら、よくわからない答えが返ってきた。
なんか気合いが入った眼で上の方を見ている。ますます不安だ。
「その内容は?」
「浅霧雅男氏が取締役をしてる株式会社シュウリスという企業がある」
一服が終わったらしい久保田が、変わりに答えながらこちらに来た。
株式会社シュウリス、俺でも聞いたことがある大企業だ。輸入家具などを扱っていて、テレビのCMでも良く見る。
「どうやらお金の流れで怪しいところがあるな。裏帳簿が存在するみたいだ」
「それが功男様に隠してることかどうかは分からないけど…。でもそういうことなったら、皆が仲間ってことになっちゃうわ」
想像したより、大きな不正が見つかったようだ。だからこんなに空気が重いんだ。
俺としてはデカすぎて、高い位置にありすぎて実感がわかない。
「頑張るっていうことは、それを脅しに?」
「まだよ。情報だけなら簡単に言い逃れできてしまうわ。現物をつきつけないとね」
「ここからはオレがする。おまえらは連絡待ちだ」
仕事用の、それもかなり厳しい顔つきで久保田が低い声を出した。それがさらにヤバイことなんだって実感させた。
俺は正直ビビって言葉が出なかったけど、だけど、玲華は黙ってなかった。
「冗談でしょ?ここまできて、ただ待ってるなんてイヤだわ」
「向こうが本気になればオレらなんてすぐ潰される。探っていることを、いかにバレずに目的のものを掴むかが重要なんだ」
「危険なことぐらいわかってるわ。でも言い出したのはあたしなのよ!」
「最悪の場合、相手は人殺しすら出来てしまうヤツってことになる。君は殺されたいのか?」
「んなわけないでしょう!それも含めてわかってるつってんの!覚悟はしてるわ」
「駄目だ!オレは悠汰は護るが君は護れない!二人同時に危険が襲えば、迷わず悠汰を護る」
「護ってくれなんて誰も頼んでないでしょっ!なによ!いきなりやる気出さないでよ」
どちらも一歩も引かなかった。さっきは押し付けあってたのに…。
対等に渡り合えている玲華はスゴイ、と何度も思ったけど……だけど俺は見てしまった。玲華の拳が震えているのを。
玲華だって恐いんだ。それを押し殺して、いろんな想いで引き下がらない。
強いって思ってたのに、やっぱり玲華も普通の高校生なんだ。俺と同じ。
「玲華は俺が護る」
そんな力も無いくせに、なに言ってんだと言われればそれでおしまいだけど、俺は本気でそう思った。
「悠汰」
「おまえ…」
「だけど玲華、証拠を掴むのは久保田さんに任せよう。そっからの脅しとか、調査には参加させてもらうからな」
なにか言いたそうな二人を無視して、俺は勝手に仕切った。このままでは終わらないと思ったから。
「ってことでもう寝ようぜ。いくら明日休みって言ってももうこんな時間だし」
俺は掛け時計を指差した。
時刻は午前四時すぎを示している。早くから仕事が始まる人にとっては、すでに朝だ。
「昼夜逆転しまくってるおまえが言うな!」
「あんたお昼もさっきもすでに寝てたじゃない!」
二人にすっごく非難されたけど、不思議とその前についての提案は却下されなかった。
誰も何も言わなかったから、多分納得したんだろう。
* * *
玲華は欠伸を何度もしながら祥子さんと祥子さん家に帰って行った。
俺はそのままソファで寝てしまったけど、久保田も家には帰らず事務所で寝たみたいだった。…みたい、ってのは俺が起きたときにはもういなかったから。
それがだいたい朝の九時頃。
ソファで寝たせいか体が軋んでちょっと痛い。
好きなだけここにいろ
夜までには帰る
テーブルの上を見ると、たった二行の置き手紙があった。
ぼーとしていたら昼前くらいに玲華たちが来て、ご飯を祥子さんが用意してくれた。
手紙を見て玲華が。
「なんか愛人相手に書いたみたいな内容ね」
と言っていた。よくわからない評価。
その場合、俺が女になるんだろうか。…余計な心情が増えた。
「悠汰、午後からどうすんの?」
祥子さんが作ってくれた朝食兼昼食のオムライスを食べながら玲華が言う。
「アイツの帰り待って…、家に帰る」
「ええっ?」
モゴモゴと俺もオムライスを口に含みながら答えたら、すごくびっくりされた。失礼なやつだ。
「ずっとここにいるわけにもいかねえし…フロ入りたい」
「だからウチでいいのにって言ったのに…てゆーか、お風呂入ってないんだ…。そういえばそーか」
そっかそっか、と繰り返しながら、ちょっと玲華が離れた気がした。やっぱり失礼なやつ。
「じゃあウチで入っていこうよ」
「いい…」
「遠慮しないで、ってゆーか入って」
強引に言われたもんだから、本当にお風呂だけもらいに行ってしまった。
確かにやることもないし。
眞鍋さんの運転で事務所と玲華の家を往復した。
その間両親に会うことはなかった。まるで鬼の居ぬ間にナントカみたいで、いいのかなあってちょっと思ったけど、どうせ葛城さんが報告するんだから知られるんだろう。
玲華も何故かまた事務所までついてきた。
暇なのって言っていたけど、多分玲華も心配なんだ。
昨日の今日で……時間的には今日の今日か…なにか危険な目に遭ってるとは思えないけど、気にはなってる。
だけど…わたしにも連絡がないなんて、初めてのことです、と祥子さんが言った。
それから三人で久保田の帰りを待っていたけど、結局久保田は帰って来なかった。午後八時くらいに、「帰ってきたら連絡します」と祥子さんが強く言うので、俺たちは帰ることにした。
それからまた、眞鍋さんが俺の家まで送ってくれてる。
確かに運転手の仕事って大変だ。楽な仕事なんてないってのはよく聞くけど。
「明日学校か…」
窓の外を眺めながらボンヤリ玲華が呟いた。
「連休明けのサラリーマンみたいだな」
玲華も行きたくないとか、そんなことを思ったりすることに驚く。
「悠汰は行きたくないっていう日はないの?」
「俺の場合、家の方が居心地悪いから」
ただ一つの真実として言った。自虐的な発言に聞こえたみたいで、玲華が辛そうな顔をする。
そんな顔をさせるために言ったんじゃないのに。少し後悔した。
「あー、でも中学のときに純平と…純平って友達なんだけど、ソイツと大喧嘩したことがあって、さすがにその次の日は行きたくなかったな」
その喧嘩のおかげで、その後もっと仲良くなれたんだけど。そう話したら玲華に笑みが戻った。
「男の子って、そういうところはっきりしてて良いわよね」
「玲華だってハッキリ物言うだろ?」
「まーね。でも女同士だと気をつけてるわ。世羅以外には」
女って面倒なことをいろいろ考えてるなって、そんな気がした。
そんなことを話しているうちに、高級車は不似合いな住宅街を入って、俺の家に到着した。
―――やっぱり母親の車がある。最近みた光景が、再び目に写った。
あの時より、少しは変われてるだろうか。少しは、強くなれただろうか。
「悠汰、あたしも行く」
眞鍋さんが先に降りて玲華側の――つまり家の方――ドアを開けた。
展開についていけず一瞬間が空いたけど、慌ててそのまま降りようとする玲華の腕を掴んだ。
「や、やめろよ。俺なら大丈夫だから!」
「違うわ。確かに悠汰のことは心配だけど、そうじゃなくて、一応あたしが連れ出したから…挨拶よ」
ふんわり笑って俺の手をすり抜ける。 いや、そうじゃなくて。
(俺が見たくないんだ!)
ヒステリックな母親と、サッパリしてる玲華。絶対合わない気がする。
俺の心の叫びを無視して、なんの躊躇いもなく呼び鈴を押した。
(ウソだろ…)
応答も何もなく、母親が玄関の扉を開けた。すでに怒り狂った気持ちを、押し込めてるみたいな顔をしている。
多分カメラを覗いて、この状況を理解してから出たんだ。
母親は視線をそこにいる全員に一巡させ、そして玲華を見た。
「あなたが悠汰を連れ出した西龍院さんね」
「ええ。はじめまして、悠汰くんのお友達の西龍院玲華と申します」
玲華も負けずに笑みを浮かべて挨拶した。やはり咲田さんはすべてを言っていたんだ。
「どういうつもりかしら、謹慎中のこの子を二日にも渡って連れまわすなんて。今日も帰らなかったら、警察に通報するところだったわ」
「申し訳ございません。ご連絡を怠ったことは謝罪いたします」
「ちょっ…、違う!俺から出たんだ、コイツは関係ない!」
玲華が頭を下げたのを見て、やっと今更ながら俺は声が出せた。
そんなことさせたくなかったのに、勇気がなくて迷っている内に…どんどん進むから。
「あんたは黙ってなさい。ここではご近所迷惑だわ。不本意ながら入れてあげるから、中で話しましょう」
玲華は受けてたつわ、とあからさまに言ってる感じに頷いて、眞鍋さんに待っててと指示した。
「その車も目立つから離れたところに居てちょうだい」
「眞鍋さん、その通りに」
声もなく一礼して眞鍋さんは車に乗り込んだ。そのままエンジンをかけて走って行く。それを見送る間もなく母親に言われた。
「悠汰も早く入りなさい」
「……っ!」
なにか言い返したいのに、何を言えばいいのか分からない。
俺は母親と玲華に続いて家に入った。
扉を閉めると、いつものように間髪入れずに母親の右手が伸びた。左頬に衝撃と痛みが走る。
母親の気にする“他人の目”の中には、未成年は含まれていないようだ。玲華を飛び越えてまで制裁をくだすとは思わなかった。
さすがの玲華も、突然の出来事に息を呑んだのが分かった。
(ちくしょう!玲華のまえで!)
情けなさすぎる。こんな惨めな姿を見られたくないのに。
「二人とも来なさい」
先に立って母親はリビングに促した。また閉塞感のなか、俺はついていく。
「いきなり暴力ってどうかと思いますわ」
耐えられないというふうに、でも丁寧な口調で玲華が切り出した。
それに俺が戸惑う。やめろ、余計なことは言うな。そう止めたいのに、声が出ない。
くつろぐ空間であるはずのリビングが、その役目を果たさずに暗くて嫌な空気に包まれる。
母親が聞こえるように舌打ちをした。
誰も座ろうともせず、母親も丁重におもてなしするつもりはないみたいだ。玲華も玲華でそんなものを望んでいないのがわかる。
「他人は口出ししないでくれる?わかってるの?あなたは人の息子を連れ出したのよ!誘拐犯と言われても否定できないの」
「わたくしはただお友達を誘いに来ただけです」
「そんなことで通用するほど、この世のなかは甘くないのよ。私が訴えればどうなると思う?」
「おば様こそご存知ですか?男の子が一泊開けたぐらいで警察は動きません、通報したって笑われるのがオチです」
「生意気言うんじゃないよ!」
母親の中のなにかが切れた。一喝して手を上げる。
――ブツ気だ。
そうわかってから、俺は今まで動けなかったのが嘘みたいに咄嗟に間に入った。二発目はなぜかそんなに痛くなかった。ナリフリ構ってられない母親の、感情に任せての平手打ちだったのに。
「悠汰!」
「なにしてんのよ!あんたは!」
俺が玲華を庇ったのが面白くなかったみたいで、更に三発立て続けに殴られた。
殴られるのは、慣れてる。
言葉では勝てないけど、殴られて母親の怒りが収まるなら、それでいい。玲華が殴られるより、ずっといい。
「やめてください!どれだけご自分が理不尽なことしてるか、おわかりですか!」
「うるさいんだよ!小娘が!どこのお嬢様か知らないけど人の家庭に口出しすんじゃないよ!」
「あー。悠汰くんが口が悪いのはお母様に似られたんですね」
「なんですって!いい加減黙りなさい!」
また、母親が手を上げる。
やっぱりだ。だから見たくなかったんだ。
感情的に暴力をふるう母親と、公平で正義感溢れる玲華。どれだけ母親が叫んでも玲華は逃げない。それは殴られることも恐れず、立ち向かうことさえ厭わないほどに。
「もうやめろよ!」
見たくないんだ。余裕のない母親も、俺のせいで傷つく玲華も。
「もう帰ってきたんだからそれでいいだろ!俺が悪いんだ!」
母親の手が止まったのが確認できた。少しだけ力が抜ける。
「俺が悪かったから…もう、やめて。……誘拐なんて、されてるわけがない。俺が…逃げ出したんだ」
心から望んで出て行った。解放感さえあった。だから後悔なんてしていない。
「言いつけを破ったら、どうなるかわかってんでしょうね」
(破ったら?)
………わからない。
今まで母親の機嫌を損ねたことは多々あったけれど、こんなふうに罰から逃げたことはなかったから。
これ以上なにがあるっていうんだ。
自然と心が沈む。世界が暗く、狭くなる。
「ダメよ、そんなこと」
玲華の声が自分の世界を切り裂くように俺の中に刺さった。心臓の真ん中。 世界全体が戻された感覚があった。
「良くないわ。なにもわかってもらってないじゃない。そもそも謹慎処分が不当だって言った?おば様も、彼から事情をお聞きになりました?」
親子の間を取り持つように言う玲華に、母親は僅かに声を落として視線を横に向けた。
「子どもなんてね、平気で嘘をついたり言い訳して逃げたりすんのよ。だから聞いても無駄よ!信じないことにしてんの」
「そんなこと思ってたんだ…」
初めて聞いた母親の本音。
気づかなかったと言えば嘘になる。だけど気づきたくなかった。思い知りたくなかった。ひと欠片も信用されてないことなんて。
「いつ、俺が嘘をついたって?」
笑えてくる。 全然可笑しくないのに、不思議と笑みが止まらない。とうとう俺は狂ったのかもしれない。
「なんなの?」
気味悪そうに母親が顔を歪めた。
玲華は………。分からない。玲華を認識する余裕がない。
「言ってみろよ、いつだよ。…わかるはずないよな。一度だってまともに聞いてくれてないんだから……」
最初から、子供のときから一度だって最後まで俺の言葉を聞いたことないくせに、勝手に決めるな。
「決めつけないで。俺のことコントロールしないで」
「決めてあげないと何も出来ないからじゃない!すべての入試に失敗して!高校だって友達と一緒がいいなんて、あんな三流高校行こうとするし、バカじゃないの!」
母親は棚に飾ってあったものを掴むや否や俺に向かって投げてきた。
右腕の二の腕に衝撃があった。
勢いが止まらず壁にも当たり重い音がしてそれが落ちた。置き時計だった。ガラス部分が欠けて、電池が転がってる。
「ほっといたらロクなことしないじゃない!変な事件には巻き込まれるし、ぶっさいくな顔して帰るし!今度はなに?外泊?呆れてモノも言えないわっ!ウチも神崎にも、そんな落ちこぼれ今までいなかったのよ!誰に似たのよあんたは」
ほら。結局こうなるじゃないか。少しでも言い返したら何倍にもなって帰ってくるんだ。
「話を聞いてないって?あんたなんかすぐ黙り込んで何も言わないくせに!なにか言い返したいならねえ、結果を見せてからにしてちょうだい!」
言っても無駄なんだ。
この人には何も届かない。俺の言葉も想いも、なにも。
「いい加減にしてください。悠汰はあなたの道具じゃないわ」
まただ。また暗闇に光が射したみたいな感覚を覚えた。
いつもと違うのは玲華がいたことだ。玲華の声が濁ったこの家を浄化して、解放する。
「決めて“あげてる”ですって?冗談じゃないわ。自分のことは自分で決めるものなのよ!それは親だろうと口を挟む権利なんかない」
「あんたにはもっと口挟む権利ないわよ。ぬくぬくと育ってきた箱入り娘は箱から出てくんなよ!」
「やっぱりね。あなたは人を見る目がないわ。自分の教育が下手っくそだったのを悠汰のせいにすんなって言ってんの!」
「なんですってえ!子育ての苦労も知らないガキのくせに!」
なんでこうなるんだろう。母親の怒りの矛先をいくらこちらに向けても、何度も玲華は突っ込んでくる。
―――玲華はただ護られてるお姫さまじゃなかった。
今ごろ綾小路の言葉なんかが出てくる。
(確かにな…)
納得できる。
「もういいよ玲華」
もういいんだ。変わりに怒ってくれた。それだけで嬉しいから。
「もう帰っていいよ、ありがとう」
玲華の腕を引っ張ると、彼女は戸惑った。
「あ…でも……」
「待ちなさい!まだ話は終わってないわ!」
「話?」
よく言う。人の話なんか聞かないくせに。話し合いなんて無理だ。
「八つ当たりの間違いなんじゃないの?」
他人の子ども相手にまで、こんなふうに感情的になるとはさすがに思わなかった。幻滅させられた。
だから有無を言わさずに玲華を玄関まで送った。
これ以上ここにいたら、どんどん彼女に嫌な想いをさせる。そんなのはイヤだから。
「悠汰…」
心配そうに俺を見て、なかなかサンダルを履こうとしない。
「大丈夫だから」
なるべくそう見えるように笑みを作る。
でも本当に心が軽かった。どこかでまだ痛むけれど、重さがないだけマシに感じるんだ。
「悠汰!勝手なことを!」
外に出るまえに母親が鋭い声で呼び止めていたけれど、追いかけてまでは来なかった。
「眞鍋さん、呼ばなきゃ」
珍しく動揺しているのか、玲華の動作が遅い。あんな母親のまえでは対等でやり合っていたのに。
変なヤツだな、と思う。
でもそうさせたのはたぶん俺だ。いきなり強引に帰すような感じになったから。
「ごめんな。嫌な想いさせて」
玄関のまえの段になっているところに座りながら、思ったことを口にした。
玲華は携帯電話を取り出すと、呼び出し音が掛かったのを確認するだけで、出もしないですぐ切った。
そのまま汚れるのも気にせず俺の隣にくる。
「うん、驚いた」
「………普通、タテマエでもそんなことないよ、って言わねえ?」
素直に頷くもんだから、ちょっと可笑しい。
「嫌な想いしたのは本当だから。っていうか……悠汰がそういう気持ちにさせられてるのが、嫌だった」
真面目に玲華が答える。
「それにそういう社交辞令的なのキライでしょ」
それから苦笑いした。
確かに俺はそう言った。玲華にはちゃんと伝わってる。
この世のなか、全員が親のような人間じゃない。それが分かるたび救われたような気持ちになるんだ。
* * *
玲華を見送って家に戻ると、母親はダイニングの椅子に座って頭を抱えていた。 俺が入ってもそのままで口を開いた。
「なんなのよ。みんな勝手なことばっかり!人の気も知らないで」
みんな――?
複数に向けた怒りなのか。
「兄貴は?」
気になって聞いたら、母親が弾かれたように立ち上がりテーブルを力任せに叩いた。
「帰ってないわ!最近塾にも行ってない日があるのよ!ねえ、あんたのせいなの?あんたが勝手なことばかりするから惣一にまで伝染したの?」
そんな病原菌みたいなこと言われても困る。兄貴だって、俺を見下してる内の一人なのに。
(俺にとっては、親と同類で)
だけど、それでわかった。いつもより激しかった理由が。
「伝染るわけないよ…。彼女でもできたんじゃない?」
「あんたと一緒にすんじゃない!女にうつつ抜かすなんて十年早いのよ!」
そうかな。高三なら充分じゃないかな…。相手が世羅ってのはあり得ないと思うけど、本当にいる可能性だって充分ある。
だけどまた座り込んで、ため息をついている母親は、とても小さく見えた。昔は、父親の次に恐ろしかったのに…。
いつのまにか、俺の方が背も高い。
(力も、きっと……)
「お父さんに報告するからね!」
そうか。こういう奥の手があったんだ。
軽くなった心が、また沈んでいった。