第十八章 響界塔
朝になっても、巨大な黒い構造物は森の中で眠り続けているように見えたが、夜のうちに薄くなっていた白い霧は地面を這うように再び集まり始め、地中から露出した壁の周囲だけを避けるような不自然な流れを作っていた。
ワッパは簡単な朝食を済ませながら何度も巨大な壁へ視線を向けていたが、昨日までとは違い、目の前にあるものを響界塔だとまだ断定していないという慎重さと、ここまで追い続けてきた答えへようやく触れられるかもしれないという期待が、胸の中で同時に膨らんでいた。
第六章で最初に見つけた黒い構造物は、今になって考えれば建物のほんの一部分が地上へ露出していただけだったのかもしれず、昨日見つけた巨大な壁を見れば見るほど、本体の大部分は地面の下へ埋まっている可能性が高いように思えた。
「朝からずっと塔を見てるね」
エルナが隣へ座った。
「まだ塔だって確認できてないけどな」
「バタコみたいなことを言うようになったね」
「誰かさんが何でも記録するから影響されたんだよ」
少し離れた場所で紙を整理していたバタコが顔を上げた。
「確認する癖がついたなら良い影響だと思うよ」
ガルドは黒い壁を見上げながら、少し呆れたように息を吐いた。
「俺にはどう見ても塔か何かの遺跡にしか見えないけどな」
「塔であることと響界塔であることは別の話だよ」
バタコが当然のように答えた。
「名前が残っている場所を見つければ、たぶんすぐ確認できると思う」
エルナが左腕を押さえた。
「今日は昨日より少し熱いかもしれない」
ワッパはすぐに表情を変えた。
「痕も濃くなってるの?」
「少しだけ濃くなってると思うけど、まだ痛みは強くないよ」
ワッパは袖を上げてもらい、黒い痕の広がりを確認した。
枝分かれした黒い線は左腕を這うように残っており、巨大な構造物へ近づいてから明らかに色が濃くなっている。
それでも以前のように急激に広がっているわけではない。
「何か変わったら、すぐ教えてくれ」
「それはもう何回も約束してるよ」
「何回でも確認するつもりだよ」
エルナは困ったように笑った。
野営道具を片づけた四人は、昨日見つけた窪みへ向かって慎重に歩き始めた。
巨大な壁の東側へ回り込むにつれて、地面に露出する人工物が増えていった。
黒い板。
崩れた柱。
規則正しい溝。
ところどころに白い光を残した細い線。
それらの配置を見ていると、森の中に建物が造られたというより、巨大な施設が崩れて地中へ沈み、その上を長い時間をかけて森が覆っていったように見えた。
「かなり大きい施設だったみたいだね」
バタコが地図へ線を書き加えた。
「昨日見た範囲まで合わせると、地上から見えてる部分だけでもかなり広いよ」
「地下にも続いてるんですか?」
ワッパが尋ねた。
「第六章で見た構造物と同じ施設なら、その可能性は高いと思う」
ガルドが足元を確認した。
「問題は入口が生きてるかどうかだな」
四人は昨日見つけた窪みの前へ到着した。
近くで見ると、そこは自然に崩れた場所ではなかった。
黒い壁が内側へ数メートルほど入り込み、その奥に大きな板のようなものが立っている。
扉に見える。
しかし取っ手はない。
隙間もほとんど見つからない。
「入口っぽいけど、開け方がわからないね」
エルナが言った。
ガルドが表面を軽く叩いた。
鈍い音が返ってくる。
「壊して入るのは難しそうだ」
「壊す前提で考えないでくださいよ」
ワッパが答えた。
そのとき。
――入口。
短い声が響いた。
ワッパはすぐに三人へ伝えた。
「短い声が入口って言いました」
バタコが黒い板を見た。
「この場所を指してる可能性は高そうだね」
「入口なら開ける方法もあるはずだ」
ガルドが周囲を調べ始めた。
ワッパも壁を確認した。
黒い板の右側。
左側。
地面。
上部。
しかし人間が操作するようなものは見つからない。
エルナが近づいた瞬間、黒い短剣の鞘から淡い白い光が漏れた。
「また短剣が反応してる」
エルナが鞘から短剣を抜いた。
刀身そのものは黒い。
しかし表面に走っている白い亀裂のような線が、以前より強く光っている。
同時に扉の中央にも一本の白い線が浮かび上がった。
「近づけてみよう」
バタコが言った。
「ただし直接差し込んだりはしない方がいいよ」
エルナは短剣を扉へ近づけた。
触れる直前。
低い鐘のような音が響いた。
白い線が枝分かれする。
扉全体へ光が走る。
エルナの左腕の痕も同時に黒く浮かび上がった。
「熱くなってきた!」
ワッパがすぐにエルナの肩を支えた。
「無理なら離れてくれ!」
「まだ大丈夫だから、もう少しだけ待ってみるよ」
黒い短剣から伸びたように見える白い光が、扉の溝へ次々と入り込んでいく。
やがて地面が震えた。
黒い扉がゆっくり内側へ沈み始める。
何十年、あるいは何百年も閉じられていたような場所から、冷たい空気が流れ出した。
白い霧ではない。
乾いている。
古い石と金属が混ざったような匂いがする。
扉が完全に開く。
奥には暗い通路が続いていた。
「本当に開いたね」
エルナが短剣を下ろした。
「腕は大丈夫なの?」
ワッパが確認した。
「熱は少し残ってるけど、さっきより落ち着いてきたよ」
バタコは開いた入口と短剣を交互に見た。
「少なくとも、この短剣が施設を開けるための何らかの鍵として使えることは確認できたね」
「エルナ本人も必要だったんじゃないですか?」
「その可能性もあるけど、短剣だけで開くかどうかを試してないから、今の時点では分けられないよ」
ガルドが暗い通路を見た。
「入るなら灯りを用意するぞ」
四人はランプを準備し、入口から内部へ入った。
外の森から数歩離れただけなのに、空気は完全に変わった。
壁も床も黒い。
しかし表面は滑らかで、長い年月が経っているにもかかわらず大きく崩れていない。
天井には細い白線が何本も走っている。
そのほとんどは消えていたが、四人が通るたびに遠くで一瞬だけ光る場所があった。
「まだ施設が完全には死んでないみたいだね」
バタコが呟いた。
「生きてるって言い方は少し怖いですね」
ワッパが答えた。
「機能が残ってるって意味だよ」
「それでも十分怖いです」
エルナが少し笑った。
「ワッパでもこういう場所は怖いんだね」
「知らない地下施設へ入って怖くない方がおかしいだろ」
普通の会話を続けながら歩くことで、ワッパは自分の緊張を少しだけ抑えていた。
通路を進んでいくと、最初の広い部屋へ出た。
中央には壊れた台座があり、周囲の壁には大量の文字が刻まれている。
バタコの表情が変わった。
「これなら読める部分がかなりありそうだよ」
「何が書いてありますか?」
「少し待ってね」
バタコはランプを近づけた。
壁の中央。
他より大きな文字が並んでいる。
長い年月で一部は欠けているものの、名前らしき部分ははっきり残っていた。
バタコがゆっくり読み上げた。
「響界観測施設、第三塔」
ワッパは壁を見た。
「第三塔なんですか?」
「その下にも続いてるよ」
バタコはさらに文字を追った。
「正式名称として、響界塔って書いてある」
誰もすぐには言葉を発しなかった。
これまで古い記録の中だけに存在していた名前。
夢の中で声が告げた響界という言葉。
第六章で見つけた正体不明の黒い構造物。
東へという声。
森に残された境界柱。
それらがようやく一つの場所へつながった。
「ここが響界塔なんだ」
エルナが静かに言った。
バタコは頷いた。
「少なくとも、この施設自身がそう名乗っていることは確認できたよ」
ワッパは巨大な地下施設の暗闇へ視線を向けた。
ようやく名前だけは確定した。
しかし名前がわかったことで、むしろ新しい疑問が増えている。
響界とは何なのか。
何を観測していたのか。
なぜ塔が森の地下へ埋まったのか。
そしてなぜエルナと短剣が、この施設へ反応しているのか。
バタコは壁の記録を読み進めた。
「ここには響界について説明があるみたいだよ」
ワッパとエルナが近づいた。
「前の記録では世界の声を聞く場所みたいに書かれてましたよね」
「昔の記録ではそういう表現だったけど、こっちはもう少し具体的だね」
バタコは文字を追いながら内容を整理した。
「響界は、普通の目では見ることができない情報の層として説明されてる」
「情報の層って何ですか?」
「私にも完全にはわからないよ」
バタコは苦笑した。
「でも、この記録を書いた人たちは、世界で起きた出来事や変化が目に見えるものだけで終わらず、別の形でも残ったり伝わったりすると考えていたみたい」
ワッパは以前聞いた言葉を思い出した。
響界。
あのときは意味さえわからなかった。
「それを聞くのが響界塔なんですか?」
「聞くだけじゃないみたいだよ」
バタコは別の文章を指した。
「観測、記録、変換っていう三つの機能が書かれてる」
「変換するってどういう意味なの?」
エルナが尋ねた。
「響界から得た情報を、人間が理解できる形へ変えるってことかもしれない」
ワッパの胸が少しざわついた。
「それって声のことじゃないですか?」
「可能性はあるよ」
バタコは慎重に答えた。
「でも、この文章だけでワッパの声が響界塔によって作られているとは決められない」
その答えにワッパは頷いた。
ここまで来たからこそ、簡単な答えへ飛びつきたくなかった。
部屋の奥には、さらに複雑な記録が残されていた。
図のようなものもある。
人間らしい形。
その周囲へ何本もの線が伸びている。
線の先には円形の模様。
そして中央には、響界と読める文字が刻まれていた。
エルナがその図を見て表情を変えた。
「この線って、私の腕の痕に似てない?」
ワッパも気づいた。
人間の腕から胸へ伸びている線が、エルナの黒い痕とよく似ている。
「バタコ、ここは何て書いてあるんですか?」
「人間接続試験って読める」
空気が重くなった。
「人間を響界へ接続したってこと?」
エルナが尋ねた。
「その可能性が高そうだね」
バタコは文章を読み進めた。
「通常の観測装置では拾えない情報を、人間の感覚を経由して観測する方法を試していたみたい」
ワッパは自分の頭へ手を触れた。
人間の感覚を経由する。
声。
自分だけに聞こえる言葉。
その二つをすぐ結びつけたくなる。
しかし証拠はまだ足りない。
「接続された人はどうなったんですか?」
ワッパが尋ねた。
バタコは別の記録へ移った。
「成功例と失敗例があるみたいだけど、ここはかなり欠けてる」
「失敗したらどうなるの?」
エルナの声が少し硬くなった。
バタコは読める部分だけを追った。
「接続が深すぎる場合、身体側へ痕跡が残ることがあるって書かれてる」
ワッパとエルナが同時に彼女を見た。
「痕跡って、どんなものですか?」
「枝分かれした変色、発熱、感覚異常って書いてある」
エルナが自分の左腕を見た。
黒い痕。
発熱。
一致している。
バタコはさらに続けた。
「接続が安定している場合は自然に薄くなるけど、不安定な状態が続くと広がることがあるみたい」
「それなら私の痕は、病気じゃなくて響界との接続でできたものなの?」
「可能性はかなり高くなったと思う」
バタコは答えた。
「でも原因が完全に確定したとはまだ言えないよ」
エルナはしばらく自分の腕を見つめていた。
「私の中に何かがいるわけじゃなかったんだ」
ワッパが彼女を見た。
「少なくとも今見つけた記録には、そういう説明はない」
エルナは小さく息を吐いた。
三年前から、自分の身体の中に何か異常な存在が入り込んでいるのではないかと考え続けてきた。
自分が白い霧を生み出しているのではないか。
母親と同じように、自分も消えなければ村へ被害が出るのではないか。
そういう恐怖を抱えていた。
しかし今見つかった記録は、まったく別の可能性を示していた。
エルナが原因なのではなく、何らかの現象へ巻き込まれた結果として痕が残ったのかもしれない。
「エルナが霧を作ってるんじゃない可能性が、また強くなったな」
ワッパが言った。
「うん」
エルナは頷いた。
「それだけでも、ここまで来てよかったと思うよ」
さらに奥の壁には、白い霧について記録が残っていた。
バタコは長い時間をかけて文章を読み解いた。
「境界損傷っていう言葉が何度も出てくる」
「何の境界ですか?」
「普通の世界と響界の間にある境界だと思う」
バタコは図を指した。
「この塔は響界を観測するために、境界を薄くする仕組みを使っていたみたいだね」
「薄くしたら何が起きるんですか?」
「ここには、情報を受け取りやすくなるって書いてある」
バタコは少し下の文字へ移った。
「でも薄くしすぎると、響界側から現実へ影響が漏れ出すことがあるみたい」
エルナが白い霧を思い出したように入口側を見た。
「その漏れたものが霧なの?」
「可能性はあるよ」
バタコは別の記録を指した。
「白色の霧状現象っていう記述が残ってる」
ワッパの背中が冷たくなった。
「森喰らいについては何かありませんか?」
三人で周囲の記録を探した。
やがてバタコが別の図を見つけた。
普通の獣のような形。
その隣には、身体が大きく歪んだ別の形。
「生物変質って書いてある」
「森喰らいになったってことですか?」
「名前までは書いてないけど、境界損傷の影響を長く受けた生物に、身体や行動の異常が現れる場合があるって記録されてる」
ガルドが低く息を吐いた。
「それなら森の化け物も、この塔が原因なのかもしれないってことか」
「少なくとも関連している可能性はかなり高くなったね」
バタコが答えた。
ワッパは部屋の中央に立ち、ここまで確認できたことを頭の中で整理した。
響界塔。
世界に存在する目に見えない情報の層を観測する施設。
響界との境界を薄くする仕組み。
人間を接続する実験。
接続異常によって身体へ残る痕。
境界損傷によって現れる白い霧。
影響を受けた生物の変質。
それらが一つにつながり始めている。
しかし、まだ最大の疑問が残っている。
なぜエルナが接続されたのか。
三年前、母親と一緒に白い霧へ入っただけで、なぜ痕が現れたのか。
母親は何を知って森へ戻ったのか。
黒い短剣は何のために作られたのか。
そして自分に聞こえる短い声は、本当に響界から届いているものなのか。
そのとき。
長い偽物の声が耳元へ響いた。
『もう十分だろう。エルナを連れて、ここから逃げた方がいい。』
ワッパはすぐに三人へ伝えた。
「偽物の声が、もう十分だからエルナを連れて逃げろって言ってます」
エルナが少し笑った。
「前は塔へ連れていくなって言ってたもんね」
「言ってる方向は一応同じだな」
ガルドが答えた。
バタコは記録した。
「内容が危険回避として正しい可能性は残るけど、今のところ逃げなければならない具体的な変化は見つかってないね」
ワッパも周囲を確認した。
床は安定している。
霧も流れ込んでいない。
エルナの痕は熱を持っているが、急激な悪化はない。
「もう少し調べよう」
ワッパは決めた。
部屋の奥には下へ続く階段があった。
黒い石で造られた長い階段。
途中から暗闇へ消えている。
壁には階層を示しているらしい文字が刻まれていた。
バタコが読んだ。
「上層観測区、記録区、接続管理区、それから中央制御区って書いてある」
「俺たちがいるのはどこですか?」
「今は上層観測区だと思う」
「エルナの痕について調べるなら、接続管理区ですか?」
「名前だけなら可能性は高そうだね」
エルナが階段を見下ろした。
「母さんもここを通ったのかな」
「短剣を持って森へ入ったなら、ここまで来た可能性はあると思う」
ワッパは答えた。
エルナは黒い短剣を握った。
その白い亀裂が、階段へ向けると少しだけ明るくなる。
まるで下へ導いているようにも見える。
しかしワッパは、その印象だけで意味を決めなかった。
――下。
短い声が響いた。
ワッパは階段を見た。
「短い声は下って言いました」
バタコが記録した。
ガルドはランプを持ち上げた。
「現実側にも下へ行く理由はあるな」
「接続管理区と中央制御区を調べたいですからね」
ワッパが答えた。
「それなら声だけで決めたことにはならないね」
エルナは階段へ一歩近づいた。
耳元で偽物の声が囁いた。
『下へ行けば、エルナは二度と戻れない。』
ワッパはその言葉も隠さなかった。
「偽物は、下へ行けばエルナが二度と戻れないって言ってます」
エルナは階段の暗闇を見つめた。
怖くないはずはない。
一度死んだ。
自分の身体に残る痕の正体へ近づいている。
母親が消えた場所へ、自分も向かおうとしている。
それでもエルナは短剣を鞘へ戻した。
「私は下へ行きたいよ」
ワッパが彼女を見た。
「本当に進むの?」
「怖いけど、それでも進みたい」
「理由を聞いてもいい?」
エルナは少し考えた。
「ここまで来て、初めて私が原因じゃないかもしれないってわかったからだよ」
左腕へ触れる。
「この痕が響界との接続でできたものなら、切る方法だってどこかに残ってるかもしれない」
「それを探したいんだな」
「私は消える方法じゃなくて、生きて帰る方法を探したい」
ワッパは静かに頷いた。
それなら進む理由は十分にある。
声が下と言ったからではない。
偽物が戻れないと言ったからでもない。
エルナ自身が、生きて帰るために調べたいと選んでいる。
四人は階段の前へ並んだ。
バタコが記録を鞄へしまう。
ガルドがランプを持つ。
エルナは黒い短剣を確認する。
ワッパは最後に上層の部屋を振り返った。
響界塔。
その名前はもう確認できた。
しかし塔の正体は、まだ入口を見ただけにすぎない。
世界の声を聞こうとした人間たちが何をしたのか。
その結果として何が壊れたのか。
白い霧がなぜ今も森へ流れ続けているのか。
そしてエルナの母親が、ここで何を見つけたのか。
答えはさらに下にある。
――下。
短い声がもう一度響いた。
ワッパはその言葉を聞いた。
記録する。
現実を確認する。
そして自分で決める。
「行こう」
四人は暗い階段を下り始めた。
一段進むたびに外の光は遠ざかり、代わりに壁の白い線が一つずつ淡く目を覚ましていく。
その光は階段の奥へ続いていた。
まるで長い間誰かが来ることを待っていたようにも見えたが、ワッパはそこへ意味を与えなかった。
今わかっていることだけを持って進めばいい。
響界塔のさらに深い場所へ向かいながら、ワッパたちは、この世界を覆い始めていた白い霧の本当の原因へ少しずつ近づいていった。




