第十四章 信じるもの
夜が明けても、宿場の空気には前日の矢が残した緊張が薄く張りついたままで、ワッパは朝食の席へ座ってからも、窓の外へ視線を向ける回数が普段より明らかに増えていた。
誰かに見られているような感覚が残っている。
しかし、その感覚だけで誰かが本当に監視していると決めるつもりはない。
昨夜も窓の外を確認したが、人影は見つからなかった。
矢が撃ち込まれたという事実はある。
黒い短剣を渡せという紙も残っている。
けれど、それだけで宿場のどこかに監視者がいたとまでは断定できない。
そうやって一つずつ確認している自分に気づくたび、ワッパは以前の世界で教えられた考え方が、少しずつ自分の中へ戻ってきていることを感じていた。
「朝からまた外を見てるね」
エルナがパンをちぎりながら言った。
「昨日あんな矢が飛んできたら気になるだろ」
「それはそうだけど、ずっと窓を見てても相手が出てくるとは限らないよ」
「わかってるから確認してるだけだよ」
「それなら今日は昨日より少しだけ顔が柔らかいね」
「そこまで毎日顔を観察しなくてもいいだろ」
エルナは笑った。
少し離れた席では、バタコが昨夜の矢と紙について記録を整理しており、ガルドは宿の主人から街道の様子を聞いていた。
四人で行動するようになってから、役割らしいものが自然に分かれ始めている。
ワッパは声と現実を確認する。
エルナは周囲の様子と自分の痕を伝える。
バタコは記録を残す。
ガルドは道や危険に関する経験を補う。
まだ互いを完全に信頼しているわけではない。
それでも、一緒に進むために必要な範囲では少しずつ形になってきていた。
「今日は街道をそのまま東へ進めそうだ」
ガルドが戻ってきた。
「宿の主人の話では、昨日から大きな崩落や森喰らいの目撃はないらしい」
「白い霧は出てないんですか?」
ワッパが尋ねた。
「北側の森で薄く出たらしいが、街道までは来ていないそうだ」
バタコがすぐに記録した。
「それなら少なくとも出発を遅らせる理由はなさそうだね」
「昨日の矢を撃った人が待ってる可能性は?」
エルナが尋ねた。
「可能性はある」
ガルドはあっさり答えた。
「だから道を進みながら周囲を見るしかない」
「追うなって声は昨日だけの話ですよね」
ワッパが言った。
「そう考えるのが自然だと思うけど、昨日の対象が誰だったかも完全にはわからないよ」
バタコが答えた。
「だから今日も現実を見ながら進もう」
ワッパは頷いた。
宿場を出てから一時間ほど進んだころ、街道は大きな分岐へ差しかかった。
左へ進めば森沿いの古い道。
右へ進めば小さな丘陵を越える比較的新しい道。
地図では、どちらを通っても最終的にはレイサへ向かえる。
「距離だけなら左の方が少し短いね」
バタコが地図を見た。
「右は遠回りだけど道は広い」
ガルドが周囲を確認した。
「馬車なら右を使うことが多いが、歩きなら左でも問題ないはずだ」
エルナが左側を見た。
「白い霧は見えないね」
「今のところはな」
ワッパも周囲を確認した。
鳥の声は聞こえている。
風もある。
左の森だけが特別に静かなわけではない。
そのとき。
――左。
短い声が響いた。
ワッパはすぐに足を止めた。
「左って言いました」
バタコが紙を出した。
「場所は街道の分岐で、選択肢は左右の二つ、現時点では目立った危険なし」
ガルドが左の道を見た。
「声を信じるなら左へ行くのか?」
「まず確認します」
ワッパは答えた。
四人はその場で少し時間を使い、左右の入口を調べた。
左には古い足跡が残っている。
右には馬車の轍がある。
どちらにも血痕や争った跡は見当たらない。
白い霧もない。
エルナの黒い痕にも変化はない。
「今のところ、左を選ぶ理由も右を避ける理由も現実では見つからないね」
バタコが言った。
「それならどうする?」
ガルドが尋ねた。
ワッパは少し考えた。
声は左と言った。
これまでの記録だけを見れば、その言葉を無視する理由は少ない。
それでも、だから左へ行くという考え方にはどこか引っかかるものがあった。
「今日は左へ行ってみたいです」
ワッパは答えた。
「声に従うの?」
エルナが尋ねた。
「声が左って言ったことも理由の一つだけど、距離が短くて現実側に危険も見つかってないから、今は左を選んでも不自然じゃないと思う」
バタコが頷いた。
「それなら判断としては分けられてるね」
ガルドは少し笑った。
「いちいち面倒だが、前より筋は通ってるな」
「面倒なのは自覚してます」
ワッパは答えた。
左の道へ入ってからしばらくは、特に異常は起こらなかった。
道は少し狭いものの、歩けないほど荒れてはいない。
森の木々も普通に見える。
エルナの痕にも変化はない。
声も聞こえない。
「今回は普通に近道だっただけなのかな」
エルナが言った。
「それならそれで記録すればいいと思う」
ワッパが答えた。
「声が左って言った意味まで、危険回避だったことにする必要はないからな」
バタコが後ろから言った。
「それはかなり大事だよ」
「どうしてですか?」
「結果を見たあとで意味を作ると、何でも当たったようにできるからね」
バタコは歩きながら説明した。
「たとえば今日、左の道で珍しい花を見つけたら、声はその花を見せるために左って言ったんだって後から解釈することもできるし、早く着いたら時間を節約させたんだって言うこともできる」
「それをやったら確かに何でも正解になりますね」
「だから声の言葉と、あとから起きた出来事は必要以上につなげない方がいいよ」
ワッパはその言葉を記録しておこうと思った。
さらに道を進んでいると、前方から小さな物音が聞こえた。
枝が揺れる。
人の声も混じっている。
ガルドが手を上げ、全員を止めた。
「誰かいる」
四人は慎重に進んだ。
少し先で、街道脇へ倒れている馬車が見えた。
車輪が片方外れている。
その近くには三人の旅人がいた。
一人は年配の男。
一人は若い女性。
もう一人は地面へ座り込み、足を布で巻いている。
「大丈夫ですか?」
エルナが先に声をかけた。
年配の男が振り向いた。
「助かった、もし町へ向かう途中なら少し手を貸してもらえないか」
ガルドは周囲を確認した。
「何があった?」
「馬車の車輪が外れて、止めようとしたときに一人が足を痛めた」
ワッパは倒れた馬車を見た。
襲われた跡はない。
荷物も散らばっていない。
少なくとも盗賊に襲われたようには見えなかった。
「どこまで行く予定だったんですか?」
バタコが尋ねた。
「この先の小さな村までだ」
地図を確認すると、レイサへ向かう街道から少し外れるが、右側の丘陵道へ戻れば途中まで同じ方向へ進める場所だった。
ガルドが怪我人の足を見た。
「骨までは折れていないと思うが、この状態で長く歩くのは難しいな」
エルナがワッパを見た。
「一緒に連れていけないかな?」
ワッパはすぐに答えなかった。
自分たちは響界塔について調べるためレイサへ向かっている。
時間を使えばエルナの痕の問題にも影響するかもしれない。
一方で目の前には助けを必要としている人間がいる。
――左。
声が響いた。
ワッパは身体を固くした。
「また左って言いました」
バタコがすぐに記録した。
「今いる位置から左という意味なら、このまま今の街道を進む方向になるね」
ガルドが怪我人を見た。
「負傷者を送るなら途中で右の道へ戻った方がいい」
エルナは黙ってワッパを見た。
声は左と言っている。
現実では、右へ戻る理由が目の前にある。
ワッパは自分の胸の中に、小さな迷いが生まれるのを感じた。
これまで声は何度も正しかった。
左へ行けば、何か重要な情報があるかもしれない。
危険を避けられるかもしれない。
より早くレイサへ到着できるかもしれない。
しかし、そのどれも今は確認できていない。
一方で右へ戻れば、目の前の負傷者を村まで送ることができる。
「右の道へ戻りましょう」
ワッパは言った。
エルナが少し驚いた。
「声は左って言ってるんだよね?」
「そうだけど、今の俺には右へ行く理由の方が現実でははっきりしてる」
バタコは黙って聞いていた。
「声が左って言ったことは記録します」
ワッパは続けた。
「でも、だからって負傷者を置いて進む必要はないと思う」
ガルドが少し笑った。
「やっと声と喧嘩するようになったか」
「喧嘩してるわけじゃないですよ」
「それなら何なんだ?」
「声が情報を出して、俺がどうするか決めてるだけです」
エルナが笑った。
「それなら前から言ってた通りだね」
ワッパは頷いた。
四人は馬車の荷物を一部降ろし、応急的に車輪を固定した。
怪我人は馬車へ乗せる。
エルナとバタコは旅人たちの荷物を整理し、ガルドが壊れた車輪を補強した。
ワッパもできる範囲で手伝った。
作業を終えるころにはかなり時間が経っていた。
「本当に助かったよ」
年配の男が何度も頭を下げた。
「近くの村までなら一緒に行きます」
ワッパが答えた。
「君たちはどこへ向かっていたんだ?」
「レイサです」
「それなら遠回りさせてしまうな」
「少しくらいなら大丈夫です」
ワッパはそう答えた。
右の丘陵道へ戻ってから、しばらく声は何も言わなかった。
ワッパはその沈黙へ意味を足さないようにしていた。
怒っているわけでもない。
間違った選択をしたという証拠でもない。
ただ何も言わない。
それだけだった。
それでも胸の奥には、わずかな不安が残っていた。
もし左へ進んでいれば何か重要なものを見つけられたのではないか。
もし右を選んだことで、エルナを救うための時間を失ったのではないか。
その考えが生まれるたび、ワッパは目の前の現実を見た。
馬車の中では怪我人が横になっている。
若い女性が水を飲ませている。
エルナは歩きながら時々その様子を確認している。
今、自分たちが右へ進んでいる理由は実際に目の前にある。
それで十分だった。
夕方前に小さな村へ到着した。
怪我人は村の治療師へ引き渡された。
年配の旅人が改めて礼を言った。
「君たちが来なかったら、日が暮れるまで動けなかったかもしれない」
「大きな怪我じゃなくてよかったです」
エルナが答えた。
「本当にありがとう」
旅人たちが去ったあと、四人は村外れの休憩所へ座った。
「結局、今日はレイサまでかなり遠回りになったね」
バタコが地図を見た。
「明日の到着は夕方より遅くなるかもしれない」
エルナがワッパを見た。
「後悔してる?」
ワッパは少し考えた。
「まったくしてないと言ったら嘘になると思う」
「どのあたりを後悔してるの?」
「左へ行ってたら何があったのか気になる」
「それは私も気になるよ」
「でも右を選んだことを間違いだったとは思ってない」
ワッパは馬車が消えていった方向を見た。
「声が正しいかどうかと、自分の選択が正しいかどうかは、同じじゃないんだと思う」
バタコが顔を上げた。
「そこは記録しておいた方がいいね」
「また記録ですか?」
「今の言葉はかなり重要だよ」
バタコは紙を出した。
ワッパも自分の記録を開いた。
少し考えたあと、三つの文章を書いた。
声は答えではない。
声が与えるものは情報である。
最後に決めるのは自分自身だ。
エルナが横から読んだ。
「それなら声が何を言っても、全部従わなくていいんだね」
「最初からそう考えてたつもりだったけど、今日やっと実際にできた気がする」
ワッパは答えた。
村を出て少し先まで進んだところで、ガルドが突然足を止めた。
「誰かいた」
「どこですか?」
ワッパが尋ねた。
ガルドは丘の上を指した。
灰色の外套を着た人影が一瞬だけ見えたらしい。
ワッパたちがそちらを見るころには、すでに姿は消えていた。
「依頼人ですか?」
エルナが尋ねた。
「服だけなら似ていた」
「顔は見えました?」
「そこまでは見えなかった」
バタコは記録した。
「追いますか?」
ワッパが聞いた。
――追うな。
声が響いた。
ワッパは丘を見た。
人影はもう見えない。
道もない。
森へ入れば足跡を探すことはできるかもしれないが、相手の人数も目的もわからない。
「声は追うなって言ってます」
ガルドが周囲を見た。
「俺も追う必要はないと思う」
「今度も同じ理由ですか?」
「見失った相手を森まで追うのは危険が大きすぎる」
バタコも頷いた。
「私も反対しないよ」
ワッパは少し考えた。
「それなら追いません」
エルナが尋ねた。
「今回は声に従ったの?」
「声がなくても同じ結論になったと思う」
「それなら確認できたね」
ワッパは頷いた。
その夜は、街道脇にある小さな旅人小屋で休むことになった。
ガルドが外で周囲を確認している間、バタコとエルナは食事を準備していた。
ワッパは今日の記録を整理している。
左。
右を選択。
負傷者を村まで搬送。
左を選ばなかった結果については未確認。
追うな。
現実側の危険評価でも追跡は不適切と判断。
ワッパは紙を見ながら、これまでとは違う感覚を覚えていた。
以前は声が当たるか外れるかばかり気にしていた。
しかし今日は、声が正しいかどうかとは別に、自分が何を選ぶかを考えた。
その違いは小さいようで、ワッパにとっては大きかった。
「今日はずいぶん満足そうな顔してるね」
エルナが食事を持ってきた。
「満足してるわけじゃないよ」
「でも少しだけ嬉しそうだよ」
「自分で決められたことには安心してるかもしれない」
「声を無視したのに?」
「無視したわけじゃない」
ワッパは記録を閉じた。
「聞いたうえで別の選択をしたんだよ」
エルナは少し笑った。
「それなら声よりワッパを信じたってこと?」
「そういう言い方だと少し違う」
「じゃあ何を信じたの?」
ワッパはすぐには答えなかった。
自分自身。
エルナ。
バタコ。
ガルド。
声。
現実。
どれか一つだけを選ぶ話ではないように思えた。
「確認できたことを信じて、そのうえで最後は自分で決めたんだと思う」
エルナは頷いた。
「それなら私は好きだよ、その考え方」
ワッパは少し照れくさくなり、食事へ視線を落とした。
夜が深くなったころ、ガルドが戻ってきた。
「丘の上を調べてきた」
「追わなかったんじゃないんですか?」
ワッパが尋ねた。
「遠くから周囲を見ただけだ」
ガルドは土のついた小さな布切れを出した。
「森の入口近くに落ちていた」
灰色の布だった。
依頼人の外套と同じものかどうかは確認できない。
しかし近くには、人間の靴跡が残っていたらしい。
「足跡はどっちへ向かってました?」
バタコが尋ねた。
「西だ」
ワッパが眉を寄せた。
「俺たちが向かってる東とは逆ですね」
「そうなるな」
「それなら追わなくて正解だったのかな?」
エルナが尋ねた。
「結果だけならそう見える」
バタコは布を受け取った。
「でも声が相手の進行方向まで知ってた証拠にはならないよ」
「そこまで言わないと駄目ですか?」
ガルドが呆れた。
「そこまで言わないと、あとで話が勝手に大きくなるんです」
バタコは答えた。
ワッパは少し笑った。
いつの間にか、バタコの慎重さにも慣れてきていた。
翌朝。
四人はさらに東へ進んだ。
昼前には街道が再び二つへ分かれた。
右へ進めば山沿いの安全な道。
左へ進めば森を直接抜ける短い道。
近くにあった小さな集落で話を聞くと、右の道は遠回りになるものの、旅人が多く使っているらしい。
左の道は距離が短い。
しかし最近、白い霧が出ることがあるという。
バタコが地図を確認した。
「右を使うとレイサまで二日は余計にかかるね」
ガルドが左の森を見た。
「左なら一日以内にかなり距離を稼げる」
エルナが自分の左腕へ触れた。
「少し熱いかもしれない」
ワッパがすぐに確認した。
「痕が濃くなってる?」
「まだ変わってないと思う」
ワッパは左右を見た。
安全を優先するなら右。
時間を優先するなら左。
エルナの痕と白い霧の関係を調べるなら左にも意味がある。
どちらにも理由がある。
――左。
短い声が響いた。
ワッパは目を閉じなかった。
すぐに左へ進むこともしなかった。
「声は左って言いました」
バタコが記録した。
「それならどうする?」
ガルドが尋ねた。
ワッパは左の森を見た。
その奥には、薄い白い霧が見えている。
今までなら声の言葉へ強く引っ張られていたかもしれない。
しかし今日のワッパには、もう一つ考えることがあった。
声は左と言った。
それは情報として残す。
けれど。
「今日はここで少し時間を使いましょう」
ワッパは答えた。
「どうするつもりなの?」
エルナが尋ねた。
「左右の道をもう少し確認して、それから決めたい」
バタコが笑った。
「その答えなら私は賛成だよ」
ガルドは肩をすくめた。
「結局すぐには決めないんだな」
「決めるために確認するんです」
ワッパは答えた。
左の森から白い霧がゆっくり流れ出していた。
右には何の異常も見えない。
そしてエルナの黒い痕は、左側へ近づいたときだけ、わずかに熱を強くしているように感じられた。
それが何を意味するのかは、まだわからない。
危険なのか。
手掛かりなのか。
あるいはその両方なのか。
ワッパは急いで答えを作らなかった。
声を聞く。
現実を確認する。
事実を記録する。
そして最後に自分で決める。
何を信じるかではなく、何を確かめ、何を選ぶのか。
その違いを胸へ残したまま、ワッパたちは二つの道の前で調査を始めた。




