第十三章 裏切り者
レイサへ向かう朝は、前日までの穏やかな空気が嘘だったかのように低い雲が空一面を覆っており、風はまだ強くないものの、遠くの森から湿った匂いを運んできていた。
保管所で響界塔という名前を知り、世界の声を聞くために造られたとされる古い施設の記録へ触れたことで、ワッパたちが調べなければならないものは一気に増えていた。
響界塔そのもの。
世界の声という表現。
人間との接続。
白い霧。
エルナの黒い痕。
母親の失踪。
そしてワッパにだけ聞こえる短い声。
それぞれを無理やり一つへまとめれば簡単だったが、バタコは昨夜から何度も、関係がありそうに見えることと、本当に関係が証明されていることは別だと言い続けていた。
そのため三人は、響界塔と声に関係がある可能性は高まったものの、まだ仮説として扱うという方針を崩さず、そのうえでさらに多くの古い記録が残っているというレイサを目指すことにしていた。
「今日中には次の宿場まで行けると思うよ」
歩きながらバタコが地図を確認した。
「そこからレイサまでは?」
エルナが尋ねた。
「順調なら明日の夕方くらいかな」
「思ったより近いんだね」
「昔の街道がちゃんと残ってればね」
バタコはそう付け加えた。
ワッパは二人の少し後ろを歩きながら、周囲を確認していた。
昨日の夜から声は聞こえていない。
静かであること自体はありがたい。
しかし、何も聞こえないから安全だとは考えない。
それも今では三人の共通認識になっていた。
道の両側には低い林が続いている。
白い霧はまだ見えない。
鳥の声も聞こえている。
少なくとも、森喰らいが近くにいるときに感じた異様な静けさはなかった。
「ワッパ、また考え込んでるでしょ」
エルナが振り返った。
「今日は周りを見てるだけだよ」
「それなら少しくらい楽しそうな顔して歩けばいいのに」
「危険があるかもしれない道で楽しそうな顔をする必要あるか?」
「旅なんだから少しくらい楽しんでもいいと思うよ」
「昨日まで古い記録庫で危険な施設について調べてた人の言葉とは思えないな」
「それとこれとは別でしょ」
エルナは笑った。
ワッパも少しだけ笑った。
昼前になったころ、三人は街道脇にある小さな休憩所へ到着した。
石造りの屋根だけが残った簡素な場所だったが、水を汲める井戸と古いベンチがあり、旅人が休むには十分だった。
先客が一人いた。
黒い外套を着た大柄な男で、腰には長剣を下げている。
年齢は三十代後半くらいに見え、顔には短い傷がいくつも残っていた。
男は三人を見ると立ち上がった。
「ワッパたちで間違いないか?」
ワッパは足を止めた。
「俺たちを知ってるんですか?」
「村長から話を聞いた」
男はそう答えた。
「俺はガルドという名前で、村長からお前たちの護衛を頼まれた」
エルナが驚いた。
「村長からそんな話は聞いてないよ」
「急に決まったらしい」
ガルドは肩をすくめた。
「お前たちが響界塔を探してると聞いて、危険な場所へ三人だけで行かせるのは心配になったそうだ」
バタコは男を観察していた。
「村長から直接頼まれたんですか?」
「ああ」
その瞬間。
――嘘。
ワッパは顔に出さないよう気をつけた。
ガルドは村長から直接頼まれたと言った。
声は嘘と告げた。
しかし、声が嘘と言ったからといって、すぐ敵だと決める必要はない。
ワッパはバタコへ小さく視線を送った。
バタコはすぐに気づいたらしいが、それ以上の反応は見せなかった。
「村長は何て言ってました?」
ワッパが尋ねた。
「響界塔まで無事に連れていけと言われた」
「響界塔って名前まで知ってたんですか?」
ガルドの表情がほんの少しだけ止まった。
村長は昨日まで、その名前を知らなかったはずだった。
少なくともワッパたちが村を出た時点では、響界という言葉を古い記録で見た覚えがある程度しか話していない。
響界塔という正式名称を知ったのは、村を出たあとに訪れた保管所だった。
「村長から本当に響界塔って言われたんですか?」
ワッパはもう一度尋ねた。
ガルドは少し黙った。
「そこまで細かく言われたわけじゃない」
「さっきと言ってることが違いますね」
バタコが静かに言った。
ガルドは三人を見回した。
「少しくらい話を簡単にしただけだ」
「護衛を頼まれたこと自体は本当ですか?」
ワッパが尋ねた。
男はすぐには答えなかった。
「そこまで疑うなら勝手にすればいい」
ガルドは苛立ったように言った。
「俺は危険な森へ向かうお前たちを助けようとしてるだけだ」
声は何も言わなかった。
ワッパはガルドの装備を見た。
旅慣れている。
武器も使い込まれている。
それだけなら護衛として不自然ではない。
しかし村長から直接頼まれたという話は、ほぼ確実に嘘だった。
「少しだけ話を整理してもいいですか?」
バタコが言った。
「あなたが誰から聞いて、どうして私たちを待っていたのか、それだけは先に確認したいんです」
ガルドは面倒そうに息を吐いた。
「ある男から頼まれた」
エルナが眉を寄せた。
「知らない人から?」
「名前は聞いていない」
「それなら村長は関係ないんですね」
「最初から正直に言ったら、お前たちが警戒すると思ったんだ」
ワッパはその言葉を聞きながら、声の記録と照らし合わせた。
嘘。
確かに嘘だった。
しかし目的まではまだわからない。
「その男から何を頼まれたんですか?」
ガルドは答えなかった。
「そこも言えないなら、一緒には行けません」
ワッパが言った。
ガルドは少し迷ったあと、エルナの腰へ視線を向けた。
黒い短剣が鞘に入っている。
「その短剣を持ってくるよう頼まれた」
エルナの手が反射的に短剣へ伸びた。
ワッパは一歩前へ出た。
「盗むつもりだったんですか?」
「最初はそういう依頼だった」
「最初はってことは、今は違うんですか?」
「お前たちを見て少し考えが変わった」
バタコがすぐに尋ねた。
「どうして変わったんですか?」
「子どもみたいな連中から無理やり奪うほど落ちちゃいない」
エルナが少し怒った顔をした。
「子どもみたいって失礼じゃない?」
「そこに怒るところなのか?」
ワッパが小さく言った。
ガルドは短く笑った。
緊張が少しだけ緩んだ。
しかし問題は残っている。
誰が黒い短剣を欲しがっているのか。
どうして響界塔について知っているのか。
そしてワッパたちがこの道を通ることを、なぜ知っていたのか。
「依頼した男の特徴を教えてください」
ワッパが言った。
「顔はほとんど見えなかった」
「何を着てました?」
「灰色の外套に深い頭巾をかぶっていた」
「声に特徴は?」
「男だったと思うが、年齢まではわからない」
「どこで会ったんですか?」
「昨日の夜、この先の宿場だ」
バタコが地図を見た。
「私たちが今日ここを通ることまで知ってたんですか?」
「この道を使うはずだと言われた」
「響界塔についても何か話してました?」
ガルドの表情が変わった。
「少しだけな」
「どんな話ですか?」
「塔へ近づく者が増えると困ると言っていた」
ワッパは胸の奥に嫌な感覚を覚えた。
誰かが響界塔について知っている。
しかもワッパたちが調べていることまで把握している。
「その男はエルナのことを知ってましたか?」
「名前までは言っていなかったが、黒い痕のある娘と呼んでいた」
エルナの顔から笑みが消えた。
「私の痕を知ってるの?」
「少なくとも依頼人は知っていた」
「どうして知ってるんですか?」
「俺にはわからない」
声は何も言わない。
ワッパは周囲を見た。
林。
古い休憩所。
人気の少ない街道。
もし依頼人が近くにいるなら、姿を隠せる場所はいくらでもある。
「バタコさん、これも全部記録してください」
「もう書いてるよ」
バタコは紙を見せた。
ガルドとの遭遇。
村長からの依頼という発言。
声は嘘。
再確認。
匿名の男から黒い短剣を奪う依頼を受けていたことを確認。
依頼人は響界塔とエルナの黒い痕を知っている。
バタコはそこまで書いたあと、最後へ大きく未確認と記した。
「依頼人が敵かどうかまではまだ決めない」
「短剣を盗ませようとした時点で、かなり敵に近いと思うけどな」
ガルドが言った。
「近いのと確定は別ですよ」
「本当に面倒な考え方をする連中だな」
「最近そういう旅になってるんです」
ワッパは答えた。
ガルドをどうするかについて、三人は少し離れた場所で相談した。
「一緒に来てもらうのは危なくない?」
エルナが小声で尋ねた。
「俺も完全には信用できない」
ワッパが答えた。
「でもここで別れて、その依頼人のところへ戻られるのも困るよね」
バタコが言った。
「それならどうしますか?」
「本人に選んでもらえばいいと思う」
バタコはガルドを見た。
「私たちと一緒に来て、知ってることを全部話すなら同行してもらう」
「短剣を狙うなら断るってことですね」
「それと、勝手に荷物へ触らない」
「当然だよ」
エルナは真剣だった。
三人はガルドのところへ戻った。
条件を伝える。
ガルドは呆れた顔をした。
「俺を信用してないくせに連れていくのか?」
「信用してないから条件をつけるんです」
ワッパが答えた。
「正直すぎて逆に腹が立つな」
「それなら断っても大丈夫ですよ」
「断ったらどうする?」
「俺たちはそのまま進みます」
ガルドは少し考えたあと、腰を上げた。
「わかった、一緒に行く」
エルナが念を押した。
「短剣には絶対触らないでね」
「もう盗む気はない」
「本当に?」
「今度は嘘じゃない」
ガルドはワッパを見た。
「頭の中の声にも聞いてみたらどうだ?」
ワッパは少し驚いた。
「どうして声のことを知ってるんですか?」
空気が止まった。
ガルド自身も失言したと気づいたらしい。
「依頼人から聞いた」
「その人は俺の声についても知ってたんですか?」
「ああ」
ワッパの背中へ冷たい感覚が走った。
依頼人は黒い短剣だけでなく、エルナの痕も、ワッパに声が聞こえていることまで知っている。
「何て言ってました?」
ガルドはしばらく迷った。
「声を聞く男が一緒にいると言っていた」
「それだけですか?」
「その男を塔へ近づけるなとも言っていた」
バタコの手が止まった。
「どうして近づけるなって?」
「理由は聞いていない」
「依頼人はワッパの名前を知ってた?」
「名前までは言ってない」
ワッパは紙へ追加した。
依頼人はワッパの声を知っている。
塔へ近づけるなと指示している。
これは偶然では済ませにくい。
誰かが自分たちを見ている。
休憩所を出てから、四人はしばらく無言で歩いた。
ガルドは先頭を歩くことを申し出たが、ワッパたちはそれを断り、エルナとワッパが前、バタコとガルドが少し後ろを歩く形にした。
「完全に見張られてるな」
ガルドが苦笑した。
「当然だと思ってください」
バタコが答えた。
「俺なら途中で逃げるかもしれないぞ」
「そのときはその事実を記録します」
「怖いくらい冷静だな」
「記録屋だからね」
しばらく歩いたところで、道の前方に白い霧が見え始めた。
森の中で見たものほど濃くはない。
しかし風の流れとは無関係に、地面へ沿うように広がっている。
エルナが左腕へ触れた。
「少し熱くなってきた」
ワッパがすぐに聞いた。
「痕は濃くなってる?」
「まだそこまでは変わってないと思う」
「少しでも変わったら教えてくれ」
「ちゃんと言うから安心してね」
ガルドがその会話を聞いていた。
「その痕、本当に塔と関係あるのか?」
エルナは少し警戒した。
「まだわからないよ」
「依頼人は関係があるみたいに話してたぞ」
ワッパが振り返った。
「どんなふうに?」
「黒い痕が増えるほど霧も増えるって言っていた」
エルナの表情が変わった。
「それって私が霧を増やしてるってこと?」
「そういう意味に聞こえた」
その瞬間。
――嘘。
ワッパはすぐに口を開いた。
「その話は嘘だって声が言いました」
エルナがワッパを見た。
ガルドも驚いた顔をした。
「今のが本当に聞こえたのか?」
「はい」
バタコはすぐに紙へ記録した。
「ただし、何が嘘なのかはまだ切り分ける必要があるね」
「今の話全部じゃないの?」
エルナが尋ねた。
「黒い痕が増えるほど霧が増えるという因果関係が嘘なのか、依頼人がそう言ったというガルドの話が嘘なのか、文脈だけでは確定できないよ」
ガルドが眉を寄せた。
「俺は本当にそう言われたぞ」
「それならあとで確認できる可能性があるものを探します」
ワッパはエルナを見た。
「少なくとも今の時点で、痕があるからエルナが霧の原因だって決める必要はない」
エルナは少しだけ息を吐いた。
「わかってるけど、そう言ってもらえると助かるよ」
ガルドは不思議そうに三人を見た。
「声が嘘だって言ったのに、すぐ信じないんだな」
「声が正しい可能性と、俺たちの解釈が正しいかは別です」
「面倒すぎるだろ」
「俺たちもそう思ってます」
ワッパは答えた。
白い霧を避けるため、四人は街道から少し南へ外れた。
その道は獣道に近かったが、ガルドが周辺の地形を知っていたため、遠回りにはなるものの宿場まで行けるらしい。
ガルドは少なくとも旅人としては役に立った。
足跡を見て動物の種類を判断し、危険な草を避け、浅い川を渡れる場所まで知っていた。
「どうしてこんなに詳しいんですか?」
エルナが尋ねた。
「昔は護衛の仕事をかなりしてた」
「今はしてないの?」
「最近はもっと簡単な仕事ばかりだ」
「短剣を盗む仕事も簡単な方なんですか?」
「そこを何度も刺してくるな」
ガルドは苦笑した。
ワッパは少しだけ警戒を下げた。
嘘をついたことは事実だった。
しかし、今のところ自分たちへ危害を加える動きは見せていない。
それでも完全に信用はしない。
現実を見る。
それだけだった。
夕方近くになったころ、四人は小さな谷へ出た。
谷底には細い川が流れており、向こう側へ渡るには岩の上を進む必要がある。
ガルドが先に渡った。
「ここなら滑らなければ問題ない」
バタコが続いた。
エルナがそのあとへ進もうとした瞬間。
――裏切り者。
ワッパはその場で動けなくなった。
初めて聞く言葉だった。
「どうしたの?」
エルナが振り返った。
ワッパはすぐに答えなかった。
声は裏切り者と言った。
しかし誰を指しているのかわからない。
目の前にはエルナ。
向こう岸にはバタコとガルド。
自分自身を指している可能性すら、完全には否定できない。
「今の声は何て言った?」
バタコが向こうから尋ねた。
ワッパは少し迷った。
それでも隠せば、今まで決めたルールに反する。
「裏切り者って言いました」
空気が変わった。
ガルドが乾いた笑いを漏らした。
「どう考えても俺じゃないか」
「まだ誰を指してるかわかりません」
ワッパはすぐに答えた。
「でも一番怪しいのは俺だろ?」
「怪しいことと、声が誰を指したかは別です」
ガルドは少し黙った。
「じゃあ俺が裏切り者か聞いてみろよ」
「こっちから聞いて答えてくれるとは限りません」
「便利じゃない声だな」
「俺もそう思います」
バタコは紙へ書いた。
裏切り者。
場所は谷の手前。
エルナが渡る直前。
視界には三人全員が入っていた。
対象不明。
「これ以上意味を足さない方がいいね」
バタコが言った。
しかし誰も完全には普段通りへ戻れなかった。
裏切り者。
その言葉だけが、四人の間へ見えない壁のように残った。
谷を渡り終えたあとも、ガルドは少し距離を取って歩いていた。
「俺から離れた方がいいんじゃないか?」
「どうしてですか?」
ワッパが尋ねた。
「声に裏切り者って言われたんだろ」
「あなたを指したとは確認できてません」
「でも俺はお前たちへ嘘をついて、短剣を盗む依頼まで受けてた」
ガルドは自嘲するように笑った。
「十分に裏切り者らしいだろ」
その瞬間。
――違う。
ワッパは足を止めた。
ガルドが振り返った。
「何か聞こえたのか?」
「違うって言いました」
「何が違うんだ?」
バタコがすぐに確認した。
「今の流れなら、ガルドさんが裏切り者だという解釈を否定した可能性が高いと思います」
「可能性が高いだけ?」
エルナが尋ねた。
「言葉が短すぎるから、完全には断定できない」
バタコはそう答えたあと、ガルドを見た。
「ただし少なくとも、さっきの裏切り者という声をガルドさんだけへ結びつける理由は弱くなったね」
ガルドは複雑そうな顔をした。
「疑われなくなったのはありがたいが、もっと気味が悪くなったぞ」
ワッパも同じだった。
ガルドではない。
それなら誰なのか。
エルナ。
バタコ。
自分。
あるいはまだ姿を見せていない誰か。
声の言葉だけでは何もわからない。
日が沈む前に、一行は目的の宿場へ到着した。
古い街道沿いに建つ小さな宿で、旅人は数人しかいなかった。
四人は二部屋を借りた。
ワッパとガルド。
エルナとバタコ。
「どうして俺と同じ部屋なんですか?」
荷物を置きながらワッパが尋ねた。
「見張りやすいからじゃないか?」
ガルドが笑った。
「自分で言いますか」
「俺が夜中に逃げないようにするなら、それが一番だろ」
「逃げるつもりはあるんですか?」
「今のところない」
ワッパは相手の顔を見た。
声は何も言わなかった。
「そんなに見ても嘘かどうかはわからないぞ」
「顔だけで判断するつもりはありません」
「本当に面倒なやつだな」
ガルドは寝台へ腰を下ろした。
夕食のあと、四人は一階の端にある小さな卓を囲み、今日の記録を整理した。
最も重要なのは、やはり裏切り者という言葉だった。
「ガルドさんじゃない可能性は高くなった」
バタコが紙を確認した。
「でも対象はまだ不明のままだね」
エルナが少し不安そうに尋ねた。
「私たち三人の中にいる可能性もあるの?」
「言葉だけなら否定できないよ」
バタコは正直に答えた。
「でも裏切りって、何をしたら裏切りなのかもわからない」
ワッパが言った。
「仲間を売ることかもしれないし、約束を破ることかもしれないし、今は味方に見える誰かがあとで敵になるという意味かもしれない」
「それなら未来の話かもしれないんだね」
エルナが言った。
「その可能性もある」
「ずいぶん嫌な声だな」
ガルドが酒の入った杯を見ながら言った。
「こんな言葉だけ投げられたら、仲間同士で疑い始めるだろ」
ワッパはその言葉に反応した。
以前の世界で聞いていた声を思い出した。
周りを信用するな。
あいつらはお前を騙している。
誰にも相談するな。
そうやって人間関係を壊す方向へ導く長い声。
今回の短い声は裏切り者と言っただけだった。
しかし聞いた側が勝手に相手を疑い始めれば、結果として同じことが起こる可能性もある。
「だから今は誰も疑わないようにした方がいい」
ワッパは言った。
「まったく疑わないのも危なくない?」
エルナが尋ねた。
「言い方が悪かった」
ワッパは少し考えた。
「声だけを理由に誰かを疑わないようにした方がいい」
バタコが頷いた。
「現実で怪しい行動があったら、それは普通に確認する」
「それなら今までと同じですね」
「そういうことだよ」
バタコは紙へ書き足した。
裏切り者という言葉だけを理由に、人物を決めつけない。
事実として確認できる行動を優先する。
「声の法則を作った次の日に、いきなり面倒な問題が増えましたね」
ワッパが言うと、バタコは少し笑った。
「だから暫定って言ったでしょ」
話し合いが終わりかけたころ。
窓の外から小さな音が聞こえた。
木へ何かが当たったような音だった。
ワッパが振り向いた。
窓枠に一本の矢が刺さっている。
エルナが息を呑んだ。
ガルドはすぐに立ち上がり、剣へ手をかけた。
「全員、窓から離れろ!」
今度は声ではない。
ガルド自身の判断だった。
四人は壁側へ移動した。
二本目の矢は飛んでこない。
ガルドが慎重に窓へ近づき、外を確認した。
「もう誰も見えない」
「追いますか?」
ワッパが尋ねた。
――追うな。
声が響いた。
ワッパはすぐに記録した。
「声は追うなって言いました」
ガルドが窓の外を見た。
「俺も追わない方がいいと思う」
「どうしてですか?」
「暗い街道で相手の人数もわからない状態なら、追う方が危ない」
ワッパは頷いた。
声がなくても同じ判断になった。
「それなら追いません」
バタコが矢を確認した。
矢じりの近くに、小さな紙が巻きつけられている。
慎重に外す。
短い文章が書かれていた。
黒い短剣を渡せ。
それだけだった。
エルナが自分の腰へ手を当てた。
「また短剣なんだね」
「依頼人と同じ人物の可能性は高い」
ガルドが言った。
「でも証明はできません」
バタコが答えた。
「矢の種類や紙まで保管しておこう」
「こんなものまで持っていくんですか?」
ワッパが尋ねた。
「証拠だから当然でしょ」
バタコは矢を布で包んだ。
その夜、誰も深く眠ることはできなかった。
裏切り者という声。
ガルドではないという否定。
黒い短剣を狙う依頼人。
ワッパの声について知っている何者か。
そして宿場まで追ってきた可能性のある人物。
しかし、最も不気味だったのは、そのすべてを声が説明しようとしないことだった。
敵が誰かも言わない。
裏切り者が誰かも言わない。
追うなと危険だけを告げ、その理由までは教えない。
ワッパは寝台へ横になりながら、窓の向こうの暗闇を見ていた。
誰かがこちらを見ているような気がする。
その感覚が生まれた瞬間、以前の世界の記憶が頭をよぎった。
誰かに見られている気がすることと、本当に見られていることは違う。
ワッパは身体を起こした。
窓の外を確認する。
暗い道。
宿の前に置かれた荷車。
揺れる木の枝。
人影は見えない。
見られている証拠はない。
「今はわからないままでいい」
自分へ言い聞かせるように呟き、ワッパは再び横になった。
そのころ。
宿場から少し離れた丘の上に、一人の人影が立っていた。
深い頭巾で顔は見えない。
男なのか女なのかさえわからない。
その人物は遠くの宿を見下ろしながら、小さな紙を広げた。
そこには三つの名前が書かれていた。
ワッパ。
エルナ。
バタコ。
人物はしばらく紙を見たあと、そのうちの一つへ細い線を引いた。
どの名前を消したのかは、暗闇の中では見えなかった。
紙を折りたたみ、外套の内側へしまう。
その手元には、黒い短剣の鞘によく似た素材で作られた小さな欠片が握られていた。
遠くでは宿場の明かりが揺れている。
人影はそれ以上何もせず、静かに森の方向へ歩き始めた。
そしてその人物が闇の中へ消えていくまで、ワッパの頭の中の声は一度も何も告げなかった。




