第十一章 バタコ
東へ向かうと決めた翌朝、エルナの体調が思っていたより早く戻ったことで、ワッパたちは予定より一日遅れて村を出発することになった。
薬師からは無理をしないことを何度も念押しされ、黒い痕が再び濃くなった場合はすぐに戻るよう言われていたが、エルナ自身は長く寝ていた反動でもあるのか、村の入口へ立った時点ですでに普段とほとんど変わらない様子を見せていた。
「本当に歩けるのか?」
「昨日から何回同じことを聞いてるの?」
「昨日一回死んだ人間に確認してるんだから、回数くらい増えても仕方ないだろ」
「言い方だけ聞くと、とんでもない朝だね」
エルナは苦笑しながら自分の荷物を背負った。
左腕の黒い痕は完全には消えていないものの、昨日倒れる前よりはかなり薄くなっており、少なくとも今すぐ身体へ大きな負担がかかっているようには見えなかった。
ワッパはそれでも何度か表情を確認したあと、最後に村長から受け取った古い地図を荷物へしまった。
東には古い保管所がある。
そこには村に残されていない記録がある可能性があり、響界という言葉や黒い構造物について、何か手掛かりが見つかるかもしれない。
そして何より、現実側の情報を一つずつ積み上げた結果として、東へ向かう理由はすでに十分に存在していた。
だからこそワッパは、声に東へ行けと言われたから旅立つのではなく、自分たちで必要だと判断したから進むのだと何度も確認していた。
「それじゃあ行ってくるよ」
エルナが村長へ声をかけた。
「無理だけはしないようにな」
「それも昨日から何回も聞いたよ」
「何度でも言う必要があるからだ」
村長は少しだけ笑った。
ワッパは村を振り返った。
この世界へ来てから最初に目を覚ました森。
最初に辿り着いた村。
自分へ白い花を渡してくれた少女。
森喰らいの襲撃。
白い霧。
黒い構造物。
短い声。
ほんの数日しか経っていないはずなのに、もっと長い時間を過ごした場所のように感じられた。
「戻ってくるんだから、そんな顔しなくていいよ」
エルナが隣から言った。
「別に別れを惜しんでるわけじゃないぞ」
「それなら難しい顔をする必要もないでしょ」
「考えることが多いんだよ」
「ワッパは考えすぎると顔に全部出るからわかりやすいね」
エルナは笑いながら先へ歩き始めた。
ワッパもその後を追った。
村を離れてしばらくの間は、森の外縁に沿って伸びる比較的広い道を進んだ。
村長から借りた地図によれば、この道を半日ほど東へ進んだあと、途中から北東へ分かれる古い街道へ入れば、使われなくなった保管所の近くまで行けるらしい。
白い霧は見えない。
空も明るい。
道には古い轍が残っている。
少なくとも出発直後から危険が迫っているようには見えなかった。
「声は何か言ってる?」
エルナが歩きながら尋ねた。
「今日はまだ何も聞こえてない」
「それなら静かでいいね」
「何も聞こえないから安全って意味にはならないけどな」
「わかってるけど、たまには普通に旅を楽しんでもいいんじゃない?」
エルナは道の脇へ咲いている黄色い花を見た。
「昨日まで死んだり生き返ったりしてた人間が言うと説得力がすごいな」
「もう元気なんだから、いつまでも昨日の話をされる方が困るよ」
エルナは少し頬を膨らませた。
ワッパは思わず笑った。
こんな会話ができること自体がありがたかった。
昨日の夕方には呼吸も脈も止まっていた。
それでも今は隣を歩いている。
その事実を確認するたびに、胸の奥へ安堵が広がった。
昼前になったころ、二人は街道の分岐点へ到着した。
古い石柱が立っている。
文字はかなり削れていたが、東と北東を示しているらしい。
「地図ならこっちだね」
エルナが北東側を指した。
「そのまま進んで問題なさそうだな」
二人が道へ入ろうとしたところで、背後から大きな音が聞こえた。
何かが道へ落ちたような音だった。
振り返る。
巨大な荷物が地面へ転がっていた。
その横で、一人の女性がしゃがみ込んでいる。
「最悪なんだけど……」
女性は頭を抱えていた。
茶色い髪を後ろでまとめ、細い眼鏡をかけている。
背中には本人の身体より大きいのではないかと思えるほど巨大な荷物があり、その一部が開いて中から紙や道具が散乱していた。
「大丈夫ですか?」
エルナがすぐに近づいた。
女性は顔を上げた。
「あまり大丈夫じゃないけど、身体より記録の方が危ないから先に紙を拾ってもらえると助かるかな」
ワッパとエルナは顔を見合わせたあと、風で飛びそうになっている紙を集めた。
何枚かには地図のようなものが描かれている。
別の紙には細かな文章と日付らしい数字が大量に並んでいた。
「これで全部ですか?」
ワッパが尋ねた。
「たぶん全部あると思うけど、あとで枚数を確認しないと安心できないかな」
女性は紙を受け取り、一枚ずつ丁寧に荷物へ戻した。
「助かったよ、本当にありがとう」
「ずいぶん大きな荷物だね」
エルナが言った。
「仕事道具を持ち歩いてると、どうしてもこうなるんだよ」
女性は立ち上がり、服についた土を払った。
「私はバタコっていうんだけど、二人はこの辺りの人?」
「私はエルナで、こっちはワッパだよ」
「その名前なら覚えやすいね」
バタコはワッパの顔を見た。
「どこへ向かってるの?」
「東にある古い保管所を探してます」
その言葉を聞いた瞬間、バタコの表情が変わった。
「古い保管所って、街道の先に残ってる記録庫のことかな?」
「知ってるんですか?」
「知ってるどころか、私もそこへ行く途中なんだよ」
エルナが驚いた。
「同じ場所へ向かってたの?」
「正確には、そこに残ってる昔の記録を見に行こうとしてたところかな」
バタコは自分の荷物を指した。
「私は旅の記録屋をしてるんだ」
「記録屋って何をする仕事なんですか?」
ワッパが尋ねた。
「町や村を歩いて昔の話を集めたり、古い地図を写したり、変わった出来事を調べて記録したりする仕事だよ」
「それって稼げるの?」
エルナが尋ねた。
「そこを最初に聞かれると悲しくなるけど、ちゃんと依頼があるときはそれなりに稼げるよ」
バタコは笑った。
「今回は誰かに頼まれたわけじゃなくて、自分で気になった記録を調べに行く途中だけどね」
ワッパは少し興味を持った。
「何について調べてるんですか?」
バタコはすぐには答えず、二人の荷物を見た。
「その質問をするなら、先に二人が何を探してるのか聞いてもいい?」
ワッパは少し迷った。
出会ったばかりの相手へ、声やエルナの痕についてすべて話す必要はない。
しかし同じ保管所を目指しているなら、情報を交換する価値はありそうだった。
「響界っていう言葉を知りませんか?」
バタコの表情が止まった。
「どこでその言葉を知ったの?」
昨日の村長と似た反応だった。
「古い記録と、少し変わった方法で知りました」
「変わった方法って何?」
「そこはあとで説明します」
バタコはしばらくワッパを見た。
「響界って言葉なら、古い記録で何度か見たことがあるよ」
エルナが身を乗り出した。
「どういう意味なの?」
「それがちゃんとわからないから、私も調べに行くところなんだよ」
バタコは荷物の中から薄い冊子を取り出した。
「十年くらい前に別の町で写された記録なんだけど、この中に響界って言葉が何回か出てくるんだ」
ワッパは冊子を見た。
古い文字を写したものらしい。
「何て書いてあるんですか?」
「全部は読めないけど、響きを観るとか、遠い場所を聞くとか、そんな表現が何度も出てくる」
「遠い場所を聞く?」
「変な表現でしょ」
バタコは頷いた。
「それと、塔らしい建物の図が描かれてる記録もあるんだよ」
ワッパとエルナは同時に顔を見合わせた。
「黒い塔ですか?」
ワッパが尋ねた。
「黒いかどうかまでは書かれてないけど、地面からかなり高く伸びた細い建物だったらしいよ」
「俺たちは森の中で、塔みたいな黒い構造物を見つけました」
バタコの目が大きくなった。
「それ、本当に見たの?」
「地面から斜めに出てました」
「どの辺り?」
ワッパは地図を出した。
森の場所を指す。
バタコは地図へ顔を近づけた。
「この辺りなら、古い記録に建物があった場所とかなり近いかもしれない」
「何の建物だったんですか?」
「そこがわからないから困ってるんだよ」
バタコは眼鏡を少し上げた。
「でも急に面白くなってきたね」
「俺たちには面白いだけで済まないんですけど」
「それなら余計に調べる価値があると思うよ」
バタコはそう言った。
三人はひとまず同じ道を進むことになった。
バタコは歩きながら何度も質問してきた。
黒い構造物を見た日時。
天候。
白い霧の濃さ。
近くにいた動物。
構造物の大きさ。
表面の模様。
音。
光。
ワッパが思い出した前の世界についてまで聞こうとしたため、さすがにそこは一度止めた。
「質問が多すぎませんか?」
「記録屋なんだから仕方ないよ」
「仕方ないで済ませる量じゃない気がする」
「あとで聞こうと思うと忘れるから、その場で聞いた方がいいんだよ」
エルナは少し楽しそうに笑っていた。
「ワッパより細かい人に初めて会ったかもしれない」
「俺はここまで質問しないだろ」
「声の記録を毎回書いてる人が言っても説得力ないよ」
バタコの足が止まった。
「声の記録?」
エルナが口を押さえた。
「今のは忘れてほしいかな」
「それは無理だと思う」
バタコはワッパを見た。
「声って何の話?」
ワッパはしばらく迷った。
しかし響界について調べている相手なら、いずれ説明する必要があるかもしれない。
「俺には、ときどき他の人には聞こえない声が聞こえるんです」
バタコは驚くでも笑うでもなく、すぐに尋ねた。
「いつから聞こえてるの?」
「この世界へ来てからです」
「この世界へ来てからって表現も気になるけど、今は声の方から聞こうかな」
バタコは荷物から小さな紙を取り出した。
「どんな声なの?」
「短い言葉が多いです」
「男か女かわかる?」
「はっきりしません」
「耳から聞こえる感じ?」
「頭の中に直接響く感じに近いです」
「ほかの人には聞こえない?」
「今のところ俺だけです」
バタコは次々に書き留めていく。
「内容は?」
「危険を知らせたり、方向を教えたりします」
「当たるの?」
「今まで確認できた範囲では外れてません」
バタコの手が止まった。
「確認できた範囲って言ったね」
「全部を確認できるわけじゃないので」
「その言い方はかなり重要だよ」
バタコはワッパを見た。
「当たった声だけ覚えてる可能性は考えた?」
「それが嫌だから記録してます」
ワッパは自分の紙を見せた。
バタコは受け取った。
一枚ずつ読む。
伏せろ。
左。
戻れ。
止まれ。
右。
落ちる。
飲むな。
火。
死ぬ。
三日。
本当。
嘘。
東へ。
いくつもの言葉と、そのあと確認できた結果が書かれている。
バタコはかなり長い時間黙っていた。
「これ全部、自分で書いたの?」
「聞いたあとになるべく早く記録してます」
「結果も後から追記してるんだね」
「都合よく記憶を変えたくないので」
バタコはゆっくり頷いた。
「そのやり方はかなりいいと思うよ」
「声を信じるんですか?」
「まだ信じないよ」
あまりにも即答だったため、ワッパは少し驚いた。
「ここまで結果が合っててもですか?」
「記録だけ見ればかなり興味深いけど、だからって今すぐ不思議な声が未来を知ってると決める必要はないでしょ」
ワッパは思わずバタコを見た。
「それならどう考えるんですか?」
「まず記録の取り方を確認する」
バタコは指を一本立てた。
「声を聞いた直後に書いたのか、出来事が起きたあとで思い出して書いたのか、それだけでも意味が変わるからね」
「なるべく直後です」
「次に、言葉がどれくらい曖昧だったかを見る」
バタコは火という記録を指した。
「火って言われたあとで火事が起きたなら確かに気になるけど、火なんて村の中にはいくらでもあるし、何時間以内なら当たりとするのか決めてないなら、都合よく一致させることもできるよ」
ワッパは黙った。
考えたことがなかったわけではない。
しかし、ここまで明確に言葉へされたのは初めてだった。
「それから外れた記録も絶対に残す」
「それは最初からやるつもりです」
「それならかなりいいね」
バタコは少し笑った。
「当たった話だけ集めたら、何でも当たってるように見えるもの」
その言葉を聞いた瞬間、ワッパは以前の世界で医者から言われたことを思い出した。
確認する。
思い込みだけで決めない。
都合のいい情報だけを選ばない。
バタコが言っていることも、根本では同じだった。
「それと、声が当たったとしても、それが何なのかは別問題だよ」
バタコは記録を返した。
「未来を知ってる存在かもしれないし、今ある危険を何らかの方法で察知してるだけかもしれないし、ワッパ自身が気づいてない情報を拾って言葉にしてる可能性だってある」
「どれも証明できないですよね」
「だから調べるんだよ」
バタコは楽しそうに笑った。
「わからないものを、わからないまま放置するのも一つの方法だけど、調べられるものなら調べた方が面白いからね」
「最後だけ完全にバタコさんの趣味ですよね」
「仕事と趣味が近い方が楽しいでしょ」
エルナが笑った。
夕方近くになったところで、街道の先に古い石橋が見えた。
橋の向こうには小さな林があり、そのさらに先へ道が続いている。
「今日は橋を渡った先で休んだ方がいいかな」
バタコが地図を見ながら言った。
「この辺りに小さな休憩所の跡があるはずだよ」
ワッパたちは橋へ近づいた。
かなり古い。
石でできているものの、一部には木材で補修した跡が残っている。
三人が橋の手前まで来たところで。
――止まれ。
ワッパは足を止めた。
「今、声が止まれって言いました」
バタコの目が一瞬で変わった。
「全員その場から動かないで」
「ずいぶん素直に止まるんですね」
「声を信じたんじゃなくて、検証できる機会を無駄にしたくないだけだよ」
バタコは荷物を下ろした。
橋を遠くから観察する。
「声を聞いた正確な時刻は?」
「わかりませんけど、今です」
「それなら記録へすぐ書いて」
ワッパは紙へ書いた。
止まれ。
石橋の手前。
夕方。
「ほかに何か言った?」
「今のところ何もないです」
バタコは橋へ近づかず、周囲から確認し始めた。
木材。
石。
支柱。
川の流れ。
エルナも反対側から眺めた。
「見た感じは普通だよ」
「それなら少し待とう」
三人はその場で立ち続けた。
何も起きない。
一分ほど経った。
さらに時間が過ぎる。
「今の段階では危険を確認できてないね」
バタコは紙へ何かを書いた。
「どうしますか?」
ワッパが尋ねた。
「声だけを理由に引き返す必要はないけど、そのまま渡る前に橋そのものを調べよう」
バタコは長い棒を荷物から取り出した。
「そんなものまで持ってるんですか?」
「だから荷物が大きくなるんだよ」
棒で手前の木材を軽く押す。
問題ない。
少し奥へ伸ばす。
その瞬間。
橋の中央にある一枚の板が大きく沈んだ。
エルナの表情が変わった。
「今の危なくない?」
バタコはさらに棒で押した。
木材の下から乾いた音が聞こえた。
表面だけではわからなかったが、内部がかなり腐っているらしい。
「人が一人ずつ歩くだけなら耐える可能性もあるけど、三人が続けて乗ったら崩れるかもしれないね」
バタコは橋を見た。
「声の内容と、確認できた危険は一致した」
ワッパは記録へ追記した。
「これで信じますか?」
「一件追加されたくらいで急には変わらないよ」
「かなり厳しいですね」
「むしろ本当に正しい声なら、厳しく調べても正しいままでしょ」
ワッパはその言葉に妙な納得を覚えた。
疑うことは、必ずしも否定することではない。
確かめるために疑うこともできる。
それは自分が以前の世界で教えられた方法にも近かった。
橋は一人ずつ慎重に渡ることになった。
バタコが先に棒で確認しながら進み、次にエルナ、最後にワッパが渡った。
途中で何度か木材が軋んだが、全員無事に反対側へ到着した。
休憩所の跡へ着いたころには空が赤くなっていた。
三人は簡単な食事を用意した。
「声を記録するなら、これから少し形式を決めない?」
バタコがパンを食べながら言った。
「形式って何ですか?」
「聞こえた言葉だけじゃなくて、聞こえた場所、時間、直前に何を見ていたか、周囲に何があったか、それから結果が確認できた時刻まで書く」
「かなり増えますね」
「情報は多い方が後から比較できるよ」
「でも全部書いてたら旅より記録が目的になりそうです」
「だから私が書いてもいいよ」
バタコは胸を張った。
「それが本職だからね」
エルナが少し笑った。
「バタコさん、本当に楽しそうだね」
「こんな珍しい記録に出会ったら楽しくなるに決まってるよ」
「俺としては珍しいで済ませてほしくないんですけど」
「もちろんワッパ本人が困ってることは別に考えるよ」
バタコの表情が少し真面目になった。
「嫌なら記録はやめるし、声の内容を誰かへ勝手に話したりもしない」
ワッパは少し意外だった。
「そこはちゃんと聞いてくれるんですね」
「記録する相手を壊してまで情報を取ったら、記録屋じゃなくてただの迷惑な人だからね」
「さっきまで質問攻めだった人の言葉とは思えません」
「質問してもいい範囲と、踏み込んじゃいけない範囲は別だよ」
ワッパは少し考えたあと頷いた。
「それなら記録を手伝ってください」
「喜んで引き受けるよ」
バタコはすぐに紙を取り出した。
「じゃあ最初に声を聞いたときから全部確認し直そう」
「今から全部やるんですか?」
「忘れる前の方がいいでしょ」
ワッパは思わず頭を抱えた。
エルナは隣で笑っていた。
夜が深くなるまで、三人はこれまでに聞いた声を一つずつ整理した。
ワッパが覚えていること。
エルナが見ていたこと。
村人から確認できたこと。
そして今の時点では確認できないこと。
バタコは当たりと外れという二つだけに分けず、確認済み、未確認、解釈不明という三つへ分けた。
「たとえばエルナは死ぬって言葉は、死んだあと戻ったから内容そのものは確認済みだけど、声がどこまで先を知っていたかはわからない」
「それなら正解だけど説明不足ってことですか?」
「その書き方だと声が説明する義務を持ってるみたいになるから、私は単純に内容一致でいいと思う」
「細かいですね」
「細かくない記録なんて、あとで役に立たないよ」
バタコは続けた。
「それから、お前には救えないって声もまだ完全には確認できてない」
ワッパは顔を上げた。
「俺は短剣を使ってエルナを戻しました」
「そうだけど、その短剣の使い方を教えたのは村長でしょ」
「それがどうしたんですか?」
「声が言ったお前には救えないって言葉が、ワッパ一人では救えないって意味なら一致してる可能性があるし、最終的に救えないって意味ならまだ結果が出てない」
ワッパは黙った。
エルナも表情を少し曇らせた。
「怖い言い方をするね」
「怖がらせたいわけじゃなくて、わからない部分を勝手に埋めない方がいいって話だよ」
バタコは紙へ未確認と書いた。
「短い言葉ほど、聞いた側が意味を足しやすいからね」
それはまさに、ワッパ自身が感じ始めていたことだった。
一通りの記録を終えたあと、バタコは響界についての冊子を再び広げた。
「声の話を聞いたあとだと、この記録も少し違って見えるんだよね」
「何か気になるところがありますか?」
「ここに遠い場所を聞くって書いてあるでしょ」
バタコは一行を指した。
「これが比喩なのか、本当に何かを聞いていたのかが今までわからなかったんだけど、もし昔にも普通とは違う情報を受け取る方法があったなら、ワッパの声と完全に無関係とは言い切れないかもしれない」
「でもまだ証拠はないですよね」
「もちろんないよ」
バタコは即答した。
「だから古い保管所へ行く価値が増えたってだけ」
ワッパは冊子を見た。
響界。
黒い塔のような構造物。
遠い場所を聞く。
自分にしか聞こえない声。
少しずつ線が近づいているように感じる。
しかし、まだつながったとは言えない。
「明日、保管所まで行けそうですか?」
「順調なら昼過ぎには着くと思うよ」
バタコは地図を確認した。
「ただし古い道だから、途中で崩れてたり霧が出てたりしたら遅れる可能性はあるね」
「声は今のところ何も言ってない」
ワッパは夜の暗い道を見た。
その瞬間。
――連れていけ。
短い声が響いた。
ワッパは動きを止めた。
バタコがすぐに気づいた。
「今、聞こえた?」
「連れていけって言いました」
「誰を連れていくの?」
「そこまでは言ってません」
エルナがバタコを見た。
「今いる三人の誰かってことかな?」
「決めるのは早いよ」
バタコはすぐに言った。
「言葉が聞こえた瞬間に誰を見ていた?」
「バタコさんが地図を見てました」
「それなら私を見ていたわけじゃないね」
「声がバタコさんを指してる可能性は?」
「あるかもしれないけど、エルナかもしれないし、まだ出会ってない誰かかもしれないし、何か物を運べって意味かもしれない」
ワッパは紙へ書いた。
連れていけ。
対象不明。
場所は休憩所跡。
三人で会話中。
「これも未確認にしておこう」
バタコが言った。
「声が説明してくれたら楽なんですけどね」
「説明しないから調べがいがあるんじゃない?」
「やっぱり楽しんでますよね」
「否定はしないよ」
バタコは笑った。
三人は火を小さくし、交代で見張りながら眠ることになった。
ワッパは毛布へ横になりながら、今日出会ったばかりのバタコのことを考えた。
声が聞こえると説明しても否定しなかった。
だからといって簡単に信じることもしなかった。
当たった記録だけを見て結論を出すなと言った。
確認できないものを未確認のまま残した。
声が正しい可能性を認めながら、その正体まで勝手に決めることはしなかった。
その姿勢は、ワッパにとって不思議なほど安心できるものだった。
信じてもらう必要はない。
否定されないこととも違う。
一緒に確かめてくれる人間がいるだけで、自分一人で声と向き合うときよりずっと楽だった。
少し離れた場所では、エルナが静かに眠っている。
さらに向こうでは、見張り番のバタコが地図へ何かを書き込んでいた。
ワッパは目を閉じた。
明日には古い保管所へ着く。
そこに響界についての記録が残っていれば、自分にしか聞こえない声の正体へ少しだけ近づけるかもしれない。
あるいは何もわからないかもしれない。
それでも構わない。
わからなければ、そのまま記録すればいい。
答えを急がなくても、調べることはできる。
ワッパはそう考えながら、久しぶりに少しだけ安心した気持ちで眠りへ入っていった。




