第十章 嘘をつく人間
人間は嘘をつく。
前日の夕方に聞こえたその言葉は、内容だけを見れば驚くほど当たり前だったはずなのに、これまで何度も現実と一致してきた声がわざわざ告げたという事実のせいで、ワッパの中には小さな棘のような違和感が残り続けていた。
人間が嘘をつくことくらい、以前の世界でも知っていた。
悪意を持って相手を騙すためにつく嘘もあれば、誰かを傷つけないために本当のことを隠す場合もあり、自分自身を守るために言葉を濁すことだってある。
村長も森の調査について事実の一部を隠していた。
エルナも黒い痕や森へ向かう計画について、何も隠していないと嘘をついた。
しかし、その二人を単純な嘘つきとして扱うことには、ワッパ自身が強い違和感を覚えていた。
嘘という事実だけでは、その人間が何を守ろうとしていたのかまではわからない。
それなのに頭の中の声は、事情を説明することなく短い言葉だけを置いていく。
だからこそ、その言葉へ自分で勝手な意味を足さないことが必要なのだと、ワッパは朝から何度も自分へ言い聞かせていた。
東へ向かう準備は昼から始める予定だったため、午前中のワッパは村の仕事を手伝いながら、エルナや村長から追加で聞けることがないか確認するつもりだった。
しかし集会所を出たところで、村の中央が妙に騒がしいことへ気づいた。
何人もの村人が食料倉庫の前へ集まり、その中心では若い男が二人の大人に囲まれていた。
「だから俺じゃないって何度言えばわかるんだ!」
若い男は苛立った声を上げていた。
ワッパが近づくと、エルナも少し遅れてやってきた。
「何があったの?」
「朝になったら保存用の肉がかなり減っていたらしいよ」
近くにいた女性が説明した。
「倉庫の鍵は壊されてないの?」
「鍵そのものは無事だったけど、昨日の夕方にレクが倉庫の近くを歩いてたのを見た人がいるんだって」
囲まれている若い男の名前がレクらしい。
「近くを通っただけだって言ってるだろ!」
レクは繰り返した。
村人の一人が腕を組んだ。
「それなら食料がなくなった理由を説明してみろ」
「そんなの俺が知るわけないだろ!」
ワッパはそのやり取りを見ながら、倉庫の入口を確認した。
扉は閉じられている。
窓は小さい。
目立った破損も見当たらない。
レクが嘘をついているのかどうか、外から見ただけでは判断できない。
その瞬間。
――本当。
ワッパは少し驚いた。
これまで嘘という言葉は聞いたことがあった。
しかし、本当と明確に告げられたのは初めてだった。
「声が何か言ったの?」
エルナが小さく尋ねた。
「レクが言ってることは本当だって意味に聞こえるけど、まだ決めない方がいいと思う」
「それなら倉庫をちゃんと調べてみようよ」
ワッパは頷いた。
村人たちへ事情を話し、レクを責める前に倉庫の中を確認させてもらうことにした。
食料倉庫の中には干した肉や穀物の袋が並べられていた。
問題の棚だけが明らかに空いている。
「確かにこれだけ減ってたら、誰かが持っていったように見えるね」
エルナが棚を確認した。
ワッパは床へ視線を落とした。
土埃の中に、小さな跡がいくつも残っている。
人間の靴跡ではない。
細い爪を持つ小動物の足跡だった。
「この足跡は昨日からあったんですか?」
倉庫を管理している男へ尋ねると、相手は首を振った。
「そんなものまで確認していなかった」
ワッパは足跡を追った。
倉庫の奥。
積み上げられた木箱。
さらにその後ろへ、小さな穴が開いている。
板が腐っていたらしく、外側から齧られた跡が残っていた。
「ここから何か入ってきたみたいですね」
木箱を動かすと、その下から細長い尾が見えた。
エルナが思わず身体を引いた。
「何かいるよ!」
数匹の大きな鼠に似た動物が飛び出し、倉庫の中を走った。
一匹の口には干した肉が咥えられている。
村人たちは呆然とした。
外で待っていたレクへ状況を伝えると、疑っていた男たちは気まずそうに頭を下げた。
「本当に悪かった、最初から決めつけてしまった」
レクは不満そうな顔をしていたが、最後には小さく息を吐いた。
「次からはちゃんと調べてから疑ってくれよ」
騒ぎはそれで収まった。
ワッパは記録へ書き加えた。
レクは盗んでいないと主張した。
声は本当と告げた。
現実を確認すると、食料は小動物が持ち出していた。
声の内容と現実は一致した。
その下へ、もう一文を書いた。
疑われている人間が嘘をついているとは限らない。
午後になり、ワッパとエルナは東へ向かうための荷物を確認していた。
水。
干し肉。
黒いパン。
薬草。
簡単な毛布。
地図。
声の記録。
そしてエルナの黒い短剣。
「これで最低限は足りると思うよ」
エルナが荷物を閉じようとしたところで、村長が集会所へやってきた。
老人の表情は普段より重かった。
「出発する前に話しておかなければならないことがある」
ワッパとエルナは手を止めた。
村長は二人の向かいへ座った。
「昨日見つけた古い記録をさらに調べてみたところ、エルナの母親について残っているものが少し見つかった」
エルナの表情が変わった。
「母さんのことが書いてあったの?」
「名前までは書かれていないが、時期と状況から見て間違いないだろう」
村長は古い紙を机へ置いた。
「三年前、お前の母親は森へ入るより前に、白い霧と黒い痕について何度も調べていた」
「その話は昨日も聞いたよ」
「重要なのはその先だ」
村長は少し言葉を選んだ。
「母親は自分の痕が進行すると、村にも危険が及ぶ可能性があると考えていたらしい」
エルナの顔から血の気が引いた。
「やっぱり私の痕が霧を呼んでるの?」
「そこまでは記録に書かれていない」
ワッパはすぐに口を挟んだ。
「可能性があると考えていたっていうだけですよね」
「その通りだ」
村長は頷いた。
「母親自身の推測が残っているだけで、証明されたものではない」
エルナは少しだけ安心したように息を吐いた。
ワッパはさらに尋ねた。
「それ以外には何か書いてあったんですか?」
村長は視線を落とした。
「残っているのは、それだけだ」
その瞬間。
――嘘。
ワッパは村長を見た。
老人は紙から目を逸らしている。
昨日までなら声が嘘と言った時点で疑いを強めていたかもしれない。
しかし今は違う。
嘘という言葉は、隠している理由までは教えない。
「本当にそれだけなんですか?」
村長は黙った。
「ほかにも何か見つかったなら、今は教えてほしいです」
「知らない方がいいこともある」
「それなら、何を隠してるかだけでも話してください」
エルナも村長を見た。
「私に関係することなら知りたいよ」
長い沈黙のあと、村長は目を閉じた。
「お前の母親は、森へ入る前に一度死んでいる」
エルナが固まった。
「どういう意味なの?」
「文字通りの意味だ」
村長は静かに続けた。
「三年前、白い霧の中から戻ってきたあと、お前の母親は一度呼吸も脈も完全に止まった」
ワッパは思わず黒い短剣へ視線を向けた。
「そのあと生き返ったんですか?」
「ああ」
「どうやって生き返ったんですか?」
村長は短剣を見た。
「その短剣を使った」
エルナは腰の鞘へ手を触れた。
「母さんが自分で使ったの?」
「そのとき母親は意識を失っていたから、私たちが使った」
「どんな使い方だったんですか?」
「胸元へ近づけただけだ」
ワッパは眉を寄せた。
「刺したわけじゃないんですね」
「刃を身体へ入れてはいない」
「それで生き返ったんですか?」
「短剣が白く光ったあと、身体から霧のようなものが抜けて、少しして呼吸が戻った」
エルナは黙り込んだ。
ワッパは自分の中で、これまでの情報が一気につながり始めるのを感じた。
黒い痕。
白い霧。
黒い短剣。
エルナの母親。
そして声が告げた、エルナは死ぬという言葉。
さらに残された期限は三日。
「村長は、どうしてこれをエルナへ教えなかったんですか?」
「同じことを試そうとすると思ったからだ」
「でも短剣は渡したんですよね」
「必要になる可能性があると思った」
「それなら最初から使い方まで教えるべきだったんじゃないですか?」
村長は苦しそうな表情をした。
「私自身も、あれが正しい使い方だったのかわからない」
「どういう意味ですか?」
「母親は生き返ったが、そのあと黒い痕は以前より早く広がった」
エルナが短剣から手を離した。
「それから森へ行ったの?」
「数日後だった」
「母さんは生き返ったあと、何て言ってたの?」
村長は少し迷った。
「これでは終わっていないと言っていた」
エルナの目が揺れた。
ワッパは声の記録を思い出した。
エルナは死ぬ。
三日。
お前には救えない。
もし死ぬという言葉が、完全な終わりを意味していないとしたら。
声は嘘をついていなくても、ワッパが勝手に死という言葉へ終わりの意味を足していただけかもしれない。
その可能性に気づいた瞬間、胸の奥へわずかな希望が生まれた。
「エルナのお母さんが一度死んで生き返ったなら、声が言ったエルナは死ぬっていう言葉も、同じ意味かもしれない」
エルナがワッパを見た。
「死んでも戻れるってこと?」
「まだそうだと決めるのは早いけど、少なくとも死ぬという言葉だけで、その先がないとは言い切れない」
村長は困惑していた。
ワッパは短い声のことを説明した。
老人は信じているのかどうかわからない顔をしていたが、話を遮ることはしなかった。
「それなら、母さんのときと同じことが私にも起きる可能性があるんだね」
エルナは黒い短剣を見た。
「だからこそ、一人で何か試そうとするのはやめよう」
ワッパは強く言った。
「短剣に何ができるのかも、黒い痕が何なのかも、まだほとんどわかってない」
「わかってるよ」
エルナは頷いた。
「今度はちゃんと一緒に確認するから安心してね」
その言葉を聞いて、ワッパは少しだけ肩の力を抜いた。
東へ向かう出発は翌朝へ延期することになった。
新しくわかった情報を整理し、黒い短剣についてもう少し村長から聞く必要があったからだった。
しかし夕方になったころ、エルナの身体に異変が起きた。
最初は左腕が熱いと言っただけだった。
「昨日より痕が濃くなってる気がする」
集会所の中で袖をまくると、黒い線は肘を越え、肩に近いところまで伸びていた。
ワッパはすぐに薬師を呼んだ。
「痛みは強いのか?」
「少し熱いだけだから、まだ大丈夫だよ」
エルナはそう答えた。
しかし声の調子には力がない。
薬師が腕を調べている間、ワッパは近くに座っていた。
黒い痕は脈打つようにわずかに動いている。
皮膚の下で何かが流れているようにも見えた。
「普通の血管じゃないね」
薬師も困惑していた。
「熱が出てるわけじゃないけど、腕だけ異常に温かいよ」
エルナは少し笑った。
「みんなそんな顔しなくても大丈夫だから」
「大丈夫かどうかは、確認してから決めよう」
ワッパが答えた。
「最近そればっかり言ってるね」
「今の俺には便利な言葉なんだよ」
エルナが笑おうとした。
その直後。
身体が前へ倒れた。
「エルナ!」
ワッパはすぐに抱き止めた。
返事がない。
「エルナ、聞こえてるなら返事をしてくれ!」
身体を揺らしても反応しない。
薬師が首元へ指を当てた。
表情が変わった。
「呼吸を確認して!」
別の村人が胸元を見た。
動いていない。
ワッパの頭が真っ白になった。
「脈はどうなんですか!」
薬師は答えなかった。
その沈黙だけで理解できた。
「嘘だろ……」
ワッパはエルナの頬へ手を当てた。
まだ温かい。
ほんの少し前まで話していた。
笑っていた。
それなのに呼吸していない。
脈もない。
その瞬間。
――死んだ。
短い声が響いた。
「黙れよ……」
ワッパは反射的に呟いた。
薬師が顔を上げた。
「何か聞こえたの?」
ワッパは答えなかった。
エルナの身体を見たまま、頭の中の声へ問いかけた。
「助ける方法があるんだろ?」
返事はなかった。
「エルナの母親は戻ったんだぞ!」
沈黙が続いた。
「それならエルナだって戻せるだろ!」
――お前には、救えない。
以前にも聞いた言葉だった。
ワッパは拳を握った。
「俺には無理でも、ほかの方法がないとは言ってないだろ」
声は何も答えなかった。
そのとき、エルナの腰にある黒い短剣が目に入った。
母親は一度死んだ。
短剣を胸元へ近づけた。
白く光った。
身体から霧のようなものが抜けた。
そのあと呼吸が戻った。
「村長を呼んでください!」
ワッパは叫んだ。
少しして村長が駆け込んできた。
床に横たわるエルナを見た瞬間、老人の顔色が変わった。
「三年前と同じなんですか?」
「かなり似ている」
「それなら短剣を使います」
村長はすぐには頷かなかった。
「母親のときはそのあと痕が悪化した」
「それでも何もしなければ、このままなんですよね」
村長はエルナを見た。
「そうだ」
ワッパは短剣を鞘から抜いた。
黒い刃には、以前より太い白い線が浮かんでいる。
「刺さなくていいんですよね」
「ああ、胸元へ近づけただけだった」
ワッパはエルナの胸の上へ短剣を近づけた。
何も起きない。
「もっと近づけるんですか?」
「母親のときは刃が服へ触れるほど近かった」
ワッパは慎重に下ろした。
短剣の先がエルナの服へ触れた。
その瞬間。
白い光が走った。
ワッパは思わず目を細めた。
黒い刃の中央にあった白い線が急激に広がり、エルナの胸元から左腕へ向かって細い光が伸びていく。
黒い痕が反応した。
皮膚の下にあった線が大きく脈打った。
「何か出てきてる!」
薬師が声を上げた。
エルナの胸元から、白い霧のようなものが少しずつ浮かび始めた。
森で見た白い霧とよく似ている。
しかし空気へ広がることはなく、短剣へ吸い込まれるように流れている。
ワッパは短剣を動かさなかった。
「エルナ、戻ってきてくれ……」
白い霧がさらに抜ける。
黒い痕が少しだけ薄くなった。
短剣の白い線が強く光った。
そして。
エルナの胸がわずかに動いた。
ワッパは息を止めた。
もう一度。
小さく胸が上下した。
薬師が首元へ手を当てた。
「脈が戻ってきてる!」
ワッパは短剣を離した。
「エルナ、聞こえるか!」
すぐには反応しない。
呼吸だけが少しずつ戻っている。
数十秒ほど経ってから、エルナの指が動いた。
まぶたが震えた。
ゆっくり目が開いた。
「ワッパ……?」
その声を聞いた瞬間、ワッパは大きく息を吐いた。
「本当に心配させすぎなんだよ」
エルナは状況が理解できていないようだった。
「私、どうなってたの?」
ワッパは答えようとして言葉に詰まった。
声は死んだと言った。
呼吸も脈も止まっていた。
事実として、エルナは一度死んだと考えてよい状態だった。
しかし今は生きている。
「一度、呼吸も脈も止まってたんだ」
エルナの目が大きくなった。
「それって私、本当に死んでたの?」
「少なくとも確認できた状態では、そうだったと思う」
エルナはしばらく何も言わなかった。
声の予言。
エルナは死ぬ。
三日。
ワッパは日数を数えた。
最初にその言葉を聞いた夜から数えれば、ちょうど三日目だった。
予言は外れなかった。
しかし、ワッパが想像していた意味とも違っていた。
死ぬという言葉は本当だった。
けれど、そのあと生き返らないとは言っていなかった。
声は嘘をついていない。
自分が勝手に続きを想像していただけだった。
その事実に気づいた瞬間、安堵と恐怖が同時に押し寄せてきた。
エルナが身体を起こそうとしたため、薬師が止めた。
「今日は絶対に安静にしてないと駄目だよ」
「でも明日は東へ行く予定だったんだけど」
「今の状態で出発できるわけないだろ」
ワッパが強く言うと、エルナは困ったように笑った。
「やっぱり怒ってるね」
「当たり前だろ」
「でも戻ってこられたよ」
「それで終わったと思わない方がいい」
ワッパはエルナの左腕を見た。
黒い痕は少し薄くなっている。
しかし消えてはいない。
そして短剣にも変化があった。
黒い刃の中央にあった白い線は、細い亀裂のような形で残っている。
以前より明らかに深くなっていた。
「お母さんのときも、短剣はこうなったんですか?」
ワッパが村長へ尋ねた。
「ここまで大きな変化はなかったと思う」
「それなら何度も使えるとは限らないですね」
村長は頷いた。
「私もそう思う」
エルナは自分の左腕へ触れた。
「これで治ったわけじゃないんだね」
「たぶん、今起きたことは症状を止めただけなんだと思う」
ワッパは森で見た黒い構造物を思い出した。
白い霧。
黒い痕。
母親の失踪。
短剣。
東の古い記録。
響界。
すべての中心に、まだ知らないものがある。
夜になってから、ワッパはエルナの隣で声の記録を整理していた。
エルナは毛布へ横になりながら、ワッパが書いている文字を眺めている。
「何て書いたの?」
「声はエルナが三日以内に死ぬと告げた」
「実際に死んだね」
「呼吸と脈が停止したことを複数人で確認した」
「そこまで書くと少し怖いね」
ワッパは続けた。
「黒い短剣を使用したあと、呼吸と脈が回復した」
「それなら予言は当たったけど、思ってた結果とは違ったってことだよね」
「そういうことになる」
ワッパは少し考え、最後に一文を書いた。
声は事実を告げても、その事実の意味や続きをすべて説明するとは限らない。
「それってすごく大事なことかもしれないね」
「俺もそう思う」
もし声が嘘をつかないとしても、それだけで未来のすべてがわかるわけではない。
短い言葉へ人間が意味を足した瞬間、そこには解釈が生まれる。
そして解釈は間違えることがある。
それなら、声そのものが正しくても、聞いた人間が間違えることは十分にあり得る。
「ワッパは少し安心した?」
エルナが尋ねた。
「エルナが戻ってきたことにはものすごく安心してる」
「それ以外はどうなの?」
「声が今までより怖くなった」
エルナは意外そうな顔をした。
「助かったのに怖いの?」
「本当に言葉通りになる可能性が、前より高くなったからな」
ワッパは紙を見た。
「でも同時に、言葉だけ聞いて全部決めるのは危険だってこともわかった」
エルナは少し笑った。
「それなら前より上手に付き合えそうじゃない?」
「できれば付き合いたくないけどな」
「それは声にも言っておいた方がいいかもしれないね」
二人は少しだけ笑った。
その直後。
短い声が響いた。
――東へ行け。
ワッパは笑うのをやめた。
「また東へ行けって言った」
エルナが身体を起こそうとした。
「それならやっぱり行くしかないね」
「今すぐ起き上がろうとするなよ」
「明日には行けるかもしれないよ」
「薬師が許可するまで出発しないからな」
エルナは不満そうな顔をした。
それでも横になった。
ワッパは声の言葉を記録した。
東へ行け。
これまでの情報と一致している。
だからといって声だけを理由にはしない。
村長の古い記録。
エルナの母親。
黒い構造物。
響界という言葉。
東の保管所。
現実側にも、向かう理由は十分に増えている。
ワッパは紙を閉じた。
その日、人間は何度も嘘をついた。
疑われたレクは嘘をついていなかった。
村長はエルナを守ろうとして、母親が一度死んだことを隠していた。
そしてワッパ自身も、エルナが必ず助かると無責任に言うことはしなかった。
人間の言葉は、正しいか間違っているかだけでは測れない。
嘘の中に優しさがあることもある。
本当のことが誰かを傷つける場合もある。
その複雑さを知っているからこそ、人間は言葉を選ぶ。
しかし頭の中へ響く短い声は、そういう迷いを持っているようには見えなかった。
必要な情報だけを告げる。
説明しない。
慰めない。
そして今まで確認できた範囲では、一度も現実から外れていない。
ワッパは眠り始めたエルナを見た。
三日という言葉は当たった。
死ぬという言葉も当たった。
それでもエルナは、今ここで呼吸している。
声は嘘をつかなかった。
けれど人間であるワッパは、その本当の意味を間違えていた。
だからこそ、次に声が何を告げても、言葉の向こう側まで勝手に決めつけてはいけない。
そのことを胸へ刻みながら、ワッパは東へ向かうための地図をもう一度開いた。




