3話:当たり前にする
昼になった。
広場に住民が集まり始めている。
だが、足取りは重い。義務で来たような顔がほとんどだ。
また何か始めるらしい、どうせすぐ飽きる。そんな声が聞こえる。
大鍋の蓋を開けた。
芋と干し肉のスープ。湯気が立ち上ると、広場の空気が変わった。
匂いだ。腹を空かせた人間には、これが一番効く。
竈にくべた石炭が赤い火を上げている。広場の中央に熱が広がっていく。
「……あったかい」
最前列の老人が呟いた。あの「仕方ありませんよ」と笑った爺さんだ。
俺は自分で柄杓を取った。
「食べてくれ」
最初の一人が椀を受け取るまで、少し間があった。
だが一人が飲めば、次が来る。列ができた。
美味い、石が燃えとるのか、あったかいね——口々に声が上がる。
顔が変わっていく。警戒が、驚きに。
ガルドが近づいてきた。
「……大したもんだ」
腕を組んで広場を見渡している。民の顔を見る目に、さっきまでの諦めはない。
「三日だと言ったな。——約束は果たしたんじゃねえか」
「いや」
俺はガルドを見た。
「本番はこれからだ」
***
広場の隅に、あの兄妹がいた。
兄の方が、遠巻きにこちらを見ている。妹の手を握ったまま。
列には並んでいない。大人の間に割って入る度胸がないのだろう。
俺はスープを二杯掬って、そっちに歩いた。
「ほら」
兄が目を見開いた。妹を背中に庇おうとする。
三日前と同じだ。この子はいつも、妹を守る側に立とうとする。
「熱いから気をつけろ。——お前の分もあるからな」
兄が、おそるおそる椀を受け取った。
一口飲んで、目が丸くなった。
妹に椀を差し出す。妹が啜って、小さな声を上げた。
「おいしい」
兄が、笑った。
三日前の、無理に作った笑顔じゃない。
「——お前たち、このあと時間あるか」
兄が不思議そうな顔で頷いた。
「ちょっと来い。面白いもの見せてやる」
***
廃屋の前に、子供を十人ほど集めた。
兄妹もいる。他はガルドが声をかけてくれた家の子供たちだ。
扉を開ける。
中に入った瞬間、子供たちが足を止めた。
「……あったかい」
暖房の効いた室内。石炭の竈が部屋全体を温めている。
外との温度差に、子供たちの顔がぽかんとしている。
「奥に風呂がある。順番に入れ」
「ふろ?」
「湯だ。あったかい湯に体ごと浸かれる」
ゲイルが釜の横に立っていた。桶に湯を汲んで、手で温度を確かめている。
「よし、いい湯加減だ。ほれ、入んな」
最初の子が恐る恐る足を入れて——絶叫した。
「あっっったかい!!」
堰を切ったように、子供たちが群がった。
湯が飛び散る。ゲイルが「おいおい暴れんな!」と怒鳴っているが、顔は笑っている。
すげえ、もっと入りたい、出たくない——収拾がつかない。
騒ぎを聞きつけて、外で待っていた親たちが覗き込み始めた。
やがて、子供たちが出てきた。
頬が真っ赤で、体から湯気が立っている。目が輝いている。
さっきまでの、こけた頬と紫色の唇とは別人だ。
あの兄が、妹の手を引いて出てきた。
妹が走り出した。外にいた老婆——祖母だろう——に飛びついた。
「おばあちゃん、あったかかった! おふろ! おふろすごかった!」
老婆が、孫を抱きしめたまま動けなくなっていた。
俺は広場の中央に立った。
「三日でできたのは、廃屋一つの改装だけだ。大したことじゃない」
住民の視線が集まる。さっきまでとは、目の色が違う。
「だが見ての通り、廃屋一つでもこれだけ変わる。石炭はある。芋もある。あとは手と時間の問題だ」
俺は子供たちを——まだ興奮冷めやらぬ顔で走り回っている子供たちを指した。
「これを、当たり前にする。全部の家を暖かくして、毎日腹いっぱい食えるようにする。風呂だって、いずれは各家に作る。——ただし、俺たちだけじゃ手が足りない」
間を置いた。
「力を貸してくれないか」
静かだった。
最初に動いたのは、あの老人だった。「仕方ありませんよ」と笑った爺さん。
「……仕方ない、と思っておりました」
しわだらけの顔が、くしゃっと歪んだ。
「手伝わせてください、殿下」
一人が動けば、次が来る。
俺もやる。婆さんにも風呂入れてやりてえ。何すりゃいい、言ってくれ。——声が重なっていく。
ガルドが腕を組んだまま、黙って広場を見ていた。
その口元が、わずかに緩んでいるのが見えた。
***
そこからは、収拾がつかなかった。
大人たちが廃屋に順番に入っていく。出てくるたびに顔が変わる。
子供たちは広場を走り回っている。石炭の火の周りには老人たちが集まって、手を温めながら何か話している。
おかわり、並べ、ばあちゃん泣くな——あちこちから声が飛ぶ。
騒がしい。だが、三日前とは違う騒がしさだ。
俺はスープの配膳を続けながら、この光景を目に焼きつけていた。
ふと、広場の端に目が止まった。
銀色の髪。
人混みの向こうに、一人だけ静かに立っている女の子がいた。
歳は俺と同じくらいか。細い体にくたびれた外套を羽織って、広場の喧噪を少し離れた場所から見ている。
子供がそばを通りかかると、かがんで何か声をかけた。子供が笑った。
その瞬間だけ、硬かった横顔がふっと柔らかくなった。
列にも並ばず、誰と話すわけでもなく、ただ見ている。
何者だ——少し気になった。
「殿下、お椀が足りません」
セバスの声で我に返った。
「ああ、すまん」
配膳に戻る。銀髪の子は、もう人混みに紛れて見えなくなっていた。
***
日が暮れた。
広場にはまだ人が残っていたが、少しずつ散っていく。
ありがとうございます、明日も来ていいですか。手を振る声。笑顔。
三日前には見られなかったものだ。
片付けを終えて、領主館に戻った。
全員、限界だった。
ゲイルが椅子に座ったまま動かない。ヴォルフですら壁に寄りかかっている。
セバスだけが、最後の茶を淹れていた。本当にいつ寝てるんだ。
「……殿下」
ガルドが入ってきた。
「明日から、何をすればいい」
短い言葉だった。だが、それで十分だ。
「まずはこの領地の情報を整理したい。人口、備蓄、土地の状態。全部だ。帳簿があるなら持ってきてくれ」
「帳簿か。……うちの娘が詳しい。明日連れてくる」
「頼む」
ガルドが出て行く。その背中は、三日前とは別人だった。
俺は椅子に深く座って、天井を見上げた。
始まったばかりだ。
石炭と芋だけじゃ、王位継承戦は勝てない。交易路、人材、技術。やることは山ほどある。
だが、今日はいい。
目を閉じると、子供たちの歓声がまだ耳に残っていた。
***
翌朝。
ガルドが一人の少女を連れてきた。
銀色の髪。細い体。くたびれた外套。
——昨日、広場の端に立っていた子だ。
「娘のリーネだ。帳簿のことはこいつに聞いてくれ」
ガルドはそれだけ言って、出て行った。
リーネは一礼した。表情はない。
「帳簿をお持ちしました」
差し出されたのは、古びた革の綴じ帳だった。開くと、細かい数字がびっしり並んでいる。人口、備蓄、作付面積、井戸の水量。字は整っていて、数字に一つも訂正がない。
「……これ、お前が書いたのか」
「はい」
「いつから」
「前の領主代理がお辞めになってから。三年ほど前です」
三年。つまり、誰にも求められていない間もずっと記録を続けていたということだ。
「よくできてる。助かる」
リーネは少し間を置いた。
「前の方々にもお渡ししました」
静かな声だった。
「お読みになった方は、いませんでしたが」
目が合った。
期待していない目だった。諦めとも違う。最初から何も賭けていない目。
俺は帳簿を開き直した。
「……備蓄の減少ペース、ここの計算、合ってるか。かなり厳しい数字だが」
リーネの目が、ほんの一瞬変わった。
「合っています。先月の実測値です」
「ここから食料生産が回復した場合の損益分岐点は出してあるか」
「……出していません。回復する前提がなかったので」
「出してくれ。芋の収穫量の試算はこっちで出す。今週中に突き合わせたい」
リーネが黙った。
「……読むんですね」
「読む。毎日使う。だからこれからも頼む」
長い沈黙があった。
「……承知しました」
声は変わらなかった。表情も変わらなかった。
ただ、帳簿を渡す手が、少しだけ丁寧になった気がした。
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