1話:三日だけ
「おはよう。死んだよ、君」
目の前に、青いジャージの男が座っていた。湯呑みを啜っている。
「……は?」
「化学メーカー勤務、研究職、享年三十二歳。帰り道にトラックに轢かれて即死。お疲れさん」
直前の記憶が蘇る。
退職届を出した帰り道だった。世界最大手の外資から声がかかっていた。年収5倍。社内では十年かけた成果を「計画にない」の一言で潰されたが、外の世界はちゃんと認めてくれた。
やっと——と思った矢先に、ここにいる。
「で、本題。君にはこれから異世界で王子をやってもらう」
「……待ってくれ。状況を整理させろ」
「いいよ、手短にね」
男——自称・神は、手元のクリアファイルをぱらぱらめくった。表紙に太いマジックで『シンラ王国・転生案件(至急)』と書いてある。
「質問があるなら」
「拒否権は」
「ある。断ったら魂を初期化。候補はアマゾンの蝉か深海のバクテリア。自我なし」
「……で、その至急案件って?」
「シンラ王国の第三王子に転生。10年後に来る魔王軍を何とかしてほしい。兄二人。三年後に王位継承の審査があって、各王子に辺境領を与えて経営の成果で次の王を決める方式」
「兄が王になった場合の勝率は」
「ゼロ。彼らは優秀だけど、常識の範囲で戦う。魔王軍は常識の外から来る」
常識の外。化学メーカーで十年やってきた知識がある。確かに、俺にはその手札がある。
「条件次第だ。何がもらえる」
「話が早い。まず『運命点』を1000点あげる」
空中に半透明のウィンドウが浮かんだ。
【所持運命点:1000】
「因果をねじ曲げる力。消費した分だけ、都合のいい方向に現実が動く。ただし使ったら減る。補充は基本ない」
「1000で10年持つのか」
「全部これで賄おうとしたら全然足りない。要所で使うもんだ。——あと、運命点の前払いで初期条件をいじれる。オプション」
時間をかけた。一つずつ確認して、削れるものを削った。
【消費:300点 残:700点】
神が一覧を覗き込んで、軽く口笛を吹いた。
「へえ。面白い買い方するね」
「何が面白い」
「いや、普通はさ、自分を強くするんだよ。剣術とか、魔法とか。君、自分には一点も使ってないでしょ」
俺は答えなかった。
神が立ち上がった。
「じゃ、行ってらっしゃい。第三王子アレン君」
立ち上がりかけた時、神が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。一個だけ言い忘れてた」
湯呑みを置いて、初めてまともにこちらを見た。
「君だけじゃないよ。もう一人、送ってある」
「……何?」
「魔王軍の側にね」
笑っていた。いつもの軽い調子で。
でも、目だけが笑っていなかった。
「同じルール。運命点1000。好きにオプション選ばせた。何を買ったかは教えない。向こうにも君のことは教えてない。平等でしょ?」
「——待て。もう一つ聞かせろ」
「だーめ。時間切れ」
背中をばしっと叩かれた。
「ま、頑張って。相手も頑張ってるから」
——"も"?
聞きたいことはまだあった。でも、視界はもう白く染まり始めていた。
***
馬車を降りた瞬間、風の冷たさが肺を刺した。
灰色の空。崩れかけた石の建物。屋根に苔。道を歩く住民はまばらで、目が合ってもすぐに逸らされる。
北の辺境、アルカス領。控えめに言ってハズレ。
王位継承の審査で、兄たちに与えられたのは西の要衝クレイドと南の交易拠点セリオ。どちらも領地として一級品だ。
俺の名前が呼ばれた瞬間、式典の広間の空気が弛んだのを覚えている。前列の貴族が隣に耳打ちした——「北の墓場じゃないか」。小さな笑いが続いた。
長兄ヴァリウスはこちらを見もしなかった。眼中にない。
次兄リアンが一瞬だけ目を向けた。同情の目だった。いらない。
あの広間にいた全員が、評価する価値すらないと思っていた。
——十年かけて積み上げたものを「計画にない」の一言で潰された時と、同じ空気だ。
「……また来たのか」
出迎えの第一声がそれだった。
四十代半ばの大柄な男。短い髪、日焼けした肌。
目が死んでいる。
「自警団長のガルドでございます」
隣でセバスが耳打ちする。白髪の老執事。唯一最初からこちら側の人間だ。
「アレンだ。今日からここを治める」
ガルドは俺を一瞥して、視線を外した。
「好きにしてくれ。前の奴も、その前の奴も、来ては帰っていった」
「領地を見て回りたい。案内を頼めるか」
「セバスに聞いてくれ。俺は忙しい」
忙しい。この人員で、何に。
聞き返そうとしたが、ガルドはもう背を向けていた。
***
セバスの案内で歩く。
井戸は二つ、片方は凍結。畑は雪で半分死んでいる。住居は石造りだが隙間だらけで、室内でも息が白い。
「住民はおよそ二百名。若い男は多くが出稼ぎに。残っているのは老人、女性、子供が中心です」
産業がない。労働力もない。
備蓄の減り方を逆算すると、来月にも死人が出る。
すれ違った老人に声をかけた。
「食料は足りているか」
穏やかな顔で笑われた。
「仕方ありませんよ。ここはそういう土地ですから」
——仕方ない。
足が、一瞬止まった。
穏やかに笑って諦めている顔。どこかで見た気がした。
(北の山。あそこに仕込んだものがあるはずだ。明日、確認に——)
頭の中で段取りを組んでいた。その時だった。
路地の奥から、泣き声が聞こえた。
小さな女の子だ。五つくらい。ボロ布を巻いただけの薄着で、壁際にしゃがみ込んでいる。
その横に、もう少し上の男の子。兄だろう。
兄の方も同じくらいボロボロだった。頬がこけて、唇は紫がかっている。
兄が妹の肩を引き寄せた。小さな体で風を遮るようにして、抱え込む。
そして——笑った。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんがいるから」
足が止まった。
——大丈夫ですから。先輩、心配しないでください。
あいつも、こう笑っていた。
その三ヶ月後に死んだ。
気づいた時には馬車に向かって歩いていた。
「殿下?」
セバスの声が遠い。
荷台を開けて、食料を引っ張り出す。干し肉。穀物袋。毛布。全部。
「殿下!? それは我々の——」
ヴォルフが声を上げた。
「全部出せ」
腕いっぱいに物資を抱えて、ガルドのところに戻った。
「渡す。多くはないが、今あるだけ全部だ」
ガルドが目を見開いた。
「何を——」
「三日だ」
ガルドの目を見た。
「三日でどうにかする。食料も、暖も。だから三日だけ、これで持たせてくれ」
「……何言ってんだ、あんた。来たばかりだろうが」
「ああ。何の実績もない。信じる理由もない」
「なら——」
「住民の信頼を得るには実績が要る。実績を積むには住民が生きてないと始まらない。目の前で死人を出してから動いても遅い」
「三日だけ、俺に時間をくれ。誰も死なすな」
ガルドは黙って俺を見ていた。
長い沈黙だった。
セバスが俺の横に来て、何も言わず物資の整理を始めた。
ヴォルフも、黙って荷物を運び始めた。
ガルドが、ゆっくりと腕を組んだ。
「……三日だけだ」
低い声だった。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「あんた、さっき理屈を並べたな。住民の信頼がどうとか、順番がどうとか」
「ああ」
「あれは後付けだろう」
俺は、少し間を置いた。
「……そんなことない」
ガルドは鼻を鳴らした。
***
明日、北の山に行く。運命点で仕込んだものが使えるかどうか、この目で確認する。
三日。その間に、この領地を生かす手を見つける。
ただ——原料があったとして、この領地にはそれを形にする炉もなければ、まともな秤もない。
前世では白衣を着て精密機器に囲まれて仕事をしていた。ここには何もない。
順番を間違えるな。まず見る。考えるのはそれからだ。
セバスが夜の執務室に茶を運んできた。
「殿下。前の方々は、到着の翌日にはもう帰り支度をしていたそうです」
「……そうか」
「荷を解く前に民に物資を配った方は、初めてだとか」
それだけ言って、茶を置いて下がった。
灰色の空の向こう、北の山の稜線が暗く沈んでいる。
——もう一人いる。
魔王軍の側に、同じ手札を持った誰かがいる。
そいつは、もう動いている。
10年。たった10年しかない。
その間にこの死にかけの領地を、武器に変えなきゃいけない。
北風が窓を鳴らした。
山の向こうの空が、うっすら赤い。
あの山の向こうに、何が待っているのか。まだ何も見えない。
ただ——さっき、あの兄が毛布を受け取りながら俺を見上げた。
何も言えずに、目を赤くして頭を下げた。
あの顔を、忘れない。
三日だ。三日で、ここを変える。
***
魔大陸の片隅で、銀髪の魔人が自分の手を見つめていた。
握ったり、開いたり。
「はは、すげえ。マジですげえ。この体、マジで最強じゃん。魔力やべえ」
紫の瞳に、飢えた光が宿っている。
「見てろよ。俺の時代だ」
運命点、残り——0。
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